Дама с Рилаккумой

または私は如何にして心配するのを止めてリラックマを愛するようになったか

松本俊彦「依存症、かえられるもの/かえられないもの」(2020/5-2020/9の読書日記)※(追記)2021年4月に『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』に改題の上、単行本刊行

 連載の第一回目を読んだだけでその傑作を確信できる作品というものがある。新潮社のPR誌『波』に連載されていたブレイディみかこの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の第一回(https://www.shinchosha.co.jp/ywbg/chapter1.html)がそうであったように、みすず書房のP R誌『みすず』に連載中である「依存症、かえられるもの/かえられないもの」も疑いようのない傑作である。ブレイディみかこが広く注目されるきっかけとなった『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』は同じ『みすず』の連載であったが、松本俊彦医師もこの連載が単行本となったときには幅広い絶讃を受けることは間違いない。

 といっても、松本先生は精神医学の世界ではすでに依存症と自傷・自殺予防研究の大御所であるようで、一介のビブリオマニアがその文章の出来不出来ばかりを云々するのもおこがましい限りではある。現在は国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所 薬物依存研究部の部長を務めており、一般人が普段手にするような版元から出ている著作としては、『薬物依存症』(ちくま新書)、『アルコールとうつ・自殺 「死のトライアングル」を防ぐために』(岩波ブックレット)、『自分を傷つけずにはいられない 自傷から回復するためのヒント』(講談社)、『自傷・自殺する子どもたち』(合同出版)とそれほどないが、海外の精神医学の文献を多数翻訳し、医学系の出版社から数多くの専門書を出している。最近ではピエール瀧高知東生の担当医を務めた。

 タイトルにある「かえられるもの/かえられないもの」は、「ニーバーの祈り」と呼ばれる文句、「神様、私にお与えください/変えられないものを受け入れる落ち着きを/変えられるものを変える勇気を/そして、その二つを見分ける賢さを」にちなむ。米国の神学者ラインハルト・ニーバーの言葉とされ、アルコール依存症患者の自助グループのモットーとして使われてきた。

 連載は2018年の5月号から始まった。試みに連載回の書誌情報を並べてみよう。それぞれの連載回のタイトルも欠くことはできない。一篇一篇が蠱惑的な短篇小説のような趣きであるのだから。

 

2018年5月号・第一回「「再会」 わたしはなぜアディクション臨床にハマったのか」

2018年8月号・第二回「「浮き輪」を投げる人」

2018年11月号・第三回「生きのびるためのセガ・ラリー・チャンピオンシップ」

2019年4月号・第四回「神話を乗り越えて」

2019年7月号・第五回「アルファロメオ狂想曲」

2019年10月号・第六回「失われた時間を求めて」

2020年3月号・第七回「カフェイン・カンタータ

2020年6月号・第八回「「ダメ。ゼッタイ。」によって失われたもの」

2020年9月号・第九回「泣き言と戯言と寝言」

 

 毎月掲載されている訳ではない。3か月に一度のペースである。しかも1月号と2月号は例年「読書アンケート特集」の合併号であり、通常の連載は載ることはないから、さらにひと月ずれ込む。なんと読者を焦らす連載であろうか。次回の松本先生の登場が待ち遠しくて仕方がない。3か月に一回だけ、というペースに気がついた今でも、月初の『みすず』の刊行日が近づくと、もしかしたら他の連載の穴埋めをするために急遽繰り上げで掲載されるかもしれない、とみすず書房のホームページにある最新号情報を何度もクリックしてしまう。これもまた或る種の依存症なのだろうか?

 第一回の「「再会」 わたしはなぜアディクション臨床にハマったのか」は、なぜアディクション「なんかに」関心を持ったのか、という若手からの質問に対して「不本意な医局人事のせいです」と答えるところから始まる。「精神医学の王道は統合失調症」という暗黙の了解がある大学医局の医師の間では薬物依存症患者への偏見があった。依存症専門病院の先任医師が突然退職したことに伴い、押しつけあいの末、一年だけ我慢してくれ、という口約束で松本先生はこの不人気ポストに回された。しかし松本先生は、根性焼きの痕が残る金髪の少年たちを診る度に「古い友人と再会するよう懐かしさ」を覚えていた。そして話は中学時代に遡る。

 1980年代、松本先生が中学時代を過ごした神奈川県小田原市では校内暴力が問題となっていた。生徒たちを恐怖政治で抑え込んできた体罰教師を、松本先生の同級生がノックアウトしたことをきっかけに、不良グループは学校を制圧した。窓ガラスが割れ、トイレには煙草とシンナーの臭いが立ち込め、教師たちは不良グループには弱腰でおべっかを使う。一方で、普通の生徒たちにはそれまで同様に体罰を振るい、生徒たちの間には教師への不信と不良グループへの支持が広まった。

