Дама с Рилаккумой

または私は如何にして心配するのを止めてリラックマを愛するようになったか

シリコンバレーの暗黒啓蒙、日本のカルト資本主義、ウォール街のランダム・ウォーカー(2019/07-2020/04の読書日記)

 フランス軍に占領されたイェーナで偶然ヘーゲルが目撃し「世界精神が馬に乗っている」と幻視したナポレオン・ボナパルトは、軍事的策略家であるだけでよく、自身が思想家である必要はなかった。同じことがドナルド・トランプにも言える。いかな道化じみたトランプであっても、その思想的欠如を批判の目的とするのではなく、何らかの思想(それがいかに異質だとしても)の表徴として捉えるべきではないか。
 インターネット出身の気鋭の評論家・木澤佐登志による『ニック・ランドと新反動主義 世界を覆う〈ダーク〉な思想』(星海社新書、2019)は、日本では体系立って紹介されていない暗黒啓蒙(dark enlightenment)あるいは新反動主義(neoreactionarism)、加速主義(accelerationism)といったトランプの背後に蠢く思想的潮流をコンパクトに追っていく。
 本書の核となるのはイギリス出身の哲学者、ニック・ランド(Nick Land)である。ランドは大陸哲学やサンバーパンク文化などを大学で研究していたが、大学側から次第にその姿勢を異端視され、個人的な研究所を設立する。現在は上海に居住し言論活動を展開している。西欧リベラル的な平等主義、民主主義を嗤い、資本主義社会をテクノロジーで加速させることによって真の自由の獲得を目指す彼の主張は、リバタリアニズム、イタリア未来派、ロシア宇宙主義、ラヴクラフトクトゥルフ神話サイバーパンク、90年代日本のアニメといった旧来の思想的潮流を踏まえ、新反動主義オルタナ右翼、中華未来主義(ランドは西欧的人権規範を無視してテクノロジーと資本主義を加速させる中国を羨望する)といった新しい思想的潮流を胎動させた(なお、ニック・ランドのブログの論攷を集めた『暗黒の啓蒙書』(五井健太郎訳)が講談社より刊行予定)。
 ニック・ランドと類似した主張を掲げる人物は、ランドに直接的影響を受けたか、独立に思想を発展させてきたかを問わなければ、多数いる。極右ウェブサイト「ブライトバート・ニュース」の設立者で、トランプ政権のアドバイザーを務めたスティーヴ・バノン、金融政策で統制されることのない自由な経済活動を可能にするビットコインの理論をネット上で発表した正体不明の人物サトシ・ナカモト、アメリカを株式会社化してGoogleの経営者やトランプ・オーガニゼーションに利潤の最大化を目指して経営させるべきだと考えるシリコンバレーのエンジニアたち……。
 中でも注目すべきは、シリコンバレーで隠然たる影響力を持つピーター・ティール(Peter Thiel)であろう。
 日本ではスタンフォード大学での講演録『ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか』(ブレイク・マスターズと共著、関美和訳、NHK出版、2014)が翻訳されているものの、スティーヴ・ジョブズジェフ・ベゾス、マーク・ザッカーバッグといったシリコンバレーの他の面々に比べたら知名度は低い。しかし、1999年に当時としては劃期的かつ安全な電子決済システムPayPalを開始しeBayに売却して巨額の資金を得てからは、「ペイパル・マフィア」と称される創業時メンバー、テスラのイーロン・マスクYouTube共同創設者チャド・ハーリー、LinkedIn創設者リード・ホフマンらの「ドン」として、シリコンバレーを陰に陽に動かしてきた。外部投資家として初めてFacebookに出資し、現在も会長を務めるデータ分析会社パランティア・テクノロジーズは米国政府やC I Aとも連携している(パランティアのデータ分析がビン・ラディン暗殺の決め手となったと噂されているが、ティールは否定も肯定もしていない)。
 一方で、民主党支持者が圧倒的に多いシリコンバレーにおいて、明確にトランプを支持して資金提供を行い、政権移行メンバーとなったことに関して批判が集中した(ティールをFacebookの外部取締役として置いていることを非難されたザッカーバーグは、トランプ支持者であっても言論の自由は認められるべきであると表明している)。ティールの言動に関しては、ニック・ランド的暗黒啓蒙から捉えるべきことが多い。
 邦訳で読めるティールの伝記としては『ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望』(トーマス・ラッポルド、赤坂桃子訳、飛鳥新社、2018)がある。
