Дама с Рилаккумой

または私は如何にして心配するのを止めてリラックマを愛するようになったか

2023年に読んだ本ベストテン

1・松本清張『昭和史発掘』(全九巻、文春文庫)

2・立花隆天皇と東大』(全四巻、文春文庫)

3・清水晶子・ハン・トンヒョン・飯野由里子『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』(有斐閣

4・森岡正博『生まれてこないほうがよかったのか? 生命の哲学へ!』(筑摩選書)

5・ジョリス=カルル・ユイスマンス『さかしま』(澁澤龍彦訳、河出文庫

6・サマセット・モーム金原瑞人MY FABORITE 征服されざる者 The Unconquered/サナトリウム Sanatrium』(青灯社)

7・Joyce Carol Oates, "Where Are you Going, Where Have You Been?"/ジョイス・キャロル・オーツ「どこへ行くの、どこ行ってたの?」(柴田元幸訳、『英文精読教室 第4巻 性差を考える』(研究社)収録)

8・ローリー・グルーエン編『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』(大橋洋一監修、平凡社

9・滝澤弘和『現代経済学 ゲーム理論行動経済学・制度論』(中公新書

10・豊島圭介『「東大怪談」 東大生が体験した本当に怖い話』(サイゾー

 

 

 

1・松本清張(1909-1992)『昭和史発掘』(全九巻、文春文庫)

 1964年から1971年にかけて『週刊文春』に連載されたもので、今日では歴史的資料としては古い。また作者の松本清張推理小説家であるため、考証の飛躍が目立つ。しかし連載当時には生存していた当事者の証言を多用したオーラル・ヒストリーの先駆としての側面があり、何より当時の時代の空気を伝えている。

 昭和史とあるが扱っているのは戦前のみで、しかも後半は二・二六事件に絞られている。いびつな構成ではあるが、読み進めていけば二・二六事件に行かざるを得ない必然性を感じさせられる。

 第一巻の最初に扱われるのは、陸軍の田中義一が政界入りしたときの持参金の出所をめぐる「陸軍機密費問題」で、その後の展開の伏線ともなっている。文壇ゴシップも取り上げられ、「芥川龍之介の死」では、多くの文芸関係者が象徴的に取り上げてきた芥川の自殺を、執拗に愛慾を描き続けた清張らしく女性問題の側面から取り上げる。不倫相手がいたことは芥川の遺した文章の中にもはっきりと書かれているのだが、多くの人がその事実を意外と読み飛ばしており、芥川の死を「将来に対するぼんやりした不安」として回収してしまっていることに気づかせられる。また当時の部落差別と軍隊組織を逆手に取った抵抗を描く「北原一兵卒の直訴」も泣かせる。

 第二・三巻から徐々に暗雲が立ち込める。橋本欣五郎による蹶起計画(三月事件、十月事件)は、蹶起後の首班に考えていた荒木貞夫に叱責されるなどで、あっけなく失敗に終わるが、橋本の処分が軽かったことなどもあって、その後頻発する軍部の蹶起の前哨となる。その後のクーデタ計画における橋本欣五郎は、首謀者のところに首を突っ込みおこぼれにあずかろうとするものの、失敗に終わると自分は無関係だったとそそくさと逃げる狂言回しに過ぎなくなる。二・二六事件に至るまでのクーデタ計画は、血盟団事件五・一五事件、神兵隊事件、救国埼玉挺身隊事件など大掛かりかつ深刻になっていく。

 クーデタ計画の傍ら弾圧も進む。特高から日本共産党の中枢にまで食い込み、共産党員による大森銀行ギャング事件を指嗾したと噂され、幹部の会合情報を流して戦前の共産党を壊滅させたスパイMは、戦後もその正体はわかっていない(「スパイMの"謀略"」)。京大の滝川教授の罷免をめぐって京大法学部は文部省に敗北し(「京都大学の墓碑銘」)、天皇機関説に関する美濃部達吉貴族院での弁明演説は『昭和史発掘』内ではほとんどみられない理知的な言葉に感激してしまうものだが、度重なる攻撃によって追い詰められていく(「天皇機関説」)。

 陸軍では統制派と皇道派の対立が激化し、真崎甚三郎、荒木貞夫平沼騏一郎大川周明西田税北一輝永田鉄山石原莞爾などキーパーソンが順々にあらわれるなか、最後に二・二六事件の首謀者である青年将校らが表舞台に出る。

 青年将校の中で印象に残るのは、安藤輝三と磯部浅一の対照的な二人である。安藤大尉は、部下に慕われ統制派幹部にも信頼されていた。そのために合法的闘争を志向し、部下を巻き込むことを恐れて蹶起に反対であったものの、決行直前になって賛成に回り、蹶起部隊の主力となった。状況が悪化して他の青年将校らが降伏に応じていく中でも、安藤を信じる部下と共に最後まで抵抗を続けた。一方で、安藤の蹶起参加のために粘り強く説得し続けた磯部は狂信的である。陸軍士官学校事件などで既に軍隊を追われていた磯部は自由な時間を使って昭和維新のため精力的に活動し続けた。しかし青年将校らの意に反して天皇の奉勅命令がくだり、獄中で「天皇陛下 何と云う御失政でありますか」「皇祖皇宗に御あやまりなされませ」と天皇への呪詛に満ちた文章を記す。戦後、磯部の文章の熱気にやられた三島由紀夫が、人間宣言をした天皇を批判する『英霊の聲』を著した。執筆当時、美輪明宏は三島に磯部の霊が憑いているのをみており、それが自決の遠因になったのではないかと語っている。

 青年将校らをけしかけた皇道派や民間右翼らは実際の蹶起が近いと知ると物怖じして保身に走った。しかし青年将校らの純粋無垢な思いはもはや外からは抑えきれない力として爆発し、そのまま破局へと突き進むほかなかったのである。

 

2・立花隆(1940-2021)『天皇と東大』(全四巻、文春文庫)

 2021年に逝去した立花隆の本はかなりの数が絶版になっている。元々社員として勤めていた文藝春秋の文春文庫でも多くが絶版となっており、『天皇と東大』も品切れのようだ。電子版であればまだ買えるものもあり、必ずしも紙媒体の情報にはこだわらなかった立花らしいとも言えるが、一時代を築いたノンフィクション作家が急速に忘れ去られていくことに一抹の寂しさもある。

 『天皇と東大』は、主役を天皇におき、さらに中心舞台を東大(帝国大学東京帝国大学)に設定して大日本帝国の盛衰を描く。東大は1960年代の大学紛争などから左翼的なイメージが強いが、左翼運動だけではなく右翼運動の発信地でもある。国家人材の育成が大学設立の目的であったのだから当然といえば当然ではあるものの、右翼としての東大はあまり着目されてこなかった。

 戸水寛人、上杉慎吉平泉澄、筧克彦、蓑田胸喜など、現代では保守論壇以外ではほとんど忘れ去られている著名な右翼思想家・学者の言動を多数取り上げて時代の空気を蘇らせている。

 

3・清水晶子(1970-)・ハン・トンヒョン(1968-)・飯野由里子(1973-)『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』(有斐閣

 日本語で読めるポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)の概説書はこれまでなかったように思われる。本書でも指摘されているが、ポリコレではなくポリコレ批判が先立ってしまったために、ポリコレ批判の通俗的な著作はたくさん出てくるのに肝心のポリコレを解説したガイドブックのような本が存在しないという好ましくない状況が続いていた。講談社現代新書ちくま新書あたりで出してくれそうな気がしていたが、法律・経済学関係の本を中心としている有斐閣から本書が出版されることとなった。

 著者3名は左派系の論壇でよく知られているが、特徴的なのは即決ではなくためらいの姿勢である。ポリコレといってもその内部で対立し合うこともある。例えばハリー・ポッターの作者であるJ・K・ローリングフェミニズム運動に積極的で、またダンブルドアはゲイだと公言しており同性愛にも理解があると言えるが、トランスジェンダーについては女性の偽物が本来の女性の権利を侵害していると激しい攻撃を続けており、欧米では批判あるいはキャンセルカルチャーの対象となっている。日本の方ではローリングのことはあまり知られていないようであったが、この1、2年でトランス差別も欧米から上陸して「市民権」を得つつあるようである。

 このように複雑な様相をみせているポリコレの目指すべき姿は定まっているとはいえない。本書が元々予定していた題名は『ポリティカル・コレクトネスから未来へ』であったようだが、「どこへ」にするしかない状況では、ためらい、留保しながらも、少しずつ模索を続けるしかないのだろう。

 

4・森岡正博(1958-)『生まれてこないほうが良かったのか? 生命の哲学へ!』(筑摩選書)

 

 自分は生まれてこなければ良かった、あるいは人間は生まれてこない方が良い、という反出生主義(antinatalism)が急速に広まっている。反出生主義の発想自体は古くからある。ギリシャ悲劇のオイディプス王原始仏教、厭世主義哲学のショーペンハウアー、胎児自身が中絶選択の権利を持つ芥川龍之介の「河童」、シオラン(『生誕の災厄』!)……。面白いのことに、世界の若者に最も人気のある反出生主義者はポケモンミュウツーであるという説がある。『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』(1998)にて、自らを創った人間たちを呪い、「誰が生めと頼んだ? 誰が創ってくれと願った? 私は私を生んだ全てを恨む!」と叫ぶミュウツーの悲憤が世界中の若者をして自らの生誕の呪詛に至らしめたという!

 本書はにわかに人気を集める反出生主義を哲学的に克服するために構想された「生命の哲学」の序章で、反出生主義の代表的哲学者である南アフリカのデイヴィッド・ベネターの主張(邦訳は『生まれてこない方が良かった 存在してしまうことの害悪』(すずさわ書店))を反駁することを中心に進められる。著者も同意するように、ベネターの主張は理論的でそれ自体としては挑戦的で興味深いものであるが、直感的におかしなもので、素人でもところどころに破綻やごまかしがあるのがわかる。ベネターの議論には、英語圏功利主義哲学・分析哲学の強みと悪いところの双方が顕著に現れているように思えるが、東洋、インドなどの世界中の哲学を援用しながらそれらをひとつひとつ哲学的に批判していく作業がスリリングであり希望に溢れている。

 

5・ジョリス=カルル・ユイスマンス(1848-1907)『さかしま』(澁澤龍彦訳、河出文庫

 世紀末のデカダン芸術を代表する作品で、病弱な青年が屋敷に引きこもって、自分の好きな本、美術について語り続ける。その人工的な小宇宙が癖になる。

 

6・サマセット・モーム(1874-1965)『金原瑞人MY FABORITE 征服されざる者 The Unconquered/サナトリウム Sanatrium』(金原瑞人訳、青灯社)

 英語児童文学研究者の金原瑞人金原ひとみの父)のお気に入り作品の英文コレクションで、モームからは「征服されざる者」と「サナトリウム」の二つが選ばれている。モームは昔は人気があって英語の入試問題でもよく出題されていたが、今日では代表作の長篇『月と6ペンス』『人間の絆』以外の短篇はそれほど読まれていない。しかし非常に読みやすくて面白く、英語も平易である。「征服されざる者」と「サナトリウム」の日本語訳については同じ金原訳の『ジゴロとジゴレット モーム傑作選』(新潮文庫)にある。

