Дама с Рилаккумой

または私は如何にして心配するのを止めてリラックマを愛するようになったか

近代日本文学アンソロジー①・新潮文庫版『日本文学100年の名作』

 純文学作品が充実している新潮文庫岩波文庫講談社文芸文庫にはそれぞれ下記の近代日本文学の短篇アンソロジーがある。

新潮文庫『日本文学100年の名作』(池内紀川本三郎松田哲夫編、全10巻)

岩波文庫『日本近代短篇小説選』(紅野敏郎紅野謙介千葉俊二宗像和重、山田俊二編、全6巻)

講談社文芸文庫『戦後短篇小説再発見』(井口時夫・川村湊・清水良典・富岡幸一郎編、全18巻)・『現代小説クロニクル』(川村湊佐伯一麦永江朗林真理子湯川豊編、全8巻

 なお同じようなシリーズでちくま文庫にも『ちくま文学の森』があるが、こちらは海外作品も含んでいるので一旦措く。

 新潮文庫岩波文庫のアンソロジーは2010年代に編まれた。『戦後短篇小説再発見』は2000年代初頭に刊行されたため、2000年以前の作品しか含まれていないが、2000年代以降の作品については『現代小説クロニクル』の方で補完されている。収録年代については、新潮文庫が1914年(荒畑寒村)から2013年(伊坂幸太郎絲山秋子)まで、岩波文庫が1889年(坪内逍遥)から1969年(三島由紀夫)まで、文芸文庫が1945年(平林たい子など)から2013年(瀬戸内寂聴!)までとなっている。

 日本における文庫本という形式が、分売を許さない円本の予約出版に対抗し、分割して簡易に読めるようにするという商業的戦略から発生したものであることを考えると、アンソロジーの企画は文庫の本義に叶うものと言える。また単著と違う利点として、目当ての作家以外でも強制的に遭遇させられることである。なんとなく食わず嫌いをしてきた徳田秋声尾崎一雄、中里恒子、幸田文野呂邦暢佐藤泰志山田詠美干刈あがたなどはアンソロジーに入っていなかったら決して単著を手を取ることはなかったであろう。

 三つの文庫で、稀に同じ作品が選ばれていることもあるが、各々の文庫によって趣が異なる。新潮文庫は最もバラエティに富んでいる一方で、首を傾げざるをえない作品も選ばれており外れも多い。岩波文庫は編者が国文学の研究者であるだけ、研究観点からは非常に興味深い硬派なコレクションであるが敷居が高いのは否めない。最も成功しているように思えるのは文芸文庫で、あまり知られていない代表作以外を選びながらも読み応えがあり、アンソロジーの題目の通り「再発見」を楽しめた。

 

以下で新潮文庫『日本文学100年の名作』でよかった作品を記載する。○はよかった短篇、◎は特に感銘を受けた短篇である。ただし必ずしも選ばなかった作品が駄作であるとみなしているわけではなく、肌に合わなかったり、価値を正当に評価できる段階にはないと感じた作品もあるので、念のため。

 

『第1巻・1914-1923 夢見る部屋』

佐藤春夫「指紋」(1918)

 佐藤春夫は現在単著ではあまりみかけないが、近代文学のアンソロジーにはよく収録されている。谷崎潤一郎との「細君譲渡事件」や石原慎太郎の「太陽の季節」の芥川賞受賞に激昂したというゴシップの方で記憶されているきらいがあるが、耽美的ながらも現代人にとっても読みやすい作家であるように思える。「指紋」は長崎の阿片窟、映画館、指紋による科学捜査が鍵となる探偵小説で、頽廃とモダニズムで読ませる。

谷崎潤一郎小さな王国」(1918)

 北関東に赴任した小学校教師の教室が転校生によって支配されていく顛末を初期の谷崎らしい悪魔主義マゾヒズムによって描く。

宇野浩二「夢見る部屋」(1922)

 誰にも知られない秘密の部屋を夢見る男の妄想が幻想的に綴られる。 

 

『第2巻・1924-1933 幸福の持参者』

梶井基次郎Kの昇天」(1926)

 ギリシャ神話のイカロス失墜に絡み、月と影に囚われて溺死した友人Kの姿を幻想的に描く。

加能作次郎「幸福の持参者」(1928)

 「幸福の持参者」とは家で飼うことにしたコオロギのこと。コオロギがもたらす幸福とあっけない終わりを淡々と描く。

夢野久作「瓶詰地獄」(1928)

