Дама с Рилаккумой

または私は如何にして心配するのを止めてリラックマを愛するようになったか

2017年に読んだ本ベストテン

2017年に読んだ本ベストテン。

1・『山崎豊子全集』(全二十三巻、新潮社)
2・『向田邦子シナリオ集』(全六巻、岩波現代文庫
3・『向田邦子全集 新版』(全十二巻・別巻二、文藝春秋
4・大澤真幸山崎豊子と<男>たち』(新潮選書)
5・太田光向田邦子の陽射し』(文藝春秋
6・エティエンヌ・ボノ・ド・コンディヤック『動物論 デカルトとビュフォン氏の見解に関する批判的考察を踏まえた、動物の基本的諸能力を解明する試み』(古茂田茂訳、法政大学出版局
7・J・M・クッツェー『動物のいのち』(森祐希子・尾関周二訳、大月書店)
8・淀川長治蓮實重彦山田宏一『映画千夜一夜』(全二冊、中公文庫)
9・竹内政明・池上彰『書く力』(朝日新書
10・羽田圭介『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』(講談社

1・山崎豊子(1924-2013)『山崎豊子全集』(全二十三巻、新潮社)
4・大澤真幸(1958生)『山崎豊子と<男>たち』(新潮選書)
 全集には『暖簾』『花のれん』『女の勲章』『白い巨塔』『華麗なる一族』『不毛地帯』『二つの祖国』『大地の子』『沈まぬ太陽』『運命の人』『約束の海』など、盗作疑惑のある『花宴』以外の全作品を収録しているが、新潮文庫版と文春文庫版でほぼ全て読める。
 山崎豊子の本質を知るには実際の小説を読むことが最良なのはもちろんだが、何しろ長い。代わりに簡潔にまとめてくれているのが、新潮文庫版『女の勲章』に寄せられた批評家の江藤淳の解説である。
1961年、当時朝日新聞文芸時評を担当していた江藤淳は、新聞連載と大衆小説は扱わないという当時の新聞時評の二つの暗黙の了解を破ってまで、毎日新聞に連載されていた『女の勲章』の賞賛に丸々一頁をあてていた。
 江藤は、山崎が『女の勲章』の単行本のあとがきで、フランスとポルトガルの描写が現実に即しているかどうかを執拗に気にして、ポルトガルの建物の描写の誤りを単行本で書き直したと述べていることに注目し、現実世界に対する信頼や執着が山崎豊子の強さであり弱さであると指摘している。文庫版の解説が書かれた1964年、山崎は『白い巨塔』の連載を始めたばかりであり、出身地の大阪商人や女性の生き方をテーマにした作家としてみられていた。社会派作家として大成する山崎の特徴を見抜いていた江藤淳の慧眼に改めて驚く。
 文学の世界から程遠く感じられる大学病院、都市銀行、総合商社、防衛庁などの巨大組織の生態を克明に記す。山崎が記してきたものは、もはや小説というよりも戦後社会そのものではないか。
 大澤真幸山崎豊子と<男>たち』は、純文学の世界で無視され続けてきた山崎作品のおそらく初めての本格的な評論となっている。大胆ながらほとんど破綻のない内容だけでなく、山崎作品をまた読み返したくなる点で成功している。
 
2・向田邦子(1929-1981)『向田邦子シナリオ集』(全六巻、岩波現代文庫
3・『向田邦子全集 新版』(全十二巻・別巻二、文藝春秋
5・太田光(1965生)『向田邦子の陽射し』(文藝春秋
 山崎豊子のあとに向田邦子を読むとほっとする。出てくる人間は誰もがさびしく、ずるくて、弱々しい。山崎作品だとこうはいかない。出来の悪い人間は大企業と銀行にいじめられるのが常だ。たとえいいところに入れたにしても、上司の濡れ衣を着せられ、よくて辞職、悪くて変死する。
 『七人の孫』『寺内貫太郎一家』などのテレビの脚本家としての仕事は、将来形に残らないから恥ずかしくないという理由で気楽にやっていたという。小説も編輯者に薦められて手遊びに書いていたらすぐに直木賞をとってしまった。作者本人が案外適当に書いてきたことが、わかりやすく、短い言葉で人間を抉り出す文学を生み出すに至った。
 文春版全集の月報では、爆笑問題太田光が「男が読む向田邦子」を寄稿している。太田光は、又吉直樹が現れるまでは、読書家芸人の代表格であった。ただし又吉と違い純文学はあまり好みではないと公言している。『向田邦子の陽射し』は大田の月報と、太田が選ぶ小説・エッセイの傑作選をまとめたものである。コメントが的確であるとともに、向田ファンとしての熱い気持が伝わってくる。