 イギリス作家らしい皮肉な作風を特徴としたモームの短篇の中では、「征服されざる者」と「サナトリウム」のどちらも違う意味で異色の短篇と言えるが、最も優れたものでもあろう。

「征服されざる者」は戦時下の性暴力を抉った悲惨な作品である。占領下のフランスにて、ドイツ兵は自分が襲った女性に対して、初めの自分の乱暴な行為を反省し、本当の愛情が芽生えたのだと言って求婚する。女性の両親もドイツ占領下という状況に鑑み、娘にドイツ兵の愛を受け入れるよう説得するが、妊娠した娘は頑なに拒み続け……。

 一方の「サナトリウム」は高原のサナトリウム結核患者やその家族の間で繰り広げられる愛情の諸相を描く。小説の最後は、I love youという夫から妻への言葉で終わる。 普段のモームだったら一番使いそうにない陳腐な言葉ではあるのだが、そこに至るまでの人間描写がうますぎて思わず泣かされるのである。

 

7・Joyce Carol Oates, "Where Are you Going, Where Have You Been?"/ジョイス・キャロル・オーツ(1938-)「どこへ行くの、どこ行ってたの?」(柴田元幸訳、『英文精読教室 第4巻 性差を考える』(研究社)収録)

 全6巻の『英文精読教室』は、近現代の英語作品の原文とその詳細な訳註とで構成されており、英文読解の練習にもなるし、作品自体も面白い。中でも、1966年に発表されたオーツの「どこへ行くの、どこ行っていたの?」は、怪奇描写はなく、ほぼ人間同士の会話だけで進むのに、英文で読んでいてもゾッとする話であった。

 アリゾナ州で実際にあった女性殺人事件を題材とし、旧約聖書士師記の逸話にちなんだ題名を付けられ、ボブ・ディランに献辞が捧げられる本作では、自分の容姿に自信を持つ少女コニーが留守番をしている家に、正体不明の若い男が執拗にデートに誘ってくる。初めは男と対等にやり合っていたコニーであったが、次第に男の不気味さに飲み込まれてしまう。アメリカの暴力的風景を描いてきたオーツの作品にしては暴力的な描写は皆無であるものの、会話劇の不条理さが際立っており恐ろしい。

『英文精読教室』で他によかった短篇は以下の通りである。

第1巻・物語を楽しむ

I. A. Ireland, "The Ending for a Ghost Story" (1891)
(I・A・アイルランド「幽霊ばなしのためのエンディング」)
W. W. Jacobs, "The Monkey's Paw" (1902)
(W・W・ジェイコブズ「猿の手」)
Shirley Jackson, "The Lottery" (1948)
 (シャーリイ・ジャクスン「くじ」)

James Robertson, "The Miner" (2014)
 (ジェームズ・ロバートソン「坑夫」)

第2巻・他人になってみる

Agnes Owens, "The Dysfunctional Family" (2008)
 (アグネス・オーエンズ「機能不全家族」)
Nana Kwame Adjei-Brenyah, "The Finkelstein 5" (2018)
 (ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー「ザ・フィンケルスティーン5」)

第3巻・口語を聴く

Mark Twain, "How I Edited an Agricultural Newspaper Once" (1870)
 (マーク・トウェイン「私の農業新聞作り」)

第4巻・性差を考える

Kate Chopin, "The Story of an Hour" (1894)
 (ケイト・ショパン「一時間の物語」)

第5巻・怪奇に浸る

Edgar Allan Poe, “The Masque of the Red Death”(1842)
 (エドガー・アラン・ポー「赤死病の仮面」)

第6巻・ユーモアを味わう

Philip K. Dick, “The Eyes Have It” (1953)
 (フィリップ・K・ディック「目はそれを持っている」)

William Saroyan, “The Man with the Heart in the Highlands” (1936)
 (ウィリアム・サローヤン「心が高地にある男)

 

8・ローリー・グルーエン(1962-)編『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』(大橋洋一監修、平凡社

 近年の人文科学・社会科学研究において注目されている動物論(アニマル・スタディーズ)について、人間中心主義、生政治、ヴィーガン、法などの29のトピックから詳細に解説している。今後の日本における動物論研究の基盤の本と言える。

 

9・滝澤弘和(1960-)『現代経済学 ゲーム理論行動経済学・制度論』(中公新書

 かつての経済学は、ケインズ経済学とフリードマン新自由主義経済学とのイデオロギー的な対立の側面から語られることが多かった。現代では、床屋談義はともかく、学問としての経済学は大きく姿を変えている。実証分析によりケインジアンマネタリズムの双方の主張を柔軟に修正して取り入れながら、心理学や生物学、歴史などの他の分野の知見も取り入れている。本書はそのように多様化していく現代経済学をコンパクトにまとめる。現代の諸学問に絶大な影響を与えているゲーム理論や、合理的経済人としての前提を修正した行動経済学だけでなく、日本ではポピュラーではない制度論(組織の経済学、新制度派経済学、法と経済学)にも紙面を割かれており貴重である。

 

10・豊島圭介(1971-)『「東大怪談」 東大生が体験した本当に怖い話』(サイゾー

 イロモノのつもりで面白半分で読んでいたのだが予想外の良著であった。著者は怪談もののドラマの脚本などを手がけてきており、ドキュメンタリー映画三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』の監督でもある。

 ジャンルとしては実話怪談の一種で、帯にもあるように「日本最高の頭脳が"説明不可"と震えた本当の恐怖」を蒐集することを目的としていたようだが、純粋な怪談としては他の実話ものと比べてさほど恐ろしいものではない。逆に印象深いのは、一つの恐怖体験が自らの苦しい人生経験と絡み合ってしまっているためにその体験を科学的に片付けられない一方で、むしろその実体験で自覚した自らのひずみが生きるはずみにつながっていることが語り口から感じられることである。

 勉強のストレスで発症した統合失調症で入院中に言葉を発せないはずの患者と会話できるようになっていた話、夫の海外赴任に伴い自身の仕事のキャリアを断絶して帯同した妻がバンコクのアパートでタイの精霊と仲良くなる話、義理の父の虐待で育つなか相模原の山中で「牛人間」に遭遇し大学卒業後の今もなおその山道に行ってしまう話など、身につまされる。

 インタビュイーへのアンケートも掲載されており、心霊現象と東大に落ちるのとではどちらが怖いかという質問があり、8割がたは心霊現象と答えていた。これは個人的には意外な結果であった。というのも、心霊現象と思しきものには、二、三度ちょっとだけ出くわしただけで大学卒業後は全くないのものの、高校卒業直前にある教科の単位が取れておらず留年することがわかって大学の合格を取り消しになる夢にはいまだに何回もうなされるからである。不思議なことに、単位が足りなかった教科は必ず決まっていて、得意でも不得意でもなく、先生も授業も特に印象には残っていない化学なのである……。

 

※その他の良かった本

石原千秋編『生れて来た以上は、生きねばならぬ 漱石珠玉の言葉』『教科書で出会った名句・名歌三○○』(新潮文庫

江藤淳『文学と私・戦後と私』(新潮文庫

大江健三郎『死者の奢り・飼育』(新潮文庫

川端康成『古都』(新潮文庫

志賀直哉『和解』(新潮文庫

谷川俊太郎『ひとり暮らし』(新潮文庫

頭木弘樹編『うんこ文学 漏らす悲しみを知っている人のための17の物語』(ちくま文庫

松本清張『波の塔』『証明』『疑惑』『火神被殺』『危険な斜面』『遠い接近』『神々の乱心』『事故』『陸行水行』『馬を売る女』『浮游昆虫』(文春文庫)

シェイクスピア『夏の夜の夢・あらし』(新潮文庫

モーム『月と六ペンス』『ジゴロとジゴレット』『英国諜報員アシェンデン』『人間の絆』『要約すると』(新潮文庫)『報いられたもの・働き手』(講談社文芸文庫

クッツェー『少年時代の写真』(白水社

つげ義春つげ義春 名作原画とフランス紀行』(新潮社)

北村一真『英文読解を極める』(NHK出版新書)

行方昭夫『読解力をきたえる英語名文30』(岩波ジュニア新書)

メン獄『コンサルティング会社完全サバイバルマニュアル』(文藝春秋

ティーブン・G・メデマ『ロナルド・H・コースの経済学』(白桃書房

渡辺努『物価とは何か』(講談社選書メチエ

2023年に観た映画ベストテン

今年はインボイスと電帳法対応が忙しくて全然観られませんでした…。

 

1・セルジオ・レオーネ『ウエスタン(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト)』(1968、伊・米)

2・酒井耕・濱口竜介『東北記録映画三部作 第一部 なみのおと』(2011、日)

3・酒井耕・濱口竜介『東北記録映画三部作 第二部 なみのこえ 気仙沼』(2013、日)

4・酒井耕・濱口竜介『東北記録映画三部作 第二部 なみのこえ 新地町』(2013、日)

5・酒井耕・濱口竜介『東北記録映画三部作 第三部 うたうひと』(2013、日)

6・ロベール・ブレッソンジャンヌ・ダルク裁判』(1962、仏)

7・シアン・ヘダー『CODA コーダ あいのうた』(2021、米・仏・加)

8・シャンタル・アケルマン『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975、ベルギー・仏)

9・城定秀夫『夜、鳥たちが啼く』(2022、日)

10・森達也『FAKE』(2016、日)

 

1・セルジオ・レオーネ(1929-1989)『ウエスタン(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト)』(1968、伊・米)

 マカロニ・ウエスタン(ハリウッドを模倣してイタリアで製作された西部劇)の代表的監督であるセルジオ・レオーネアメリカで製作した大作で、いわゆる「ワンス・アポン・ア・タイム三部作」の最初の作品である。

 イタリア時代の「ドル三部作」(大ヒットしたという興行的意味を含めて「ドル箱三部作」ともいう)でもカット割などに個性があったが、本作ではディレクターズ・カット版で160分超に及ぶ長尺を使って、遠慮なく作家性を吐き出している。冒頭の駅での待ち伏せのシーンが印象的で、風車の軋む音、蠅の羽音が断続的に続くなか、男たちの髭面がクローズアップで執拗に映し出される。やっと汽車が到着したが、目的と思われる人物は降りてこず、一瞬の緩みが生じたところ、不意にハーモニカ吹きの男(チャールズ・ブロンソン)が現れる……。全篇が人も環境も荒々しいものの、緩急をつけて繋がれていく構図が美しい。

 レオーネの作品群は、西部劇というジャンル自体がそもそもそうなのだろうが、男同士の絆が中心で、女性は周辺的なものか、蔑視の対象であることが専らであった。例外的に『ウエスタン』は女性が中心人物となっており、フェミニズム的要素も強い。ニューオーリンズで娼婦をしていたジル(クラウディア・カルディナーレ)は、西部の到着直前に夫家族をギャングに殺され広大な牧場を相続することとなる。ギャングたちの陰謀に妨害されながら、謎のハーモニカの男の手助けを受けて牧場の再興に励む彼女と、荒地に伸びていく鉄道によって、男たちの西部開拓の時代は過ぎ去っていくことが象徴される。

