Дама с Рилаккумой

または私は如何にして心配するのを止めてリラックマを愛するようになったか

2018年に読んだ本ベストテン

2018年に読んだ本ベストテン。

1・ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房
2・Kazuo Ishiguro, “Never Let Me Go”, London: Faber and Faber.【カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)】
3・J. M. Coetzee, “The Childhood of Jesus”, London: Jonathan Cape, “The Schooldays of Jesus”, London: Harvill Secker.【J.M.クッツェー『イエスの幼子時代』(鴻巣友季子訳、早川書房)、『イエスの学校時代』(未邦訳)】
4・『江戸川乱歩全集』(全三十巻、光文社文庫)
5・『つげ義春全集』(全八巻・別巻、筑摩書房
6・パク・ミンギュ『三美スーパースターズ 最後のファンクラブ』(「韓国文学のオクリモノ」シリーズ、斎藤真理子訳、晶文社
7・菅原晃『高校生からわかるマクロ・ミクロ経済学』(河出書房新社
8・金森修『人形論』(平凡社
9・竹内政明『読売新聞朝刊一面コラム 竹内政明の「編集手帳」傑作選』(中公新書ラクレ
10・ダナ・ハラウェイほか著、巽孝之小谷真理編訳『サイボーグ・フェミニズム 増補版』(水声社

1・ブレイディみかこ(1965-)『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房、2017)
 緊縮、託児、移民、人種、貧困、ジェンダーといった複雑に絡みあう問題を、一度読めば忘れることのできない強烈な文体で曝露する。現代社会に生きる人間を考える上で、このイギリスの無料託児所という「地べたからのポリティクス」から発せられた人間たちの叫びの数々を無視することは不可能である。

2・Kazuo Ishiguro(1954-), “Never Let Me Go”, London: Faber and Faber, 2005.【カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫、2008)】
 カズオ・イシグロは長崎生まれの日系イギリス人作家で、2016年度にノーベル文学賞を受賞した。代表作『わたしを離さないで』のあらすじについては周知の通りなので、特に語る必要はないだろう。しかしあらすじを知っていても(知っているからこそ)疑問が疑問を呼ぶ構造となっている。
 ところで、ほとんどの読者が疑問に思うことだが、なぜ彼女ら彼らは運命に抵抗しようとはしないのだろうか。終盤でキャシーとトミーが計画したことも、あくまで自分たちの猶予(deferral)に過ぎず、システム全体を変えようとは考えていない。
『わたしを離さないで』のアダプテーションは、この面で違和感を覚えさせないように改変させられている。マーク・ロマネク監督の映画(2010、英)では、生徒たちは生体認証装置をつけられて監視されている。また、2016年のTBS系列のドラマ(森下佳子脚本)では、反対運動を展開する活動家の存在が重要なウェイトを占めている。しかしながら原作の小説には、反抗を防止するような外的監視もなければ、活動家もいないのだ。
 イシグロ自身は、キャシーたちの受容的な態度は人間に本質的なものではないかと語っている。しかしこのイシグロの説明だけでは不十分であるように思われる。さらに踏み込んだ説明をしているのが、『カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を読む ケアからホロコーストまで』(水声社、2018)所収の田尻芳樹の論攷「『わたしを離さないで』におけるリベラル・ヒューマニズム批判」である。田尻論攷は、キャシーたちが運命に抗わずそれを受け入れてしまうのは、キャシーたちの寄宿学校であるヘールシャムにおける人文・芸術教育のせいだと分析している。文学や音楽、美術などといった人文教育は一見、生徒たちに人間的な教養を授けてくれる、人道的で素晴らしいものであるかのように装っている。しかしながら、実際のところ、ヒューマニズム教育は、生徒たちに精神的な満足感を与えることによって苛酷な現実から目を逸らさせるように機能しているに過ぎないのだという。すると、この『わたしを離さないで』という小説も含めて、この現実における文学もまた抑圧の装置にすぎないのだろうか?