 離島に漂着した兄妹に芽生える近親相姦の慾動を描く。三つの瓶詰め通信の流れ着いた順番が逆になっているという、時系列でも起きている倒錯で恐怖を増している。

龍胆寺雄「機関車に巣喰う」(1930)

 モダニズム作家の竜胆寺雄は最近になって晩年のサボテンマニアとしてのエッセイが注目されるようになったこと以外では忘れられている。荒川の河川敷に棄てられた機関車に住む駆け落ちしたカップルを描く。モダニズムの文体の面白さが味わえる良作である。

林芙美子「風琴と魚の町」(1931)

 行商人の家族が尾道に辿り着く。父の商売の気苦労とそれをみつめる娘の哀切さが心をうつ。

 

『第3巻・1934-1943 三月の第三日曜』

萩原朔太郎猫町」(1935)

 たまたま降り立った田舎町の人々が全員猫に変わる。詩人による散文詩的作品。

菊池寛「仇討ち禁止令」(1936)

 幕末維新期の社会の激変の中で因習に翻弄される高松藩士を描く。

尾崎一雄「玄関風呂」(1937)

 大半の日本の私小説は陰湿な貧乏自慢が癪に障るが、尾崎一雄私小説の流れにありながらも日本の純文学では珍しいユーモアが溢れている。「玄関風呂」は風呂桶を買ったものの、狭い家なので玄関口で風呂に入ることになった顚末を綴る。井伏鱒二などの登場人物の言動がいちいち笑いを誘う。

幸田露伴「幻談」(1938)

 釣りにまつわる怪異をおどろおどろしくではなく、釣りの蘊蓄と共にゆったりと語っていく。釣りがしたくなった。

岡本かの子「鮨」(1939)

 岡本かの子は漫画家の岡本一平の妻で、芸術家の岡本太郎の母。寿司屋の娘は老紳士の客に心を惹かれる。娘と老紳士の心のこもった交流と、その後突然寿司屋に老紳士が来なくなって娘の記憶から消えていく無常さの落差が印象に残る。

中島敦「夫婦」(1942)

 中島敦の小説は「山月記」などの漢籍に基づくものだけではない。中島は第一次大戦後日本の統治領となったパラオに教科書編纂の仕事のため赴任し、帰国後に南洋物の短篇を執筆したが、健康を損ない早逝した。「夫婦」は南洋物の一篇で、教科書的な中島敦のイメージとは全く異なる傑作である。パラオ島の風習に基づき、一人の男をめぐって決闘する女たちの顛末を、エロティックにあっけらかんと書いていて面白い。

 

『第4巻・1944-1953 木の都』

織田作之助「木の都」(1944)

 個人的な嗜好として関西系の作家は合わないことが多いのだが、「木の都」は大阪という都市が美しく描かれており大変よかった。故郷の大阪に戻ってきた主人公は戦況の悪化によって喪われていく大阪の風景と人を見送る。

太宰治トカトントン」(1947)

 太宰の文章のリズムは魔術的である。「トカトントン」は敗戦後に謎の音に苛まれる男の悩みをリズミカルな書簡体で読ませる。

島尾敏雄「島の果て」(1948)

 南島に駐留した青年は、魚雷艇による特攻命令を待つまでのあいだ、島の娘との逢瀬を重ねる。島尾敏雄は特攻の出撃命令で生と死の狭間を経験し、その後、島の娘ミホと結ばれるも狂気に満ちた夫婦生活を送った体験を綴り、戦後文学において特異な位置を占めている。「島の果て」は両者の発端となった加計呂麻島の体験を童話的な雰囲気で描いている。

小山清「落穂拾い」(1952)

 マイナー・ポエットと呼ぶべき小山清の代表作。本で繋がる孤独な人々の心象を描く。

 

『第5巻・1954-1963 百万円煎餅』

邱永漢「毛澤西」(1957)

 題名は毛沢東のパロディである。イギリス統治下の香港で、無許可の新聞売りをやる男は、警察に捕まったときには「毛澤西」と名乗る。何度も捕まる毛澤西に、気を許した警察が便宜を図ってやるが。

 邱永漢は台湾出身の直木賞作家だが、経営コンサルタント業や株式投資の方が世間的には有名で「金儲けの神様」と呼ばれていた。「毛澤西」はそんな俗っぽさがいい味を出している。

山本周五郎「その木戸を通って」(1959)