 西ドイツのフランクフルト出身のティールは、幼少期にアメリカに移住し、理数系の科目で秀でた才能を発揮する。しかしながら、シリコンバレーの大方の起業家とは異なり、スタンフォード大学では哲学を専攻した。大学在学中に傾倒したのが、フランス出身の思想家で、当時スタンフォード大学に勤めていたルネ・ジラールであった(ちなみにパランティア・テクノロジーズのCEO、アレックス・カープもユルゲン・ハーバーマスの指導のもと哲学の博士号を取得しており、ティールはその特異な経歴を気に入ってあえて登用した)。
 ティールが大学在学中に文化闘争が起きる。白人・欧米・男性中心主義的であった従来のスタンフォード大の文化教育のプログラムを、ポリティカル・コレクトネスの観点から見直す動きが出ていた。ティールは自由至上主義の観点からポリコレの押し付けに反撥し、保守系の学生新聞『スタンフォード・レビュー』において論陣を張り、『多様性の神話』(未邦訳)を執筆した(トランプ支持を表明した際に、『多様性の神話』の中で、性暴力に遭った女性にも落ち度があると主張していたことが報道されたことを受け、撤回と謝罪を表明した)。
 このエピソードから、ティールが争いを好む人間であるかのように思えるが、彼は実際には競争することを嫌悪している。その根抵にあるのが、ジラールから教わったミメーシス(模倣)理論である。人間の文明は他者の慾望を模倣することによって成り立っており、似たもの同士の競争が絶えない仕組みとなっている。そこからティールはこの無意味な競争から離脱し、誰にも真似できない完全に新しいものを創造(ゼロ・トゥ・ワン)して市場を独占するべきであると考え(ただし師のジラールはおそらくここまで主張していないと思う)、PayPalでそれを実践した。泡沫候補に過ぎなかったトランプを初期から支持していたのも逆張りの発想によるものだと言える。
 現在ティールはスマートフォンで「140文字」をいじらせて満足しているシリコンバレーの現状に不満を抱き、宇宙進出や不老不死関係の投資を目論んでいる。さらに、リバタリアニズムを徹底した海上小国家樹立を目指している。海上国家計画に関しては嘲笑されることが多かったためか、本人の口からあまり語られることはなくなっていた。しかし新型コロナの影響を受けてから、パンデミックと民主主義的な福祉国家の壊滅から富裕層が避難する場所として、この数ヶ月でにわかに注目されるようになってきた。
 リベラルを標榜するシリコンバレーに蠢くピーター・ティールのユニークな動きは、彼の得意とする逆張り投資らしく逆説的に未来に光を齎す啓蒙なのだろうか、それとも字義通りの暗黒啓蒙へと加速されていくのであろうか。
 日本の資本主義社会にも特異なイデオロギーが蠢動していることを示唆するのが斎藤貴男カルト資本主義 増補版』(ちくま文庫、2019、初版は1997年に文藝春秋より)である。
 ちくま文庫で新たに加わった武田砂鉄の解説は、90年代に顕著となった日本のカルト資本主義は、安倍政権と東京五輪強行によってカルト帝国主義に深化している……と主張しているが、こじつけめいている。また、斎藤の考察部分も主観が入り過ぎて全く説得力がない。それでもなお、個々の企業のオカルティズムへの傾倒の描写は綿密に取材されており読み応えがある。
 バブル崩壊後、オウム真理教が世間の注目を集める中、経営不振に陥った企業もオカルト的なものに触手を伸ばしていた。
 はじめに取り上げられるのが、ソニー千里眼・透視能力などを研究するエスパー研究所と催眠療法を研究する生命情報研究所である。エスパー研究所はソニーの会社名義を借りて透視能力は疑いえないという論文も発表している。科学技術に優れたソニー擬似科学を取り扱っているのは不思議であるが、東洋思想に興味のあった創業者の一人、井深大に気に入られて、予算を割り当てられていた。井深の死後にこの研究所は廃止される。
 また生命情報研究所も天外伺朗というスピリチュアル医学のエヴァンジェリストを擁していた。天外伺朗とは、手塚治虫の怪作『奇子』の中で比較的まともな登場人物の名を借りたペンネームである。ペンネームでありながら、明らかにソニーの社員が執筆していると分かるようになっている。
 ソニーがここまで胡散臭いオカルトに入れ込んでいたことに驚くが、とはいえ、それを認めるだけソニーが自由な社風であった証拠と肯定的に見ることもできるだろう。天外伺朗、本名土井利忠もAIBOの開発責任者として有名になった。
 ソニー以外にもいかがわしい話が集められている。科学的にありえない永久機関に出資していた住友商事大林組、公教育にまで入り込んでいるEM菌、カルト教団ヤマギシ会に洗脳的な社員研修を請け負わせていた大企業群、オカルトビジネスの総本山でコンサルティング会社・船井総合研究所の設立者である船井幸雄