 
3・J. M. Coetzee(1940-), “The Childhood of Jesus”, London: Jonathan Cape, 2013. “The Schooldays of Jesus”, London: Harvill Secker, 2016.【J.M.クッツェー『イエスの幼子時代』(鴻巣友季子訳、早川書房、2016)、『イエスの学校時代』(未邦訳)】
 クッツェーは、『マイケル・K』と『恥辱』でブッカー賞を二度受賞し、2003年度にノーベル文学賞を受賞した。南アフリカアフリカーナーの家庭に生まれたが、父がイギリス贔屓であったために、英語の教育を受けていた。
現在はオーストラリアのアデレートに居住していることからもわかる通り、南アフリカの作家としてクッツェーを捉えるのはもはや狭い。ブエノスアイレスのサンマルティン国立大学の講座で語ったように、現在のクッツェーは、これまでの北半球中心主義的な文学に反旗を翻し、アフリカ、オセアニア南アメリカといった「南半球の文学」を提唱している。英語帝国主義へのささやかな抵抗として、最新短篇集『モラルの話』(くぼたのぞみ訳、人文書院、2018)も、スペイン語翻訳と日本語翻訳は出版されているが、英語の原語版はいまなお出版されていない。
 最新長篇『イエスの幼子時代』と『イエスの学校時代』は英語であるが、舞台はスペイン語圏である。移民船でやってきた5歳の少年ダビードは手紙を亡くし、迷子になってしまう。同じ船でやってきた初老の男シモンは、ダビードの父親として、母親探しの旅に出る。そしてイネスを一目見た彼は、彼女こそダビードの母親になるべき人間だと直感する。
 徹底的に削ぎ落とされた文体を通じて、豊かな物語性を楽しむことができる。しかしシモンや学校の教師たちを困らせるダビードの絶え間ない質問のように、クッツェーは根源的な問いを何度もぶつけてくる。家族とは何か、教育とは何か、世界とは何か、そしてスペイン語であるべきものが英語として書かれているこのテクストとは何か。
 タイトルからも分かる通り、『イエスの幼子時代』は聖書と『ドン・キホーテ』を暗示的に用いており、続く『イエスの学校時代』ではさらに、アンナ・マグダレーナとヨハン・ゼバスチャンとのバッハ夫妻と、ドミートリーとアリョーシャの『カラマーゾフの兄弟』とが絡みあっていく。