 

2・酒井耕(1979-)・濱口竜介(1978-)『東北記録映画三部作 第一部 なみのおと』(2011、日)

3・酒井耕・濱口竜介『東北記録映画三部作 第二部 なみのこえ 気仙沼』(2013、日)

4・酒井耕・濱口竜介『東北記録映画三部作 第二部 なみのこえ 新地町』(2013、日)

5・酒井耕・濱口竜介『東北記録映画三部作 第三部 うたうひと』(2013、日)

http://silentvoice.or.jp/works/naminooto/

 商業映画デビューする前の濱口竜介の作品は相当数あるが、監督本人が映画館に足を運んで欲しいという意思があるようで、DVDやネット配信はほとんど行われておらず、鑑賞する機会が非常に限られている。この東日本大震災のドキュメンタリーも、映画祭や有志の上映会などでなければなかなかみられず、劇映画ではないのでその上映の機会もかなり少ない。しかしながら、濱口竜介のその後の演出技法の源流を確認できるだけでなく、震災の記録映画自体として非常に優れたものであり、もっと知られてほしい作品である。

 せんだいメディアテークの「3がつ11にちをわすれないためにセンター」のアーカイブとして、岩手から福島の沿岸地域を縦断して撮影されたこのドキュメンタリーにおいて、被災地の映像はほとんどなく、住民同士の対話でつなげられている。その対話方式が異質で、家族や仕事仲間などの親密な人間同士を、あえて全くの他人であるかのように仮定して進められていく。はじめに氏名と属性を名乗りあって、当人らにとっては既知のことであるはずのその日の経験がカメラの前での語り直しで異化されることによって、隠されていた思いが浮き出てくる。

 

6・ロベール・ブレッソン(1901-1999)『ジャンヌ・ダルク裁判』(1962、仏)

 ジャンヌ・ダルクの映画といえば、ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』(1928)の方が有名だが、ロベール・ブレッソンは否定的だったようで、顔のクローズ・アップを多用した表現主義的で大仰な演出に辟易していたと『シネマトグラフ覚書』(筑摩書房)に記している。『ジャンヌ・ダルク裁判』は実際の裁判記録からの再現を試みた点はドライヤーと一緒だが、演出についてはブレッソンらしく抑制的で静謐になっている。ドライヤー版では戯画的に描かれている裁判官や司教たちは理知的であり、裁判も淡々と進む。その淡白さから、当時の英仏関係のもとに置かれた人々の行き場のない苦悩が滲み出てくる。

 

7・シアン・ヘダー『コーダ あいのうた』(2021、米・仏・加)

 CODA(Children of Deaf Adults)である女子高生が歌手を目指す。親子間の感情の衝突、経済的問題など学園・家庭ドラマ的な要素と、聴覚障碍者やヤングケアラーを取り巻く問題とがうまく組み合わさっており、物語として面白いだけでなく勉強になった。

 

8・シャンタル・アケルマン(1950-2015)『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975、ベルギー・仏)

 英国映画協会が10年に一度選出している、批評家が選ぶ史上最高の映画トップ100の2022年版で、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』やヒッチコックの『めまい』などの常連をおさえて第一位となった。前回の2012年版では35位でそれ以前にはランキング外であった。近年のフェミニズムの波による映画界の急変と(少なくとも一般の日本人にとっては)未知の映画作家の傑作が残されていたことに驚いた。

 ランキングのトップであるが非常に癖がある映画で、正直なところ好みは分かれるだろう。200分超もの上映時間を使って、ブリュッセルに住む未亡人の3日間を映すだけである。その3日間はおおむね反覆にすぎないが、少しずつ苛立ちが混じり込んで破局に至る。

 

9・城定秀夫(1975-)『夜、鳥たちが啼く』(2022、日)

 近年再評価が進む佐藤泰志(1949-1990)の小説の六度目の映画化となる本作は、舞台が函館ではなく東京近郊となっている。佐藤泰志というと函館のイメージが強いが、作家活動の半分ほどは、東京の国分寺市を拠点としており、国分寺周辺を舞台にした小説も多い。佐藤は国分寺の在住が長く、国分寺や国立、立川を舞台とした小説も多い。『きみの鳥はうたえる』や『草の響き』も映画版では函館が舞台に移されているが、原作の舞台は東京西部である。多摩地域で生活した作家としての一面は改めて注意するべきであろう(さらにいうと、佐藤と同じ頃、同じ国分寺で同世代の村上春樹がジャズバーを経営していた)。

 『夜、鳥たちが啼く』は、スランプに陥り同棲中の恋人にも去られた小説家が、その友人と離婚した妻とその子供に家を貸し自分は離れのプレハブに一人暮らすことによって生まれる顚末を描く。2014年に映画化された『そこのみにて光り輝く』の描写は直截的であったがどことなく品の良さを感じた一方、こちらの映画の方が抑制的な描写に留まっていたが生々しさ、色っぽさがあった。ピンク映画出身の監督だからこそ、佐藤泰志の小説特有の汗臭さをうまく表現できたように思える。

 

10・森達也(1956-)『FAKE』(2016、日)

 森達也は、地下鉄サリン事件直後にオウム真理教信者に密着したドキュメンタリー『A』(1998)で知られるが、今回は2014年にゴーストライター問題で一時期週刊誌やワイドショーを賑わした佐村河内守の自宅で取材している。題材は三面記事的なゴシップに過ぎないが(もちろん難聴者への誤解が広まってしまったという問題もある)、現代の報道の問題点を抉っている。

 自宅での取材交渉時に佐村河内氏を貶めたりはしないと約束していたはずのテレビ番組で、結局誹謗するような内容でインタビューが使われるなど、当時面白おかしく報道された騒動の裏側が分かる。その傍ら、バラエティ番組でチヤホヤされる新垣隆氏を自宅のテレビから苦々しく眺めたり、毎回の食事で異様な量の豆乳を飲み干したりなど、佐村河内氏の癖も感じられて面白い。

 しかし森達也は佐村河内氏に完全に寄り添っているわけでなくどことなく突き放している。視聴していて、佐村河内氏の言動の大半はそれなりに納得できるものの、全部とは言わない間でも少し誤魔化しているような違和感を残し続ける。

 

 

2022年に読んだ本ベストテン

1・徳田秋声『あらくれ・新世帯』(岩波文庫)

2・干刈あがた干刈あがたの世界』(全6巻、河出書房新社)

3・善教将大『大阪の選択 なぜ都構想は再び否決されたのか』(有斐閣)

4・井谷聡子『体育会系女子のポリティクス 身体・ジェンダーセクシュアリティ』(関西大学出版部)

5・ジェイ・B・バーニー『新版 企業戦略論』(全3巻、ダイヤモンド社)

6・遠山暁・村田潔・古賀広志『現代経営情報論』(有斐閣アルマ)

7・織田作之助夫婦善哉 決定版』(新潮文庫)

8・川端康成眠れる美女』(新潮文庫)

9・小泉悠『「帝国」ロシアの地政学 「勢力圏」で読むユーラシア戦略』(東京堂出版)

10・北村薫『雪・月・花 謎解き私小説』『水 本の小説』(新潮社)

 

 

1・徳田秋声(1872-1943)『あらくれ・新世帯』(岩波文庫)

 徳田秋声は前々からその名前を知りながら、十数年ほど読む契機がこなかった。

 最初に知ったのは、2020年に急逝した坪内祐三が、エッセイ集『人生天語』(文春文庫)において、神保町にある八木書店の『徳田秋聲全集』の完結を祝した回であった。地味で渋い作家、ということを何度も強調しながらも、夏目漱石谷崎潤一郎と並ぶ近代日本文学の三大文豪に挙げていた。坪内氏ほどの好事家がここまで評価する秋声という人物が気になった。

 それと同じ頃、読書家で知られた俳優の児玉清の自叙伝的な読書録『寝ても覚めても本の虫』(新潮文庫)を読んだ。読書家になったきっかけが秋声の『縮図』(岩波文庫)で引き込まれたからだと語られていた。『寝ても覚めても本の虫』はミステリーやエンターテインメント作品の紹介がほとんどを占めており(百田尚樹の『永遠のゼロ』が講談社文庫に収録されてからにわかに注目を集めたのも児玉清が文庫版解説で号泣しながら読んだと絶賛したこともあるだろう)、冒頭の純文学、それも自然主義作家の『縮図』だけが変に浮いているように思った。それが気になって『縮図』を手にしたが数頁読んでみて良さがわからず、同じ金沢出身の三文豪と呼ばれる泉鏡花室生犀星の名前は度々聞きおりにふれ読んできたものの、秋声だけはそれきり完全に縁が切れてしまった。

 2020年代に入ってから、間歇的に秋声のことを聞くことになった。

 はじめに遭遇したのは、岩波書店のPR誌『図書』2021年12月号の日本近代文学の研究者・大木志門氏のエッセイ「東京五輪の年に読む徳田秋声『縮図』」であった。そこでまず引用されていたのは、自然主義文学とは縁がありそうにもないビジネス誌ニューズウィーク日本版』の記事であった(「閻連科:中国のタブーを描き続けるノーベル文学賞候補が選ぶ意外な五冊」(2020年8月11日・18日合併号))。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/culture/2020/08/5-109.php

 挑撥的な作品により度々発禁となりながらノーベル文学賞の有力候補と言われている現代中国の作家である閻連科氏が選んだ一冊が「今日ではもはや日本の読者でさえ改めて読むこともない小説かもしれない」徳田秋声の『縮図』であった。マジックリアリズムの作風である閻連科が秋声を好むことに驚いた。

 さらに、岩波文庫での『あらくれ・新世帯』の刊行と『縮図』の増刷の背景には、DMMのゲーム「文豪とアルケミスト」で知った若年層からのリクエストが多かったことがあり、そのゲームにおいて美青年に転生した徳田秋声の人気は「如何せん目立たず存在感が薄いことは否めない」というキャラクター紹介にも関わらず、若者受けしそうな太宰治中原中也をもおさえているという!