 その中で松本先生は生徒会役員であった。不良グループへの共感と学校の治安維持というジレンマの中で、松本先生は喫煙、シンナー吸引をしている生徒への声掛けを行っていく。松本先生は学校の問題を話し合うため、毎日遅くまで生徒会室に残ったが、それには同じ生徒会役員で、吹奏楽部の女の子への片思いというもう一つの理由があった。

 紆余曲折ありながらも、不良グループと生徒会とは距離が縮まり、生徒会室に通う不良生徒も増えてきた。その中の一人に、松本先生と同じ小学校出身で、とても地頭ではかなわなかった同級生がいた。中学になってから不良になったものの、クラシック音楽を愛好し、松本先生にも気に入った曲を薦めていた。生徒会室で彼が松本先生と吹奏楽部の女の子と会話することが度々あったが、クラシックの話題になると、知識のある吹奏楽部の女の子と彼との会話が盛り上がり、松本先生は嫉妬を覚えた。

 しかし三年生の秋になって、彼は生徒会室から姿を消す。不良グループから聞いた話だと警察に捕まり少年院送りになったという。

 彼のいなくなった半年間の中学生活の最後、卒業式の日に不良グループの生徒達は号泣した。職員室に集まって教師たちに深々と頭を下げ、自分たちが穴を開けた箇所を修理し始め、教師たちは更生した生徒をみて感涙にむせぶ。

 このテレビドラマのように予定調和の光景をみた松本先生はシラけきって、教室を離れひとり生徒会室へと向かう。そこには先客が、片思いの吹奏楽部の女の子と、そして同日に少年院を卒業した彼が話をしていた……。

 初回のエピソードの衝撃は、シンナーで呂律の回らない彼が、二度と会うことはないであろう松本先生に最後に「貸した」ラフマニノフのLPレコードの「暗い情熱がほとばしる音楽」のように、通奏低音として全篇を貫いている。第二回以降は、とはいえ、また違う様相を呈してくる。「アディクション臨床にハマった」とある通り、松本先生もかなりの依存症体質なのだということが明らかになっていくのである。

 松本先生は「地元では一応名門とされる高校」(名前は出ていないがおそらく小田原高校)に進学するが、優等生であった中学時代とはうってかわり、授業をサボり、図書館で小田原城を眺めながら時間を潰し、16歳で喫煙を始める(喫煙するきっかけに、第一回目で出てきた同級生と片思いの女子が絡んでくるのだが)。

 その後精神科に興味を持ち(医学に興味を持った訳ではなく、精神科にいくには医学部にいくしかなかったということである)、佐賀医科大学(現在は佐賀大学医学部)に進むが、ここでも勉強に本腰を入れられず授業をサボり続ける。5年生になってやっと自分の危機に気づき、再履修と追試に明け暮れる。コーヒーをがぶ飲みし、それが効かなくなると、カフェイン錠のエスタロンモカを濫用して、強烈な覚醒と嘔気のなか、なんとか国試まで乗り越える(「カフェイン・カンタータ」、タイトルはコーヒーにはまる娘を父がたしなめるバッハの「コーヒー・カンタータ」より)。

 研修医となり、お金が少し貯まってからは、指導医が持っていたイタリア車アルファロメオに惹かれて衝動買いする。ドイツ車とは違い、手間のかかるアルファロメオの魅力とその改造に取り憑かれる(「アルファロメオ狂騒曲」)。

 依存症専門病院に勤務していたときは、無力感を慰めるため、帰りにゲームセンターの「セガ・ラリー・チャンピオンシップ」に通いつめ、その華麗なドライブ・テクニックによって中学生や高校生から一目置かれる(「生きのびるためのセガ・ラリー・チャンピオンシップ」)。

 これらのエピソードから、依存症の本質が仄見えてくる。薬物は一回でも使えば取り返しがつかないと喧伝されるが、そうだとしたらシンナーを使っていた不良グループの同級生たちは卒業後も薬物に依存しているはずだが大半はそうはなっていない。依存症に陥る理由は、薬物そのものの毒性だけでなく、濫用者の心の痛みにもある。クラシック好きだった彼も、中学で両親が離婚し、母親は恋人のもとに通い詰め家をほとんど空けていた。薬物やリストカットは、弱い自分の身体を改造する手段、生きのびるための手段である。そしてこれは本人の意思の弱さや甘えとして叱責するのではなく、些末な診断名に囚われず、患者たちの物語に寄り添って、病気として根気よく治療されなければいけないものである。 

 日本では、欧米と比べて薬物依存症患者が少ないことがかえって依存症患者への偏見を生み、症状を悪化させている。1980年代の民放連のCM「覚せい剤やめますか、それとも人間やめますか」、そしてそれに続く広報活動「ダメ。ゼッタイ。」が周知されているが、「ダメ。ゼッタイ。」の国連のもともとのキャッチコピーは“Yes to life, no to drugs.”であり、日本では人生への肯定的文句が訳し落とされているのである。これらの強迫的なキャンペーンによって、大多数の人々は薬物に絶対に手を出さないようになるが、心の痛みを抱えている一部の人々はこのような綺麗事を言う大人たちの言うことは信頼できず、薬物に惹かれる自分の人格を否定されたように感じて、かえって優しく接してくれる売人の方に心を許していくこととなる。松本先生が強調するには、ほとんどの薬物使用者・売人は、健全な大人がイメージするゾンビのような癈人ではなく、EXILE TRIBEのようにかっこいい存在なのだ!