4・江戸川乱歩(1894-1965)『江戸川乱歩全集』(全三十巻、光文社文庫、2003-2006)
 乱歩の本文もそうだが、間村俊一による装幀が美しい。さらに註釈も非常にしっかりしている。光文社版文庫では、全小説と、大半の評論を収録している。
 江戸川乱歩エドガー・アラン・ポーにちなむ名前であることは有名だが、本名は至って平凡で、平井太郎という(そういえば怪人二十面相の本名も平凡であった)。平井太郎江戸川乱歩という二つの名前のように、彼の生涯と文学世界は、いろいろな矛盾する要素で成り立っている。
乱歩は早稲田大学で経済学を学んだ後、職を転々とする。造船所や新聞の広告担当、さらにはチャルメラ屋もやっている。極度の人嫌いであった彼は、仕事場の人間関係が嫌でたまらず、造船所の独身寮では、会社の同僚の目を避けるために、押し入れに閉じこもり、そこで一人本を読み空想に耽ることが唯一の楽しみであったという。
 1923年に森下雨村に送った短篇推理小説二銭銅貨」が絶讃され、その後は専業の推理小説家として活動していく。しかしながら、乱歩の本領は推理小説以外のところにあったのかもしれない。もちろん推理小説家としての乱歩の手腕は卓越しているものではあるが、トリックに矛盾があったり、伏線の回収を忘れていたりなど頻繁にミスをしている。むしろ、文体の香気、そしてエロ・グロ趣味によって乱歩は人気を集めたのである。明智小五郎が初めて登場する「D坂の殺人事件」もトリックはそれほどのものではないのだが、動機が面白い。
 屋根裏に隠した屍体の腐敗していく様を赤裸々に描く「蟲」、敬愛する女流作家に近づくため椅子の中に入り込んだ男の慾望を描く手紙「人間椅子」、孤島に楽園を築いた男が花火として打ち上げられ、島に血の雨が降る「パノラマ島綺譚」、そして乱歩作品で唯一全文発行禁止処分を受けた「芋虫」は、戦争によって四肢、五感の感覚器官を失い芋虫となった夫の物語であった……(「芋虫」は左翼からの評判がよかったが、乱歩自身はグロテスク趣味に過ぎないと断っている)。
 こんなエロ・グロ作家が健全な少年ものを書くようになるとは想像しがたいのだが、慧眼の持ち主であったのだろう、とある雑誌編輯者からの依頼で、乱歩は少年探偵団シリーズを開始し、終生のベストセラーとなる。しかし乱歩は少年もの、さらにエロ・グロものではなく、本格推理小説を書きたいという思いを常に抱き続けていた。
 戦争中は依頼が来なくなり、既存作品も版元が自主的に絶版にしてしまった。乱歩は、日中が暇になり、仕方なく隣組大政翼賛会などの組織長を引き受けたのだが、そこで秘められたマネジメント能力が開花することとなる。極度の対人恐怖症であった戦前とはうってかわって、戦後は、推理小説界の世話人として積極的に活躍していく。後進作家の育成にも世話を焼き、筒井康隆を発見したことも有名である。その代わりに、多忙のために戦後の小説には戦前の毒気が薄まってしまっている。それでも乱歩の活動がなければ、今の日本推理小説界は存在しなかったはずである。矛盾する要素で組み合わされた作家、江戸川乱歩は今もなお二十面相を見せつけてくる。

5・つげ義春(1937-)『つげ義春全集』(全八巻・別巻、筑摩書房、1993-1994)
 
 つげ義春は、〆切に追われて『ガロ』(青林堂)に書き殴った「ねじ式」(1968)によって、全共闘世代の若者たちから熱狂的な支持を受ける。この作品集では、「ねじ式」の他に「李さん一家」「紅い花」「外のふくらみ」「無能の人」なども収録されている。極度の貧困というリアリズムが、シュルレアリスムに転化していく様子は、忘れられない印象を残す。
 つげは葛飾の小学校を卒業後、地元のメッキ工場で働き始める。貸本漫画でデビューするが、極度の貧困に悩まされた。「ねじ式」によって70年代に突如インテリから注目されるようになる。このつげブームによって莫大な印税が入るものの、寡作となっていく。1987年の『別離』発表以降、たまにインタビューに応じる他は、完全に沈黙している。『ガロ』の版元である青林堂は、出版不況のあおりを受けてヘイト路線に転向した。『ガロ』のつげ作品の著作権青林堂有志が分離独立させた青林工藝舎が受け継いでいる。

6・パク・ミンギュ(1968-)『三美スーパースターズ 最後のファンクラブ(韓国文学のオクリモノ)』(斎藤真理子訳、晶文社、2017)
 これまで韓国・朝鮮文学は抗日と民主化運動の観点で語られることが多かったが、晶文社とクオンなどから現代韓国文学の翻訳が立て続けに出てきている。
 三美スーパースターズは、仁川に拠点をおいた韓国プロ野球草創期のチームであり、一年目で勝率0.125という驚異的な成績を残す。二年目には奇跡的な活躍をみせ2位まで上り詰めるも、三年目からはまた最下位争いを繰り広げ、親会社の経営不振によりあえなく消滅する。
 この最弱チームのファンクラブに所属したことがトラウマになった少年たちは、その後の人生で、社会の競争で負け続けるとはどういうことなのかを悟り、そして1997年の韓国通貨危機を乗り越えていく。