6・エティエンヌ・ボノ・ド・コンディヤック(1714-1780)『動物論 デカルトとビュフォン氏の見解に関する批判的考察を踏まえた、動物の基本的諸能力を解明する試み』(古茂田茂訳、法政大学出版局
 コンディヤックは合理論が支配的な当時のフランスで、イギリス経験論の系譜にあった哲学者である。今のところ邦訳は『人間認識起源論』(岩波文庫)と『論理学 考える技術の初歩』(講談社学術文庫)しかない。
 副題にもあるが、コンディヤックが批判するのは、デカルトとビュフォンである。この二人は人間だけに精神の存在を認め、それ以外の動物に精神は存在せず、物理的法則で動いているに過ぎないとみなす「動物機械論」を主張していた。のちの西洋思想史に大きな禍根を残すこととなる「動物機械論」を、コンディヤックは具に検討していく。その論述の過程が、具体的で面白く、お手本にしたい。
 コンディヤックの論述にも今日からみると疑問に思える箇所が多いが、批判的に検討している訳註が詳細に付されているのがさらによい。残念ながら懇切なあとがき・解説は訳者の急逝により書かれることはなかった。

7・J・M・クッツェー(1940生)『動物のいのち』(森祐希子・尾関周二訳、大月書店)
 クッツェー南アフリカ出身の小説家・評論家。『マイケル・K』と『恥辱』でブッカー賞を二度受賞し、2003年にノーベル文学賞
 クッツェーは、文章自体は比較的平易だが、なぜか捉えどころがない。『動物のいのち』も謎めいた構成である。プリンストン大学クッツェーが講演を頼まれたときに話したのが、小説家エリザベス・コステロが自由な内容でいいからと頼まれた講演における動物の権利問題を巡るスピーチと、それに付随したピーター・シンガーなどの実際の人物の講評を含む、この『動物のいのち』という文章であった。さらにエリザベス・コステロは、クッツェーノーベル文学賞を受賞した年に書かれた『エリザベス・コステロ』(鴻巣友季子訳、早川書房)でまた物議を呼ぶスピーチを行う。小説なのか評論なのかよくわからない。
 人間に認められる権利をなぜ動物には適用しないのか、動物を食べることは本当に許されるのか、とコステロは過激な意見を述べる。その激越さで読了後も認識が歪むような感覚を読者に与え続ける。

8・淀川長治(1909-1998)・蓮實重彦(1936生)・山田宏一(1938生)『映画千夜一夜』(全二冊、中公文庫)
 何より淀川さんが蓮實重彦をやっつけているのが小気味いい。淀川さんは日曜洋画劇場の優しい解説で親しまれていたが、相当な毒舌である。気に入らない映画や俳優に対しては容赦ない。
 蓮實重彦山田宏一の二人ですら淀川さんに決して太刀打ちできないのは、淀川さんが今日では散佚してしまった映画を観ているからだ。VHSやDVD、まして動画配信など考えられなかった昔、映画フィルムは一回上映されればそれっきりであった。さらに火事を恐れて古いフィルムは保管よりも処分が好まれていた。そんな草創期の映画も淀川さんの驚異的な記憶力で蘇る。
 その淀川さんも盟友黒澤明の後を追うようにこの世を去ってしまった。鼎談は映画の快楽を改めて思い知らせてくれると同時に、永遠に失われた映画史への哀惜の念も起こさせる。

9・竹内政明(1955生)・池上彰(1950生)『書く力 私たちはこうして文章を磨いた』(朝日新書
 読売新聞とNHKの関係者が朝日新聞の子会社で対談するという妙な本だ。
 当代随一の名文は、読売新聞の朝刊一面コラム『編集手帳』であろう。その著者である竹内政明・論説委員が文章の秘訣について語る。
 斎藤美奈子が『文章読本さん江』(ちくま文庫)で、名文指南の本を完膚なきまでに批判してから、文章読本のジャンルは潰えてしまったかのように思えるが、『書く力』は奇を衒うのではなく、簡潔明瞭な文章を志向している点で充分参考になる。とはいえ読了して思うのは、文章のコツはある程度学べても、『編集手帳』は到底真似できるものではないということだ。

10・羽田圭介(1985生)『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』(講談社
 羽田圭介は、芥川賞を同時受賞したのが又吉直樹であったがために作家としてのキャリアが狂ってしまったのではないか。又吉ではない方も面白い、とマスコミの露出が激しくなることはなく、純文学の枠の中で飄々と生きていったはずだ。
 受賞第一作の『コンテクスト・オブ・ザ・デッド』は日本の純文学業界の戯画である。ゾンビの出現で世界がパニックになるというあらすじだが、登場人物の多くは純文学業界に生きる人間である。純文学の凋落に苦しむ編輯者の須崎、須崎の担当であり若くして新人賞をとりながらもパッとしない小説家K、そしてKと同時期に新人賞を取りながらもマスコミにちやほやされている寡作作家の桃咲カヲル。登場人物の大方はモデルが思いつく。
 初出誌は純文学誌『群像』であるが、『群像』らしからぬエンターテインメント性を備えている。このこともまた純文学への揶揄となっている。