総じて言えるのは、個人主義的・合理主義的な西欧への反撥とそのカウンターカルチャーとしての集団的・主観的な東洋への関心である。それは経営者にとって御しやすい、従順で生産的な労働者の育成に繋がっていく。『カルト資本主義』では、京セラ・DDI(現KDDI)の創業者で、日本航空の再建を手掛けた稲盛和夫も紹介されている。東洋的スピリチュアリズムを取り入れているとはいえ、経営学的にも評価の高い稲盛の考えは一概には否定できないと思うが、そこでも労務管理強化という危うさを孕んでいることが分かる。
 米国と日本とでは、同じ資本主義といえども、その異質な思想の顕現には各々の国の特性が窺える。それにしても日本のカルト資本主義的思考は、全体志向の割には、良くも悪くも突き抜けているピーター・ティールと比べてみみっちさが否めない。
 アメリカと日本の資本主義から発生した異質な思想をみてきたが、我ら凡愚は、どれだけ人文科学的・リベラルな教養を身に纏おうとも、資本主義からの離脱を図るほどの胆力がある場合を別とすれば、この資本主義社会の暗黒面にただただ呑み込まれるほかないのか。だがその中でもどうにか耐え抜くための智慧は存在するだろう。ただしそれは、これまでの教養・文化キャノンとは異なる形態を持っており、近代的な知識人としては「教養はサイコロを振らない」とでも言いたくなる代物かもしれないのだが。
 株式投資の名著であるバートン・マルキールウォール街のランダム・ウォーカー 株式投資の不滅の真理 原著第12版』(日本経済新聞出版社、井出正介訳、2019、原著初版は1973年)の主張は至って平凡である。将来の株の動きなんか誰にもわからない、おいしい儲け話に引っかからないで、市場平均に連動するインデックス投資で十数年のスパンでじっと辛抱していろ、と。
 よくある投資のテクニック本と違い、ひたすらこのことを言い続けている。この本で最も有名なのは、ウォール・ストリート・ジャーナル紙の相場欄に猿が何十個かダーツを投げて当たった会社の銘柄と、プロのトレーダーが選んだ銘柄との長期の運用成績の比較である。結果として運用成績は大して変わらなかったのである。この話だけで、この本の主張は事足りるが、それでもうまい儲け話に乗りたい、自分だけは大丈夫、株式相場には何かしら法則があるはず、と思ってしまうのが人間の常である。大部のこの本はひたすらこのような幻想を打ちのめすために大部分の頁を使っている。
 チューリップバブルや日本のバブル崩壊リーマン・ショックなどでいかにトレーダーたちが判断を見誤ってきたか、いかにペテン師が儲け話で素人ならず玄人もカモにしてきたか、いかに短期の株式相場がねじ曲げられているか(不動産王トランプがカジノのため社債を発行した際に、高リスクを主張したアナリストに激怒して、証券会社を脅してクビにした話が出てくる。なお、社債は本当にデフォルトとなった)という話が延々と紹介されるが、どれも皮肉っぽくて面白い。昔とは違って、AIを使えば成功できるではないかという批判もあるが、遠からずみんながA Iを使い始めるので無意味になる。
 個人的に最も面白かったのは、(日本語版だけにしかないようだが)一橋大学会計学者・伊藤邦雄の「伊藤レポート」の理論に基づいたROEファンドの失敗である。ROE自己資本利益率)が高ければ少ない資金で効率的に稼げている、したがって投資家に高リターンが見込めるという考えのもと、高ROE企業を厳選したファンドだが、実際には平均的な利回りを大きく下回った。というのも、このファンド自身のせいで無駄な資金が流入してしまい利益率が下がってしまったからである。偉大な伊藤先生もこんなお粗末な失敗をしでかしたのか、と微笑ましい。
 ランダム・ウォーク理論の反証として、ウォーレン・バフェットやピーター・ティールなどは一点集中で勝ち続けている、というものがあるのだが、それは非常に稀な才能があり巨額の資金力を有している場合のみに発生する例外と考えるのがいいだろう。この二人であっても、コロナ・ショックを同様に乗り越えられるかどうかはまだ誰にも分からない。
 ピーター・ティールは師ルネ・ジラールのミメーシス理論を飛躍させて、競争ではなく独占こそが成功の鍵であると考えている。ティールの顰みに倣い、ジラールの理論をランダム・ウォーク的に論理飛躍させるならば、次のようになるのではないか。凡人は模倣による局所的な競争に頭を悩ますのではなく、あらゆる模倣と競争を織り込み済みの確率・平均・偶然に身を任せて気長にやるのが成功の秘訣ではないか、と。
 

 

 

 

暗黒の啓蒙書

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カルト資本主義 増補版 (ちくま文庫)

カルト資本主義 増補版 (ちくま文庫)