 さらには、2009年の酒井法子の逮捕から、芸能人の薬物逮捕に関する報道が激化した。警察署に報道陣が待ち構え、カーチェイスの実況のように報道ヘリが追跡する。通院・入院している病院を特定しようと、依存症専門病院に取材が殺到する。患者たちは、ワイドショーによって繰り返し流される濫用のイメージ映像によって薬物使用への衝動をかき起こされ、コメンテーターのバッシングによって自己の肯定感を喪失しますます依存のリスクを高めることとなる。

 このような依存症に関する潔癖症は、癩(らい)病(現在の名称はハンセン病)患者を一掃しようとした「無癩県運動」から、現在の新型コロナ感染者のバッシングまでへとつながっている。ただ一つ、救いであったのは、長らくコロナの感染者が確認されてこなかった岩手県の知事がはやくから、最初の陽性者は責めずにケアしていくこと、目標は感染ゼロではなく県民の命と健康を維持すること、を明言していたことであった。

 つまりは、目標とすべきは、薬物依存症とその患者の撲滅ではなく、人間の命と健康を維持することである。これは何も薬物依存だけに限らない。酒、タバコ、インターネット、カフェイン、リストカットのように、ほとんど人間は多かれ少なかれ何かしらのものに依存しているのだ。全体の健康を守るためには、この種の不健康もある程度は容認しなければいけない。しかしながら、均衡が崩れ、頼るべき相手が誰もいなくなったとき、犯罪や自傷行為に走り、最悪の場合には自殺に至る。覚えておくべきは、最も危険度が高く、実際に直接間接の社会問題を生み出しているのは、違法薬物ではなくアルコールだということである。

 松本先生は自殺を決意した人を止めることは実際のところ難しいと語る。自分は死ぬ気はなくなったと周囲に嘘をついてでも自殺を決行しようとする場合もある。しかし、そうは言っても人は最後まで迷うものだ。飛び降り自殺者を捉えた監視カメラの映像では、ほとんどの自殺者が自殺直前にしきりに携帯電話の画面を覗き込み、誰かから連絡がこないかと気にしていた。さらに景観を損ねたくないという管理会社からの要望のために橋梁にわずか50センチの柵を設置しただけでも、その後の自殺者が激減したという。精神科医にできることは、次回の診察の予約を取って問題を先送りにし続けることだけかもしれない。それでも、次の診察の予約を入れてしまったからこそ、とりあえずその間は死なずに済むのである。

 松本先生は中学校・高校で薬物依存症と自傷・自殺予防の講演によく招かれるが、最後に必ずするアドバイスがあるという。悩みや問題を抱えているときどうすればいいか、あるいは自分の友人が大きな問題を抱えているときには……。松本先生のアドバイスは、結論からすれば大人に相談しろ、ということだが、その言葉には、医学的に明確な実践性と人生訓的な漠然性、世間の冷淡さと人々の善良さ、上っ面のヒューマニズムと辛い現実とが混淆し、「かえられるもの」と「かえられないもの」とが綯交ぜになっている。

「確かにすべての大人が信頼できるとは思いませんが、それでも私は、3人に1人は『信頼できる大人』がいると考えています。これは、精神科医という専門家としてだけでなく、40ウン年間生きてきた1人の大人としての人生経験にもとづいた確信です。ですから、たとえ最初に相談した大人が、『信頼できる大人』でなかったとしても、あきらめずに少なくとも3人の大人には相談してみてください。(…)

『すでに3人に相談したけど、3人ともみんなハズレだった』という体験をしている人がいるかもしれませんね。そのような方には申し訳ないですが、もう少しだけ相談にチャレンジしてみてほしいと思います。(…)

最後にもう1回くりかえしておきます。信頼できる大人は必ずいます。」

 この言葉は『自傷・自殺する子どもたち』(合同出版)で紹介されている。子ども向けではない大人向けのこの本でこの言葉が紹介されている真意であるが、単純に自身の活動の紹介というだけでなく、大人たちに、信頼できる大人の割合を増やすこと、すなわち自分がその信頼できる人間になる、少なくとも他のより信頼できる誰かへのメッセンジャーになるという、変えられるものを少しでも変える勇気を持つことを暗に促しているのだと思う。

 

※(追記)2021年4月に『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』に改題の上、単行本刊行

 

 (松本俊彦先生のリサーチマップ)

松本 俊彦 (Toshihiko Matumoto) - マイポータル - researchmap

薬物依存症 (ちくま新書)

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