 次に新潮社のPR誌『波』での北村薫氏の連載エッセイで不意に秋声が出てきた。様々な本の話題がつながっていくこちらのエッセイで、金沢出身の鏡花と犀星に続けて、秋声の逸話が語られ、そのまま北陸新幹線で金沢の徳田秋聲記念館での生誕150周年記念講演へと赴く。

 最後に『日本近代短篇小説選』(岩波文庫)の明治篇2に収録された短篇「二老婆」(1908)で再び秋声を読むこととなった。題名からしてあまり読む気はなく、アンソロジーとして義務的に読んだわけであるが、東京で貧困に喘ぐ二人の女性の生活の残酷さとそれをあくまで写実的に描写する冷淡ともいうべき筆致に衝撃を受けた。

 「あらくれ」は1915年に『讀賣新聞』で約100回にわたって連載されたが、毎回毎回主人公のお島が周囲の干渉に対して癇癪を起こし、その自己主張が当時の読者にも毎日強烈な印象を与えたことであろう。お島は養家からの結婚相手を拒絶して養家を出、日本中を彷徨しながら不甲斐ない男たちとの交流の傍ら自らの商売の道を切り開いていく。(秋声との関係は良好だったものの)反自然主義の位置にいた漱石が「あらくれ」を現実そのままを書いているだけで「その裏にフィロソフィーがない」と批判したことが有名だが、「あらくれ」は今日的な意味において紛れもなくフェミニズム文学であり、アクチュアルな意味合いで読み直されなければいけない作品である。

 

2・干刈あがた(1943-1992)『干刈あがたの世界』(全6巻、河出書房新社)

 干刈あがたは『ウホッホ探検隊』と『ゆっくり東京女子マラソン』というふざけたような題名の小説の作者としてのみ知っていたが、『戦後短篇小説再発見』の第4巻「漂流する家族」に収録されていた「プラネタリウム」に感動した。仕事が忙しくて家に帰ってこない夫を待つ妻とその息子たちが、楽しみを繕いながらなお隠せぬ寂しさを様子を描き、卑近な家庭風景の中に徐々に宇宙のイメージが入ってきて、ティッシュペーパーの箱で作ったプラネタリウムの底で妻子が愉悦に浸りながら漂流して終わる。

 干刈あがたは現在あまり読まれていない作家だが、離婚やシングルマザー、共働き、子育てといったテーマを扱った小説群はむしろ今こそ注目されなければいけないはずである。『ウホッホ探検隊』は離婚した母子家庭の手探りの交流を辿るが、息子の語る「僕たちは探険隊みたいだね。離婚ていう、日本ではまだ未知の領域を探険するために、それぞれの役をしているの」というように筆致は至ってユーモラスである。題名の「ウホッホ」もまた、離婚した父が家に来たときに躊躇いがちにする咳払いのことであり、微妙な感情の揺れ動きの中でも、離婚を必ずしも悲観的にとらえずむしろ新しい家族の形の創生として積極的・ユーモラスに模索していく。『ゆっくり東京女子マラソン』はPTAという文学ではほとんど扱われなかった舞台(強いて言えば筒井康隆の「くたばれPTA」くらい)にして女性が様々な問題をゆっくり乗り越えていく様子を描く。

 作者の早逝後刊行された『干刈あがたの世界』は、奥付を見る限りだと元々12巻を予定していたようだが、第一期の6巻のみで中断したらしい。干刈あがたの作品は朝日文庫河出文庫で『ウホッホ探検隊』が何度か再刊されているが現在あまり出回っておらず、それ以外の作品はほとんど見つけられない。この責任の一端は版元にあるといってよく、干刈がデビューしたのは福武書店が発行していた文芸誌『海燕』の新人賞であって、小説のほとんどが『海燕』に掲載後、福武書店から刊行、文庫化されていた。しかし出版事業に興味のない2代目社長になってから福武書店ベネッセコーポレーションに社名を変更し、文芸事業から完全撤退したため干刈作品のほとんどが絶版になってしまった。罪な話ではある。

 

3・善教将大(1982-)『大阪の選択 なぜ都構想は再び否決されたのか』(有斐閣)

 

 2018年の『維新支持の分析 ポピュリズムか、有権者の合理性か』(有斐閣)で知られる政治学者が、2020年の大阪都構想の再度の敗北の謎を読み解く。

 2020年11月に行われた大阪都構想の可否を巡る2回目の住民投票、コロナ対応で吉村洋文・大阪府知事が人気を集め、また関西で強固な地盤のある公明党が国政で協力関係にある自民党と袂をわかち応援に回ったことにより、可決されるとの予想が多かったが、前回と同じように僅差で否決された。

 感情的な議論が紛糾しがちな維新政治であるが、この本は実証データをもとに実態を紐解いていく。維新の会そのものの分析だけでなく、有権者の政治行動やデータ分析の実践方法の教科書としても優れている。

 エキセントリックな言動で目立つ創設者の橋下徹や吉村知事の存在は主要な支持要因ではなく、維新の地元政策の効果を実感して緩く支持している支持者の方が多い(国政では維新ではなく自民党への投票が多い)。維新支持の理由の主たるものはこれまでの大阪府大阪市の二重行政の弊害打破への期待であったが、維新の登場によって相当の程度で改善された。逆に言うと、現状で維新のおかげでもう回っているから、わざわざ大阪都に移行するメリットを感じられなくなったという。維新政治の本丸であるはずの大阪都構想は、維新支持者によって逆説的に否決されたといえる。

 再び都構想が否決されたとはいえ、維新はその後も広く支持を集めている。都構想の支持者は相当数いたのだから、たとえ反対派であっても二重行政に関する問題は真摯に取り組まなければならないと釘を刺す。コロナ以降は独裁・権威主義体制の方が優れているという議論がにわかに広まったが、この本は地味な代議制民主主義の長所をも暗に示している。

 

4・井谷聡子(1982-)『体育会系女子のポリティクス 身体・ジェンダーセクシュアリティ』(関西大学出版部)

  これまで男性が中心であったサッカーやレスリングを主な題材として、日本の女子スポーツがをフェミニズム理論、クィア理論やポストコロニアル理論(この辺りは欧米での既存研究にはあまりみられない独自性がある)などを用いて分析する。「女らしくあれ」という要求と「女になるな」という要求とが同時に突きつけられる矛盾したフィールドのうちに孕む問題と可能性を探っていく。用いられる理論は決してわかりやすいものではないが、馴染みのある女子スポーツの見方を確かに変容させる研究書であった。

 

5・ジェイ・B. バーニー(1954-)『新版 企業戦略論』(全3巻、ダイヤモンド社)

 RBV(Resource Based View)の代表的研究者であるバーニーによって作成された企業戦略論のテクストで、MBAでも広く教科書として用いられている。RBVとは反対のポーターのポジショニング理論にも触れられており参考になる。

 

6・遠山暁・村田潔・古賀広志『現代経営情報論』(有斐閣アルマ)

 近年盛んに言われるようになったDX(デジタル・トランスフォーメーション)の教科書と銘打たれているが旧版の『経営情報論』は2003年に刊行されている。それだけに流行に囚われない確固とした社会学的・思想的な議論が展開されており類書と一線を劃す。

 開発手法やUI、データベースなどの基本的な話題にも触れながら、本書で一貫して主張されているのは、一回DXを取り入れれば解決するというような「技術決定論」はあり得ず、情報技術は人間と社会との軋轢を経ながら、徐々にそれらを変え、また変えられていくという思想である。

 

7・織田作之助(1913-1947)『夫婦善哉 決定版』(新潮文庫)

 甲斐性なしの男とそれに呆れながらも付き添って生計を立てていく女を描いていき、二人が法善寺境内の「めをとぜんざい」を食べて終わる。大阪弁の会話を基調とした文体は饒舌だが、それでいて不思議と引き締まっている。

 2007年に続篇の原稿が発見されており、新潮文庫の決定版はこの「続夫婦善哉」を併録している。時々ある文豪の習作や書簡の発見などとは比較にならないようなとんでもない発見であるが寡聞にして知らなかった。大阪・法善寺における「めをとぜんざい」を食べての終わり方は完璧であり、「夫婦善哉」によって大阪を象徴する作家となった織田作之助であったが、意外なことに「続夫婦善哉」は大分県の別府に舞台を移して新しい局面へと向かっている。

 

8・川端康成(1899-1972)『眠れる美女』(新潮文庫)

 川端康成は日本的な情緒を書いた作家とされるが、その感性は一般的な日本人とはかけ離れており非常に個人的なものであるように思われる。川端のそもそもの文学的出発点が、横光利一と同じ新感覚派であったことを考えると当然とはいえるが、『眠れる美女』は川端の異様な感覚を知るのに適した短篇集である。

 性的に不能になった老人が睡眠薬で眠らされている美女と添い寝をする「眠れる美女」、娘の片腕と一緒に過ごす「片腕」などを収めている。文庫版の解説は三島由紀夫で、「熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品」と川端文学の異常さを的確に指摘している。

 

9・小泉悠(1982-)『「帝国」ロシアの地政学 「勢力圏」で読むユーラシア戦略』(東京堂出版)

 ウクライナ侵攻後に一般的にも著名となったロシア軍事専門家が、ロシア内での思想的なバックグラウンドをもとに現代ロシアの軍事戦略を分析する。距離的にはわずかしか離れていない根室国後島とで時差が2時間あるために発生するビザなし交流のトラブルなど、逸話のいちいちが面白く、西側には馴染みのないロシア側の安全保障的価値観を一通りする上で有益である。

 広大な領土と国境線を抱え、経済的に無理をして維持しているロシアの軍事力は見かけほど強くはないが、期待するほど弱くもないという観点に立つ。近年活潑化してきたロシア軍のウクライナコーカサス地方中央アジア、シリア、中国、北方領土、北極圏での動きを追い、独特な安全保障上の価値観を浮き彫りにする。エピグラフに2008年のNATOの会議においてプーチンがブッシュに言ったとされている「ジョージ、ウクライナは国家でさえないんだ!」という言葉が引用されていてゾッとする。

 

10・北村薫(1949-)『雪・月・花 謎解き私小説』『水 本の小説』(新潮社)

 年初から気が滅入ることが続いた2022年は、『波』に連載されているこちらのエッセイが癒しであった。

 ミステリー作家が純文学、ミステリー、詩歌、演芸、映画、テレビなどのエピソードを次々とあげていくエッセイ風の小説であるが、ほとんどが知らない話で、思わぬところへ謎が飛んでいき展開が読めない。博覧強記の優しいおじさんとしての語り口が毎回楽しみである。

 

その他のよかった本

『日本近代短篇小説選』(全6巻、岩波文庫

『現代小説クロニクル』(全8巻、講談社文芸文庫

『戦後短篇小説再発見(全18巻、講談社文芸文庫

岡本かの子『老妓抄』(新潮文庫)

松本清張『蒼ざめた礼服』『渡された場面』『隠花平原』(新潮文庫)

松本清張球形の荒野』(文春文庫)

沼野充義沼野恭子『ヌマヌマ はまったら抜けだせない現代ロシア小説傑作選』(河出書房新社)

『日本近代随筆選』(全3冊、岩波文庫)

アーサー・コナン・ドイル『失われた世界』(創元SF文庫)

千街晶之編『伝染(うつ)る恐怖 感染ミステリー傑作選』(宝島社文庫)

頭木弘樹編『トラウマ文学館』(ちくま文庫)

風間賢二『怪異猟奇ミステリー全史』(新潮選書)

北村一真『英語の読み方 ニュース、SNSから小説まで』(中公新書)

シャーロック・ホームズで学ぶ英文法』(アスク)

河合香織『母は死ねない』(2023年に筑摩書房より刊行予定)

菊田雅弘裕『さっと読める! 実務必須の重要税務判例』(清文社)

『21世紀中小企業論 第3版』(有斐閣アルマ)

小泉悠『ロシア点描 まちかどから見るプーチン帝国の素顔』(PHP研究所)

小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』(ちくま新書)

ヴィスワヴァ・シンボルスカ『瞬間』(未知谷)

 

 

 

 

 

 

 

2022年に観た映画ベストテン

1・濱口竜介『ハッピーアワー』(2015)

2・濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』(2021)

3・濱口竜介『Passion』(2008)

4・濱口竜介『偶然と想像』(2021)