7・菅原晃(1965-)『高校生から分かるマクロ・ミクロ経済学』(河出書房新社、2013)
 こういうタイトルの入門書はえてして高校生が読んでもわからないものだが、この本は貴重な例外である。著者は北海道の公立高校の政治経済の教員で、本著の前身である自費出版が話題となり、古書価が急騰した。
 高校の教科書からの引用で、マクロ・ミクロ経済学をわかりやすく解説する。教科書の引用と並列する形で、経済学的に明らかにおかしい新聞報道も引っ張ってきてこき下ろす(例えば「日本の国家予算を安倍家の家計に例えると……」のようなコラム)。世間の議論の多くが、実は教科書の基本すら押さえられていないのだということを反省させてくれる。

8・金森修(1954-2016)『人形論』(平凡社、2018)
 著者の金森修は、筑波大、東京水産大を歴任、東京大の教育学研究科に在任中に大腸癌のため早逝した。『人形論』はおそらく最後の著作である。
 金森はガストン・バシュラールなどのフランス科学認識論(エピステモロジー)研究から出発したが、科学と詩学の世界を行き来したバシュラールの生き方をなぞるかのように、遺伝子組み替え、動物論、ゴーレムなど多彩な議論を展開した。最後に行き着いたテーマが人形であったというのは、いささか風変わりに思えると同時に、まさにふさわしい研究対象であるとも感じられる。
厖大な人形の形態や歴史、先行研究をまとめながら、金森は独自の人形論を作り上げていく。学術的であると同時に、人間味が感じられる。

9・竹内政明(1955-)『読売新聞朝刊一面コラム 竹内政明の「編集手帳」傑作選』(中公新書ラクレ、2018)
 残念ながら2017年に病気のため「編集手帳」の執筆から降りた。この本には、 2017年7月から8月までのコラムと、過去16年の傑作コラム、そして2015年度の記者クラブ賞を受賞した際の記念講演とからなっている。
 記念講演では、勝った人より負けた人、話題の人より日の当たらない人に味方してきたと明かす。
 人気力士の高見盛が引退した翌日の「編集手帳」は、もう一人の同郷の力士の引退を扱っていた。武州山は、大相撲でそこまで大きな成績をあげていないが、八百長が問題になった際にガチンコ力士第一号の認定を受けた。武州山は証拠品の携帯と通帳を提出しようとしたが、あなたがガチンコでやっていることはみんな分かっているよ、と突き返された。
 記念講演の文章を読むと、「日の当たらない人」に書くという信念が、「編集手帳」の名文につながっていったということが分かる。といっても凡人がそう心掛けただけでは、到底真似できる文章でもないが。

10・ダナ・ハラウェイ(Donna Haraway, 1944-)ほか著、巽孝之小谷真理編訳『サイボーグ・フェミニズム 増補版』(水声社、2001、初版はリブロポート、1991)
 アメリカのダナ・ハラウェイは、生物学的フェミニズムやサイボーグ研究から出発し、現在はコンパニオン・アニマル、ニュー・マテリアリズムの代表的論者となっている。1985年発表の論文“A Cyborg Manifesto”は、フェミニズムとサイボーグを連結させるという奇抜な発想ながら、緻密な議論を展開する。
 ハラウェイの邦訳は他にも出ているが正直なところ読みづらい。訳者が駄目というよりは、どうもハラウェイの英語が難解すぎるようなのだが、この本に収録されている小谷真理訳の『サイボーグ宣言』は非常に明晰である。さらに巽孝之サイバーパンクな序文や他の研究者の論文、関連するフェミニズム系SF作品の評論などが収録されており、ハラウェイの議論を摑む上で非常に親切なつくりとなっている。『サイボーグ・マニフェスト』を読めば、現代社会に生きる読者は自らをサイボーグとして認識するに至るであろう。