5・濱口竜介寝ても覚めても』(2018)

6・濱口竜介『親密さ』(2012)

7・濱口竜介『永遠に君を愛す』(2009)

8・岡本喜八『肉弾』(1968)

9・ヴァーツラフ・マルホウル『異端の鳥』(Nabarvené ptáče / The Painted Bird、2019、チェコ・スロヴァキア・ウクライナ)

10・クリント・イーストウッド『クライ・マッチョ』(Cry macho、2021、米)

 

1・濱口竜介(1978-)『ハッピーアワー』(2015)

 濱口竜介の作品で不満なことと言えば、DVDや動画配信で気軽に観られる作品が少ないことと、長尺・長回しで観るのに気合いがいることくらいである。2015年発表の『ハッピーアワー』は現段階の濱口竜介フィルモグラフィーにおける最高傑作であるとしばしば言われながらも、その外形的欠点によってのみあまり知られていないきらいがある。

 神戸を舞台として、演技経験がほとんどない4人によって演じられる30代後半の女性の日常の破綻と修復を五時間強かけて剔出する。一見、幸福な女同士の絆を描いていくのかと思わせておいて各人の抱える問題が複雑に絡まり合って暗転していくのだが、「ハッピーアワー」という題名を単なる皮肉とは思わせない程の力強さを感じさせた。

 

2・濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』(2021)

 

 妻の急逝から数年後、主人公の家福(西島秀俊)は広島での国際演劇祭の演出を担当することとなり、事務局からの要請でいやいやながら愛車に専属ドライバー(三浦透子)をつける。そこに妻の不倫相手と疑っていた若手俳優岡田将生)がオーディションに現れる。

 村上春樹の短篇集『女のいない男たち』(文春文庫)を原作としているが、むしろチェーホフの演劇『ワーニャ伯父さん』に重きがあり、ほぼ全篇が『ワーニャ伯父さん』の演技指導の過程で占められている。韓国手話を含む多言語を混ぜ合わせた挑戦的な演出は逆に日本語によるコミュニケーションの断絶の存在の方を深く意識させる。

 

 

3・濱口竜介『Passion』(2008)

 

 

 東京藝術大学大学院修士課程の卒業制作で若干粗い箇所もあるが、学生映画でここまでの作品を作ってしまうのかという驚愕した。

 冒頭の不穏さを醸し出した同級生の結婚報告を起点として男女同士が呼び戻してはいけない過去の慾望を引き摺り出して破綻を生むこととなる。終盤にある埠頭のシーンのすさまじい長回しと、すれすれのところでの破局の回避を暗示した演出に感銘を受けたが、偶然撮れたものだと知ってさらに驚いた。

 

4・濱口竜介『偶然と想像』(2021)

 

 

 『ドライブ・マイ・カー』と同年に発表され、オバマ元大統領も2022年に感銘を受けた映画の一つとして挙げている。3つの短篇よりなるオムニバス映画であり、濱口作品のお試しにふさわしいと思う。ただし宣伝がポップなくせに大変毒々しかった。

 

5・濱口竜介寝ても覚めても』(2018)

 

 

 多くの濱口作品は現代史上のカタストロフィーを想起させずにはおかない一方で、それを直接描くことはほとんどない。『ハッピーアワー』は阪神淡路大震災東日本大震災のことが語られるがその影響が直接語られることはない。『親密さ』は2010年の北朝鮮延坪島砲撃をモチーフにしたと思われる事件が重要な鍵となってはいるものの、2011年3月まで刻々と時間がを提示しながら、クライマックスは2011年3月上旬の劇中劇の上演で終わってしまう。その後にある数年後のエピローグでも震災のことには触れられていない。『ドライブ・マイ・カー』のエピローグでは、マスクとアクリル板のパーティションのみでコロナ後の世界になったことを示唆するのみである。『寝ても覚めても』は途中で東日本大震災を直接(東京都心部の揺れと交通の麻痺だけとはいえ)描いており珍しい。

 朝子(唐田えりか)は、数年前大阪で突然いなくなった恋人の麦(東出昌大)と瓜二つの亮平と東京で出会う。朝子は亮平に惹かれながらも意識的に避けるようにしていたが、地震の混乱の中で偶然縒りを戻すこととなる。

 レベッカ・ソルニットは惨禍の中で人々の善意が高揚して一時的に出現する理想郷のことを災害ユートピアと名づけたが、最悪期を脱し日常に回帰していくにつれ徐々に軋轢が生まれて緩慢な崩潰に至る。朝子は亮平と東北の被災地のボランティアに度々赴くが、かつての恋人との再会の可能性が生まれたことによって、破滅することが必至であろう選択をとってしまう。

 初見では気づかなかったが2022年に不慮の事故で亡くなったザ・ドリフターズ仲本工事が被災地の仮設住宅の住民役で出演している。中盤と終盤の、ほんの数分しか出ないが、都市部の出演者たちの甘い見通しを峻拒するような異質さが目立つ。

 濱口監督自身も東北でのドキュメンタリー制作がフィルモグラフィーの転機となったと語っているのだが、「東北記録映画三部作」は劇映画よりも視聴の機会が限られているのが残念である。

 

6・濱口竜介『親密さ』(2012)

 

親密さ

親密さ

  • 平野鈴
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 濱口作品は乗り物の描写が多く、特に鉄道に対する嗜好が感じられる。映画でよくあるような非日常的な特急・観光電車というよりは、日常的な通勤型車輌の描写を効果的に取り入れている点に特徴がある。麻耶ケーブルから始まる『ハッピーアワー』でも、JR西日本神戸線での通勤電車のすれ違いが効果的に用いられ、『永遠に君を愛す』では異様なほどに西武池袋線総武線の乗車時間が長い。不思議なことに『ドライブ・マイ・カー』には全く鉄道は出てこない。題名からして車がメインになるのは当然とはいえ、都内から成田空港に行くのにも鉄道ではなく車で行くし、広島でも路面電車はほとんど出てこない。思うに、高度に私的な空間である愛車の中に、他者である専属ドライバーと亡妻の不倫相手が侵入することによる変容を強調するためにあえて鉄道を排除したのではないだろうか。

 『親密さ』では執拗なほどに鉄道が登場する。新作劇の上演準備をする中で生まれてくる学生たちの軋轢と、その舞台の実際の上演を丸ごと盛り込んだ異様な展開の中で、鉄道のモチーフや表現、乗車シーンが使われ、エピローグは京浜東北線と山手線の並走区間で印象的に終わる。

「言葉は想像力を運ぶ電車です」から始まる詩の朗読では、各停、急行、快速の比喩を用いて各人の言葉の緩急とすれ違いを語り、「2012年には東京メトロ副都心線東急東横線がつながるみたいに/今まではつながれなかったあれもこれもつながるんだろうか/そんなことを想像しています」と締められる。登場人物たちが日頃使っている具体的な路線名が不意に登場してきて効果を出している。

 

7・濱口竜介『永遠に君を愛す』(2009)

 結婚式当日に新婦が過去の不倫を打ち明けたことで式は暗転する。過去の記憶と将来への不安で揺れ動く男女とかつての浮気相手、周囲の人々をユーモラスに描く小品。

 

8・岡本喜八(1924-2005)『肉弾』(1968)

 

 

遊女屋で出会った少女を空襲で殺したアメリカに復讐するため、ナレーションで「あいつ」と呼ばれる男(寺田農)が魚雷と共に太平洋を漂流する。洗練されたカメラワークが印象的でユーモアに溢れながらも戦争の暗鬱さを感じさせる。

 

9・ヴァーツラフ・マルホウル(1960-)『異端の鳥』(Nabarvené ptáče / The Painted Bird、2019、チェコ・スロヴァキア・ウクライナ)

 

 ヴェネツィア国際映画祭の上映時に途中退出者が続出し、暴力的な描写が物議を醸しながらも高く評価された。原作者のイェジー・コシンスキは盗作、捏造疑惑などで批判を受けており、発表の数十年後にニューヨークでビニール袋を被って自殺した。

 戦時の東ヨーロッパで、ホロコーストを逃れて疎開したユダヤ人と思しき少年が、行く先々でドイツ軍だけでなく住民たちにも差別を受け続ける。何らの良心も現れる余地はない。

 映画内で使われている言葉がスラヴ系の響きであったのでチェコ語だと思って観ていたが、インタースラーヴィックという現在ではほとんど使われていないスラヴ系の国際人工言語が使われている。原作者がユダヤポーランド人で映画の監督はチェコ人であり、まさに東ヨーロッパ的な映画といえるだろう。特に今思えば、制作にはチェコとスロヴァキアに加え、2014年から事実上の戦争状態に入っていたウクライナ資本も入っていたことが意義深い。

 

10・クリント・イーストウッド(1930-)『クライ・マッチョ』(Cry macho、2021、米)

 

 イーストウッドが91歳で監督と主演を務めた。

 離婚したアルコール依存症の妻から息子を取り戻してほしいという依頼を受けメキシコに向かう元ロデオ・ボーイの物語ということで、共同親権のような保守派好みのテーマかと思ってあまり期待していなかったが、まことに珍妙な作品であった。正統派の『運び屋』(2018)の方が世間的には評価が高いようだが、現在の実際の事件の当事者たちを主演に据えた『15時17分、パリ行き』(2018)のような変な作品の方が今のイーストウッドの良さが出ていると思う。

 イーストウッドは、メキシコで少年を見つけ出すが、ついでに闘鶏にハマっている少年が飼っている鶏のマッチョも連れていく。テキサスまでの帰り道に、母親とその取り巻きのギャングや警察に追われるが、手抜きかと思ってしまうようなご都合主義的な展開で乗り切る。今時の映画で使ったら恥ずかしくなるようなあからさまなデウス・エクス・マキナであるのに、意外と気にならない。

 イーストウッドが説く男らしさ(マチズモ)も実際に聞いてみれば何だかへなへなな価値観であるし、人間よりも馬や鶏などの動物といる方が楽しそうである。テキサスの元ロデオ・ボーイというアメリカの保守派が好きそうな人物造形であるが、スペイン語はしっかり話せるし、どこかで覚えたという手話を使う場面もあって、同年代に若手のリベラルな監督によって作られた『ドライブ・マイ・カー』や『CODA あいのうた』などと奇妙な合致が発生している。2020年代イーストウッドの新局面を感じさせる作品である。今後また新作を出してくれるかはわからないが。

 

その他によかった作品

・アスガー・ファルハディ『別離』(2011、イラン)

・アスガー・ファルハディ『セールスマン』(2016、イラン)

ロベール・ブレッソン『白夜』(1971、仏)

 

 

 

 

近代日本文学アンソロジー①・新潮文庫版『日本文学100年の名作』

 純文学作品が充実している新潮文庫岩波文庫講談社文芸文庫にはそれぞれ下記の近代日本文学の短篇アンソロジーがある。

新潮文庫『日本文学100年の名作』(池内紀川本三郎松田哲夫編、全10巻)

岩波文庫『日本近代短篇小説選』(紅野敏郎紅野謙介千葉俊二宗像和重、山田俊二編、全6巻)

講談社文芸文庫『戦後短篇小説再発見』(井口時夫・川村湊・清水良典・富岡幸一郎編、全18巻)・『現代小説クロニクル』(川村湊佐伯一麦永江朗林真理子湯川豊編、全8巻

 なお同じようなシリーズでちくま文庫にも『ちくま文学の森』があるが、こちらは海外作品も含んでいるので一旦措く。

 新潮文庫岩波文庫のアンソロジーは2010年代に編まれた。『戦後短篇小説再発見』は2000年代初頭に刊行されたため、2000年以前の作品しか含まれていないが、2000年代以降の作品については『現代小説クロニクル』の方で補完されている。収録年代については、新潮文庫が1914年(荒畑寒村)から2013年(伊坂幸太郎絲山秋子)まで、岩波文庫が1889年(坪内逍遥)から1969年(三島由紀夫)まで、文芸文庫が1945年(平林たい子など)から2013年(瀬戸内寂聴!)までとなっている。

 日本における文庫本という形式が、分売を許さない円本の予約出版に対抗し、分割して簡易に読めるようにするという商業的戦略から発生したものであることを考えると、アンソロジーの企画は文庫の本義に叶うものと言える。また単著と違う利点として、目当ての作家以外でも強制的に遭遇させられることである。なんとなく食わず嫌いをしてきた徳田秋声尾崎一雄、中里恒子、幸田文野呂邦暢佐藤泰志山田詠美干刈あがたなどはアンソロジーに入っていなかったら決して単著を手を取ることはなかったであろう。

 三つの文庫で、稀に同じ作品が選ばれていることもあるが、各々の文庫によって趣が異なる。新潮文庫は最もバラエティに富んでいる一方で、首を傾げざるをえない作品も選ばれており外れも多い。岩波文庫は編者が国文学の研究者であるだけ、研究観点からは非常に興味深い硬派なコレクションであるが敷居が高いのは否めない。最も成功しているように思えるのは文芸文庫で、あまり知られていない代表作以外を選びながらも読み応えがあり、アンソロジーの題目の通り「再発見」を楽しめた。

 

以下で新潮文庫『日本文学100年の名作』でよかった作品を記載する。○はよかった短篇、◎は特に感銘を受けた短篇である。ただし必ずしも選ばなかった作品が駄作であるとみなしているわけではなく、肌に合わなかったり、価値を正当に評価できる段階にはないと感じた作品もあるので、念のため。

 

『第1巻・1914-1923 夢見る部屋』

佐藤春夫「指紋」(1918)

 佐藤春夫は現在単著ではあまりみかけないが、近代文学のアンソロジーにはよく収録されている。谷崎潤一郎との「細君譲渡事件」や石原慎太郎の「太陽の季節」の芥川賞受賞に激昂したというゴシップの方で記憶されているきらいがあるが、耽美的ながらも現代人にとっても読みやすい作家であるように思える。「指紋」は長崎の阿片窟、映画館、指紋による科学捜査が鍵となる探偵小説で、頽廃とモダニズムで読ませる。

谷崎潤一郎小さな王国」(1918)

 北関東に赴任した小学校教師の教室が転校生によって支配されていく顛末を初期の谷崎らしい悪魔主義マゾヒズムによって描く。

宇野浩二「夢見る部屋」(1922)

 誰にも知られない秘密の部屋を夢見る男の妄想が幻想的に綴られる。 

 

『第2巻・1924-1933 幸福の持参者』

梶井基次郎Kの昇天」(1926)

 ギリシャ神話のイカロス失墜に絡み、月と影に囚われて溺死した友人Kの姿を幻想的に描く。

加能作次郎「幸福の持参者」(1928)

 「幸福の持参者」とは家で飼うことにしたコオロギのこと。コオロギがもたらす幸福とあっけない終わりを淡々と描く。

夢野久作「瓶詰地獄」(1928)

 離島に漂着した兄妹に芽生える近親相姦の慾動を描く。三つの瓶詰め通信の流れ着いた順番が逆になっているという、時系列でも起きている倒錯で恐怖を増している。

龍胆寺雄「機関車に巣喰う」(1930)

 モダニズム作家の竜胆寺雄は最近になって晩年のサボテンマニアとしてのエッセイが注目されるようになったこと以外では忘れられている。荒川の河川敷に棄てられた機関車に住む駆け落ちしたカップルを描く。モダニズムの文体の面白さが味わえる良作である。

林芙美子「風琴と魚の町」(1931)

 行商人の家族が尾道に辿り着く。父の商売の気苦労とそれをみつめる娘の哀切さが心をうつ。

 

『第3巻・1934-1943 三月の第三日曜』

萩原朔太郎猫町」(1935)

 たまたま降り立った田舎町の人々が全員猫に変わる。詩人による散文詩的作品。

菊池寛「仇討ち禁止令」(1936)

 幕末維新期の社会の激変の中で因習に翻弄される高松藩士を描く。

尾崎一雄「玄関風呂」(1937)

 大半の日本の私小説は陰湿な貧乏自慢が癪に障るが、尾崎一雄私小説の流れにありながらも日本の純文学では珍しいユーモアが溢れている。「玄関風呂」は風呂桶を買ったものの、狭い家なので玄関口で風呂に入ることになった顚末を綴る。井伏鱒二などの登場人物の言動がいちいち笑いを誘う。

幸田露伴「幻談」(1938)

 釣りにまつわる怪異をおどろおどろしくではなく、釣りの蘊蓄と共にゆったりと語っていく。釣りがしたくなった。

岡本かの子「鮨」(1939)

 岡本かの子は漫画家の岡本一平の妻で、芸術家の岡本太郎の母。寿司屋の娘は老紳士の客に心を惹かれる。娘と老紳士の心のこもった交流と、その後突然寿司屋に老紳士が来なくなって娘の記憶から消えていく無常さの落差が印象に残る。

中島敦「夫婦」(1942)

 中島敦の小説は「山月記」などの漢籍に基づくものだけではない。中島は第一次大戦後日本の統治領となったパラオに教科書編纂の仕事のため赴任し、帰国後に南洋物の短篇を執筆したが、健康を損ない早逝した。「夫婦」は南洋物の一篇で、教科書的な中島敦のイメージとは全く異なる傑作である。パラオ島の風習に基づき、一人の男をめぐって決闘する女たちの顛末を、エロティックにあっけらかんと書いていて面白い。

 

『第4巻・1944-1953 木の都』

織田作之助「木の都」(1944)

 個人的な嗜好として関西系の作家は合わないことが多いのだが、「木の都」は大阪という都市が美しく描かれており大変よかった。故郷の大阪に戻ってきた主人公は戦況の悪化によって喪われていく大阪の風景と人を見送る。

太宰治トカトントン」(1947)

 太宰の文章のリズムは魔術的である。「トカトントン」は敗戦後に謎の音に苛まれる男の悩みをリズミカルな書簡体で読ませる。

島尾敏雄「島の果て」(1948)

 南島に駐留した青年は、魚雷艇による特攻命令を待つまでのあいだ、島の娘との逢瀬を重ねる。島尾敏雄は特攻の出撃命令で生と死の狭間を経験し、その後、島の娘ミホと結ばれるも狂気に満ちた夫婦生活を送った体験を綴り、戦後文学において特異な位置を占めている。「島の果て」は両者の発端となった加計呂麻島の体験を童話的な雰囲気で描いている。

小山清「落穂拾い」(1952)

 マイナー・ポエットと呼ぶべき小山清の代表作。本で繋がる孤独な人々の心象を描く。

 

『第5巻・1954-1963 百万円煎餅』

邱永漢「毛澤西」(1957)

 題名は毛沢東のパロディである。イギリス統治下の香港で、無許可の新聞売りをやる男は、警察に捕まったときには「毛澤西」と名乗る。何度も捕まる毛澤西に、気を許した警察が便宜を図ってやるが。

 邱永漢は台湾出身の直木賞作家だが、経営コンサルタント業や株式投資の方が世間的には有名で「金儲けの神様」と呼ばれていた。「毛澤西」はそんな俗っぽさがいい味を出している。

山本周五郎「その木戸を通って」(1959)

 家老家の娘との縁談が決まっていた正四郎の家に記憶喪失の娘・ふさがやってくる。正四郎はふさに惹かれ、もとの縁談を断るが。

 記憶喪失の感動ものは食傷気味であるが、「その木戸を通って」は別格の短篇である。山本周五郎はストーリー構成が圧倒的に上手い。現世だけを描きながら霊界の存在を幻視させる。まさに神業のような物語の運びである。

 

『第6巻・1964-1973 ベトナム姐ちゃん』

川端康成「片腕」(1964)

 「片腕」は印象的に始まる。「「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」 と娘は言った。 そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。」シュルレアリスム的な物語だが確かな感触をもって迫ってくる。

 ショート・ショートのSF作家である星新一は、意外なことに川端康成を絶賛していたらしく、「片腕」と、同じくシュルレアリスティックな『掌の小説』の「心中」に触れて、これらは自分には到底書くことのできない作品であり、未来において川端は『雪国』や『伊豆の踊り子』といった日本的な抒情美の作者としてではなく(これらの作品も仔細にみれば、川端の特異な感覚表現は普通の日本人的とされる情緒からは相当乖離しているように思えるが)、『片腕』などの超現実的な作品群の作者として知られているであろうと予見していたという。

野坂昭如ベトナム姐(ねえ)ちゃん」(1967)

 ヴェトナム戦争中、横須賀で米軍を相手にする娼婦と戦地に向かう米兵との交流と破滅を描く。軽妙で卑猥な戯作者的筆致の中に戦争の悲惨さが浮かび上がる。

小松左京「くだんのはは」(1968)

 芦屋のとある屋敷の人はなぜか原爆投下と敗戦のことを知っていた。そこの子供は、屋敷の中にいるという見たことのない病気の少女が何かを知っていると気づき、その姿をみようと躍起になる。第1巻の内田百閒「件」と同じ怪異を題材にしている。

野呂邦暢「鳥たちの河口」(1973)

 諫早に住む失業中のカメラマンが、干潟でバードウォッチをする。人生と家庭に対する不安、静かに狂い始める自然と世界、その中から湧出する未来へのわずかな希望を、視覚的に卓越した文体で描く。

 

『第7巻・1974-1973 公然の秘密』

藤沢周平「小さな橋で」(1976)

 博打で身を隠した父と駆け落ちした姉、その二人への恨み言をこぼす母との関係に悩む少年が事件に巻き込まれる。大人になるための諦観を静謐に描く。

向田邦子「鮒」(1981)

 家の勝手口のバケツに突然鮒が入れられる。夫はかつての浮気相手の嫌がらせだと気づいているが、鮒を飼おうとする家族を止められない。鮒によって蘇る過去の秘密と、その後始末がユーモラスに描かれる。

 

『第8巻・1984-1993 薄情くじら』

佐藤泰志「美しい夏」(1984)

 近年再評価されている佐藤泰志の一篇。東京で同棲する金のないカップルが、東京の近郊へ家を探しに行く。ただそれだけの小品であるが、貧しさの中での東京の若者の暮らし、不動産屋に足元をみられる恥辱、閉塞感溢れる日常の中でそれでもかすかな光をみつめていく様子が清冽に描かれている。

宮本輝力道山の弟」(1989)

 尼崎でプロレスラーの力道山の弟を名乗り「力道粉末」という怪しい薬を売り歩いていた男を回想する。そのインチキ商売から庶民の哀歓が伝わる。

尾辻克彦赤瀬川原平)「出口」(1989)

 帰宅時に便意に襲われた男の葛藤を描く珍作。

中島らも白いメリーさん」(1991)

 ルポライターは娘から聞いた「白いメリーさん」の噂を調査してガセネタであるとの証拠を掴むが。サブカルと都市伝説で読者を笑わせながら、ゾッとする展開にもっていくのがうまい。

阿川弘之「鮨」(1992)

 講演会で貰った寿司の弁当を食べきれず、棄てるのも勿体無いと思った主人公は上野駅前の浮浪者にあげてよいものか思案する。志賀直哉から継いだ端正な文章で綴られる佳品。

 

『第9巻・1994-2003 アイロンのある風景』

吉村昭「梅の蕾」(1995)

 妻の療養生活のために三陸海岸沿いの僻地に赴任した医師と村の人々との交流を描く。記録文学の名手である吉村昭らしい、感動を呼ぶようなシーンであってもエモーションを抑制した文体が素晴らしい。

重松清「セッちゃん」(1999)

 娘がクラスでいじめられているセッちゃんという女の子のことについて話す。近代文学の末流として捉えられる平成の作品が多い本アンソロジーにおいて、現代文学としての新しさが顕著な数少ない作品である。

 

『第10巻・2004-2013 バタフライ和文タイプ事務所』

高樹のぶ子「トモスイ」(2009)

 一度吸うともう死んでもいいと思うくらい美味しいという「トモスイ」を吸いに夜釣りにいく。触覚的な描写が独特である。

 

 

 

 

 

2021年に読んだ本ベストテン

2021年に読んだ本ベストテン

 

1・佐藤泰志佐藤泰志作品集』(クレイン)

2・野呂邦暢野呂邦暢小説集成』(全九巻、文遊社)

3・野呂邦暢『随筆コレクション1 兵士の報酬』『随筆コレクション2 小さな町にて』(みすず書房

4・石塚久郎編『病短編小説集』『医療短編小説集』『疫病短編小説集』(平凡社ライブラリー)

5・小島庸平『サラ金の歴史 消費者金融と日本社会』(中公新書

6・川添愛『言語学バーリ・トゥード Round1 AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか』(東京大学出版会)

7・保坂正康『戦場体験者』(ちくま文庫)

8・大澤真幸社会学史』(講談社現代新書)

9・大野耐一トヨタ生産方式 脱規模の経営をめざして』(ダイヤモンド社)

10・三谷宏治『経営戦略全史』(ディスカバー・トゥエンティワン)

 

1・佐藤泰志(1949-1990)『佐藤泰志作品集』(クレイン)

 文学史には生前評価されなかった作家というものがよく出てくるが、佐藤泰志ほど生前の不遇と近年の復活とが残酷なほど対照的な小説家はいないだろう。

 佐藤泰志は1949年に函館市で生まれる。幼い頃より作家を志し、函館西高校在学中に「市街戦の中のジャズメン」(のちに「市街戦のジャズメン」に改題)を発表し早くから注目を集める。同人誌と商業誌とを行き来しながら執筆活動を続け、同時期にデビューした村上春樹中上健次と並び称されるようになった。

 しかしながら生涯文学賞に恵まれることはなかった。「移動動物園」で新潮新人賞候補、「黄金の服」で野間文芸新人賞候補、「きみの鳥はうたえる」「空の青み」「水晶の腕」「黄金の服」「オーバー・フェンス」で五度の芥川賞候補となるが、いずれも受賞を逃した。「そこのみにて光り輝く」が三島由紀夫賞に落選した翌1990年に国分寺の自宅近くの畑で自殺した。三島賞の選考委員の中で唯一「そこのみにて光り輝く」を推していたのは、作風が似ていた中上健次ではなく、保守派の文芸評論家の江藤淳(1932-1999)であった。佐藤の死に衝撃を受けた江藤は他の選考委員に気兼ねしたことを悔やみ、これからは自分の文学的理念には絶対に妥協しないと異様な熱量のある文章を綴っている。

 佐藤の死後、著作は一冊も文庫本になることなく全て絶版となり、急速に忘れ去られていった。再評価のきっかけとなったのは、歿後17年目の2007年に文弘樹氏がひとりで経営している出版社であるクレインより刊行された『佐藤泰志作品集』であった。2010年にこの作品集に感銘を受けた函館市の映画館と市民との協力によって映画『海炭市叙景』が製作され国内外で高く評価される。同年に函館市出身の小学館の編集者によって『海炭市叙景』が小学館文庫に収録され、その後ほとんどの代表作が小学館文庫と河出文庫にはいり新しい読者を獲得した。函館市佐藤泰志の映画化プロジェクトは『そこのみにて光り輝く』『きみの鳥はうたえる』『オーバー・フェンス』『草の響き』と続き、いずれも高い評価を得ることとなる。

 佐藤の活動時期はバブル景気と重なっており、逃げ場のない日常の中でもがき苦しむ若者の閉塞感を描く作風は広く理解されず、バブル崩壊後の格差社会の進展とともに読者の共感を集めることとなった。しかしそれでも、佐藤の作品を読んでいると、なぜこれほどの作家が生前評価されずに終わったのかと悔やまれてならない。

 出口のない貧しい生活の暗さの底知れなさを描きながら、そこになお光り輝く一筋の生を求め続ける。佐藤泰志の作品には、現代にもなお生き続けている文学の力そのものがある。

 

2・野呂邦暢(のろ・くにのぶ、1937-1980)『野呂邦暢小説集成』(全九巻、文遊社)

3・野呂邦暢『随筆コレクション1 兵士の報酬』『随筆コレクション2 小さな町にて』(みすず書房

 佐藤泰志野呂邦暢を好んでいたという。確かに二人には共通点が多い。函館と諫早の地方都市の生活を題材にし、清冽な文体を特徴とする。二人とも早逝し、最近まで作品が入手困難であった。

 野呂邦暢長崎市に生まれ、疎開先の諫早市から原爆の閃光を目撃する。その後三つの湾の水と空気が混じりこむ諫早の風土の中で育つ。

 川村二郎から「言葉の風景画家」と呼ばれた野呂の小説・随筆は、端正な文体から強烈なイメージを喚起させる。1973年の芥川賞候補作「鳥たちの河口」では、労働争議がきっかけで職を失った男が、諫早湾の干潟でのバードウォッチングに熱中する。未来への不安、渡り鳥から感じる世界の変異、傷ついた「カスピアン・ターン」の治療を通じて現れる家族と世界の再生への光が、卓越した自然描写によって描かれている。

 一方で奇異な印象を受けるのは、野呂には自衛隊経験があることである。大学浪人中に父の事業の失敗によって進学を断念し、職を転々としていた野呂は不景気のために19歳で陸上自衛隊に入隊する。長崎県内の相浦教育隊での訓練を経て、対ソ防衛の最前線であった北海道北部方面隊に配属される。

 堀江敏幸も書いている通り、野呂は自衛隊に入りそうなマッチョな文学者では決してなかったが、原爆、九州が後方支援地となった朝鮮戦争自衛隊経験、戦記蒐集と野呂のなかで戦争は大きなテーマであり続けていた。自衛隊経験を綴った「草のつるぎ」は、自衛隊への忌避感情が強かった1974年当時としては異色の作品で、左派の一部からの批判を受けつつも芥川賞を受賞した。旧日本軍の記憶、米軍と国民との微妙な距離感を背景に、夏の暑さの中の苛酷な教練によって精神を捉え直す一青年を緻密に描いている。また1957年の諫早大水害のエピソードも盛り込まれており、災害小説としても読み直せる。

 中央文壇から一定の距離を保ち諫早を拠点にし続けた野呂は、ミステリー仕立ての『愛についてのデッサン』、歴史物の『諫早菖蒲日記』、ティーンズ小説などと執筆の幅を広げていったが、1980年に心筋梗塞で急死する。

 玄人筋からの評価は高いものの、一般的な認知度が低い状態が続いていたが、最近になり『野呂邦暢ミステリ集成』(中公文庫)、『愛についてのデッサン』(ちくま文庫)などが簡単に入手できるようになった。

 

 

4・石塚久郎(1964-)編『病短編小説集』『医療短編小説集』『疫病短編小説集』(平凡社ライブラリー)

 2016年に『病短編小説集』、2020年に『医療短編小説集』、2021年に『疫病短編小説集』が出版され、トリロジーの形を取ることとなった。専修大学のゼミをもとにしており、2020年以降はリモート講義での学生とのディスカッションから生まれていった。まさに同時代的なアンソロジーである。

 コロナと共に再注目されたヴァージニア・ウルフはエッセイ「病気になること」において、文学は英雄や戦争、恋愛のことばかりに注目し、病気についてはほとんど書いてこなかったと語っていた。「医療人文学」は、人文学を医療・病気という観点から捉え直すだけでなく、医学の現場においても、倫理教育の一環として取り入れられつつある。

 扱われている短篇が非常に面白い。例えばアーサー・コナン=ドイルの「ホイランドの医者たち」は女性医師をテーマとする。一人の男性医師しかいなかった田舎町で、女性医師が開業する。女に医者は務まらないと馬鹿にしていた男性医師だが、意に反して女性医師は腕前と人当たりの良さから村で評判を呼んでいく。患者が離れて情緒不安定になり女性医師に嫉妬する(このような短所は元々男性医師が女性を馬鹿にするときに挙げていた)男性医師だが、馬車の事故で自分が女性医師の治療を受ける羽目になる。しかしそこで女性医師の人間的魅力に気づく……。

 ここまで読んで、エンターテインメント小説の常として、ドタバタを経てこの二人は結ばれるのだろうという予想をしてしまったのだが、小説巧者のコナン=ドイルはこちらの(あさはかな!)読みを裏切った。女性医師は医学の道を極めなければいけないと、男性医師のプロポーズをあっさりと断るのである。

  また小説本篇そのものだけでなく編者による解説が非常に興味深い。小説本篇で不思議に思った描写も、解説で鮮やかに解き明かしてくれる。

 例えば、ラドヤード・キプリングの「一介の少尉」はインドで重病になる。その男仲間たちと恋人との関係を、編者は「男同士の絆」から読み解く。男同士の絆とは、イヴ・K・セジウィックの『男同士の絆 イギリス文学とホモソーシャルな欲望』(名古屋大学出版会)によって知られるようになった概念であるが、もとの論文は非常に難解である。しかしながらこの「一介の少尉」の解説によって、男同士の絆はなぜ同性愛嫌悪と女性蔑視によって成り立っているのかを明瞭に理解できるようになるだろう。

 もともと『病短編小説集』と『医療短編小説集』だけを企画していたようだが、コロナの影響で『疫病短編小説集』も編まれることとなった。編者の好みで伝染病関係の文学は扱いが薄くなっていたが、文学の責務として社会に応答すべきであると考えたのだという。

 確かに疫病を文学で表現するのは難しい。そもそも形がみえないのだから。みえない疫病を表象化しようとしたのがエドガー・アラン・ポーの「赤き死の仮面」であったが、舞踏会に現れた「赤き死の仮面」を剥ぎ取ったところ、そこには…何もなかった! それでも天然痘コレラ、スペイン・インフルエンザなどを果敢に取り上げた小説が読ませる。

  編者は今回のコロナも文学において「たとえ時間がかかっても、それは書かれるであろうし、書かれなければいけない」と訴える。それまでの間、このトリロジー現代文学の一つの指標となるであろう。

 

5・小島庸平(1982-)『サラ金の歴史 消費者金融と日本社会』(中公新書

 埼玉県深谷市は日本の資本主義史上において著名な人物を二人育てた。一人はもちろん渋沢栄一である。そしてもう一人は悪名を轟かせた武富士の創業者・武井保雄である。

 日本の消費者金融サラ金)は、2000年代にチワワブームをもたらした「どうする? アイフル!」や華美な「武富士ダンサーズ」のCMなどで知名度を上げたが、多重債務や苛酷な取り立てによって社会的なバッシングを受けることとなる。

 ところで2006年のノーベル平和賞バングラデシュグラミン銀行が受賞した。グラミン銀行は、貸し手がつかない貧困層向けに高利ながらも貸付を行う「マイクロクレジット」によって貧困を解決したという。このビジネスモデルは日本のサラ金とほぼ同じである。それではなぜ、グラミン銀行ノーベル平和賞で讃えられたのに、日本のサラ金は絶対悪と断罪されなければいけないのか?

 『サラ金の歴史』はこれまで学術的にあまり取り上げられてこなかったサラ金を真正面にテーマにした非常に興味深い新書である。

 例えば、サラ金の発達は実は日本企業の人事制度と結びついていたという意外な指摘がある。日本の評価査定において、成果主義能力主義ではなく情意考課が重視されていた。飲み会において元気に振る舞う社員が会社に勢いを与えてくれるという暗黙の了解から、サラ金から借りてでも飲み会や付き合いに精力的に取り組む男性社員こそ評価されていたのである。

 逆に「サラ金」という名称とは裏腹に、女性との結びつきも強かった。銀行からの融資対象ではなかった女性は、家計のやりくりのためにサラ金を頼り、サラ金も貸倒のリスクの低い優良貸付先として開拓していた。家庭崩壊という問題にもつながった一方、女性の貴重な資金源としての金融包摂の役割も担っていたのである。

 そのほかにもジェンダーフィンテック感情労働など、現在の経済研究で注目される概念からサラ金を解剖していき、まさに目から鱗が出るような驚きを与える。サラ金というダークサイドから戦後日本経済の実態が抉り取られる。

 

6・川添愛(1973-)『言語学バーリ・トゥード Round1 AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか』(東京大学出版会)

 副題の「AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか」だけで、笑える本であると分かるだろう。ユーミンの名曲は「恋人はサンタクロース」ではなく「恋人がサンタクロース」である理由(この本で初めて気づいた)、大槻ケンヂが恐山に行ったときにジミ・ヘンドリックスから津軽弁で励まされた話など、さまざまな話題から言語学にまつわる話題をユーモラスに取り上げる。

 「バーリ・トゥード」とはサンスクリットか何かの言葉かと思っていたが、「何でもあり」の総合格闘技のことらしい。プロレス好きの筆者が、東京大学出版界のPR誌『UP』で題名の説明もなしに連載を始めたところ、東大の物理学の教授から怒られたことに対する弁解文がこれまたおかしい。

 

7・保坂正康(1939-)『戦場体験者 沈黙の記録』(ちくま文庫)

 

 正直なところ読んでいて気が進まないが、戦場を体験した人々の異常な経験を克明に残した重みのある記録である。

 戦場の中の飢餓、暴力、殺人、自殺、性処理などでトラウマを抱える復員兵がいた一方、戦後の公式戦史・戦友会ではトラウマを忘却するかのように記憶が再編されていった。

 中国人に日本人の戦争責任を詰められた著者が、自分は当事者ではないから謝罪はしないが今後このようなことがおきないようすることが今の自分の責務である、と語るのが重い。

 

8・大澤真幸(1958-)『社会学史』(講談社現代新書)

 社会学の流れをコンパクトにまとめた本で、概念の流れがわかりやすい。

 ただしこの本に対して、社会学者の佐藤俊樹が「神と天使と人間と」と題した書評(『UP』2019年6月号・7月号)でマックス・ヴェーバーの単純な事実誤認の指摘から始まる痛烈な批判を寄せているので留意が必要である。

 

9・大野耐一(1912-1990)『トヨタ生産方式 脱規模の経営をめざして』(ダイヤモンド社)

 カイゼン、ジャスト・イン・タイム、カンバンなどに代表されるトヨタ生産方式を作り上げた張本人がその全貌を語る。

 世間一般に言われるトヨタ生産方式とは異なる見解が二つあった。

 一つはトヨタ生産方式は低成長時代のために存在するものであるという主張である。高度経済成長期だからこそ成り立ったトヨタ生産方式は、現在の経済停滞期には役立たないという意見もあるが、実際にトヨタは高度成長期にも重要なプレーヤーであったが、オイルショック後に一気に他社を突き放した。

 もう一つは、トヨタ生産方式はなかなか真似できないものであるという主張である。米国などの企業がトヨタを視察するなどして、トヨタ生産方式は世界中に知れ渡った。トヨタ生産方式が普及してしまうと、トヨタコア・コンピタンスは失われてしまうのではないかと疑問に思っていたが、なおトヨタは高い競争力を維持している。トヨタ生産方式は、徹底した教育、サプライヤーとの緻密な連携があって初めて機能するものであり、うわべだけを取り入れて中途半端に活動していたほとんどの他社では効果を発揮することはなかったのである。

 

10・三谷宏治『経営戦略全史』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)

 ボストン・コンサルティング・グループアクセンチュアなどで戦略コンサルタントとして働いてきた著者が、学術研究と一般のビジネス書の事例紹介との間をポジショニングして、人物と歴史を軸に経営戦略を語る。

 科学的な管理を目指す大テイラー主義マイケル・ポーターなど)と人間の感情的側面・能力を重視する大メイヨー主義(ジェイ・バーニー、野中郁次郎など)の対立を軸にして魅力的にまとめている。

2021年に観た洋画ベスト5

2021年に観た洋画ベスト5(旧作含む)。

今年はお仕事が忙しくてあまり観られませんでした…。

 

1・ロベール・ブレッソン『抵抗』(Un condamné à mort s'est échappé ou le vent souffle où il veut、1956、仏)

2・ロベール・ブレッソン『スリ』(Pickpocket、1958、仏)

3・キム・ボラ『はちどり』(벌새、2018、韓)

4・マーティン・マクドナー(Martin McDonagh、1970-)『スリー・ビルボード』(Three Billboards Outside Ebbing, Missouri 、2019、米)

5・デヴィッド・リンチ(David Lynch、1946-)『エレファント・マン』(The Elephant Man、1980、英米)

 

1・ロベール・ブレッソン(Roberd Bresson、1901-1999)『抵抗 死刑囚の記録より』(Un condamné à mort s'est échappé ou le vent souffle où il veut、1956、仏)

 

 フランスの映画監督ロベール・ブレッソンは映画を「シネマ」ではなく「シネマトグラフ」と呼び、出演者は職業俳優ではなく「モデル」を使用した。

 『抵抗』はブレッソンの「この物語は真実だ。私は飾らずそれ自体を提示する」という宣言で始まる。禁慾的なまでに削ぎ落とした蕪雑さのないブレッソンのシネマトグラフは観る者に極度の緊張を迫る。

 『抵抗』はフランスの対独レジスタンス戦士が脱走に至るまでの実話をシネマトグラフにしたものである。映画のほとんどを占めるのは閉鎖的な独房、主人公の独白、限られた囚人達とのコミュニケーション、ドイツ人看守のたてるかすかな音に怯えながら徐々に進んでいく脱獄の準備であり、徹底したミニマリズムが貫かれている。それでいながら強烈なサスペンスを生んでいる。

2・ロベール・ブレッソン『スリ』(Pickpocket、1958、仏)

 ブレッソンは、モデルの感情表現を抑圧する代わりに、手の動きと視線とで人間を表現した。スリはまさにそのような表現にふさわしい題材であった。華麗なスリの手口を中心に据えて、犯罪に熱中していく貧しい若者と彼の孤独な心境をスリリングに描く。

 

3・キム・ボラ(김보라、1981-)『はちどり』(벌새、2018、韓)

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 ポン・ジュノの『パラサイト』(2019)が世界的に注目されていた中、キム・ボラの長篇デビュー作となる『はちどり』も国内外で高い評価を得た。

 1990年代のソウルの集合住宅に住む14歳の少女ウニの目から、民主化から間もない韓国社会に潜む不安、何か心安らぐことのできない家族と学校、ボーイフレンドとの諍いと後輩女子とのシスターフッドの揺れ動き、自分の話に耳を傾けてくれる漢文塾の女性教師とのつながりが描かれる。

 不幸とはいえないまでもどこか居心地の悪い現代社会における光を指し示す。 

 

4・マーティン・マクドナー(Martin McDonagh、1970-)『スリー・ビルボード』(Three Billboards Outside Ebbing, Missouri 、2019、米)

 ミズーリ州の田舎町の道路に真っ赤な三つの広告が現れ、街の人々を動揺させる。それは娘の暴行死の捜査が進まないことに憤った母親(フランシス・マクドーマント)が設置したものであった。

 警察への擁護と広告への嫌がらせが広まっても、母親は姿勢を崩さない。それでも消極的な援助と積極的な協力が集まっていき、母親は真相に迫っていく。

 警察は必ずしも悪玉ではない。署長は街の人々に愛される善良な人間で母親の心痛も十分に理解している。実際には母親の強烈な執着の方が非難されるべきものではあろう。それでも母親の不屈の力に思わず心動かされる。特に母親に嫌悪感を露わにして露骨な妨害を行為をしてきた暴力警官のサム・ロックウェルが母親に肩入れし出すようになるところは、人間関係が変化する瞬間を美しく剔出している。

 

5・デヴィッド・リンチ(David Lynch、1946-)『エレファント・マン』(The Elephant Man、1980、英米)

 19世紀のイギリスに実際にいた畸形の男性の半生を題材にする。

 「エレファント・マン」として見世物小屋に立たされていた男性メリックに興味を抱いた医師(アンソニー・ホプキンス)は、病院に引き取り研究対象とする。治療を進めていく中、メリックには意外な知性と品位を備えていることに気づく。

 困難な差別を乗り越えていく感動的な作品であるが、わずかながらにしこりが残るのも事実である。映画の原初的な形態が見世物であったように、『エレファント・マン』を観る者にも或る種の見世物みたさの気持があったために、この映画を観ようと思ったのではないだろうか。実際に映画のポスターでは、メリックの顔は布で覆われ、映画本篇でなければその容貌は確認できない。そして監督のデヴィッド・リンチもまた、グロテスクな表現を得意とするカルト監督なのである。我々の裡に潜むこのような差別的傾向があることも忘れず分析するべきであろう。