 家老家の娘との縁談が決まっていた正四郎の家に記憶喪失の娘・ふさがやってくる。正四郎はふさに惹かれ、もとの縁談を断るが。

 記憶喪失の感動ものは食傷気味であるが、「その木戸を通って」は別格の短篇である。山本周五郎はストーリー構成が圧倒的に上手い。現世だけを描きながら霊界の存在を幻視させる。まさに神業のような物語の運びである。

 

『第6巻・1964-1973 ベトナム姐ちゃん』

川端康成「片腕」(1964)

 「片腕」は印象的に始まる。「「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」 と娘は言った。 そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。」シュルレアリスム的な物語だが確かな感触をもって迫ってくる。

 ショート・ショートのSF作家である星新一は、意外なことに川端康成を絶賛していたらしく、「片腕」と、同じくシュルレアリスティックな『掌の小説』の「心中」に触れて、これらは自分には到底書くことのできない作品であり、未来において川端は『雪国』や『伊豆の踊り子』といった日本的な抒情美の作者としてではなく(これらの作品も仔細にみれば、川端の特異な感覚表現は普通の日本人的とされる情緒からは相当乖離しているように思えるが)、『片腕』などの超現実的な作品群の作者として知られているであろうと予見していたという。

野坂昭如ベトナム姐(ねえ)ちゃん」(1967)

 ヴェトナム戦争中、横須賀で米軍を相手にする娼婦と戦地に向かう米兵との交流と破滅を描く。軽妙で卑猥な戯作者的筆致の中に戦争の悲惨さが浮かび上がる。

小松左京「くだんのはは」(1968)

 芦屋のとある屋敷の人はなぜか原爆投下と敗戦のことを知っていた。そこの子供は、屋敷の中にいるという見たことのない病気の少女が何かを知っていると気づき、その姿をみようと躍起になる。第1巻の内田百閒「件」と同じ怪異を題材にしている。

野呂邦暢「鳥たちの河口」(1973)

 諫早に住む失業中のカメラマンが、干潟でバードウォッチをする。人生と家庭に対する不安、静かに狂い始める自然と世界、その中から湧出する未来へのわずかな希望を、視覚的に卓越した文体で描く。

 

『第7巻・1974-1973 公然の秘密』

藤沢周平「小さな橋で」(1976)

 博打で身を隠した父と駆け落ちした姉、その二人への恨み言をこぼす母との関係に悩む少年が事件に巻き込まれる。大人になるための諦観を静謐に描く。

向田邦子「鮒」(1981)

 家の勝手口のバケツに突然鮒が入れられる。夫はかつての浮気相手の嫌がらせだと気づいているが、鮒を飼おうとする家族を止められない。鮒によって蘇る過去の秘密と、その後始末がユーモラスに描かれる。

 

『第8巻・1984-1993 薄情くじら』

佐藤泰志「美しい夏」(1984)

 近年再評価されている佐藤泰志の一篇。東京で同棲する金のないカップルが、東京の近郊へ家を探しに行く。ただそれだけの小品であるが、貧しさの中での東京の若者の暮らし、不動産屋に足元をみられる恥辱、閉塞感溢れる日常の中でそれでもかすかな光をみつめていく様子が清冽に描かれている。

宮本輝力道山の弟」(1989)

 尼崎でプロレスラーの力道山の弟を名乗り「力道粉末」という怪しい薬を売り歩いていた男を回想する。そのインチキ商売から庶民の哀歓が伝わる。

尾辻克彦赤瀬川原平)「出口」(1989)

 帰宅時に便意に襲われた男の葛藤を描く珍作。

中島らも白いメリーさん」(1991)

 ルポライターは娘から聞いた「白いメリーさん」の噂を調査してガセネタであるとの証拠を掴むが。サブカルと都市伝説で読者を笑わせながら、ゾッとする展開にもっていくのがうまい。

阿川弘之「鮨」(1992)

 講演会で貰った寿司の弁当を食べきれず、棄てるのも勿体無いと思った主人公は上野駅前の浮浪者にあげてよいものか思案する。志賀直哉から継いだ端正な文章で綴られる佳品。

 

『第9巻・1994-2003 アイロンのある風景』

吉村昭「梅の蕾」(1995)

 妻の療養生活のために三陸海岸沿いの僻地に赴任した医師と村の人々との交流を描く。記録文学の名手である吉村昭らしい、感動を呼ぶようなシーンであってもエモーションを抑制した文体が素晴らしい。

重松清「セッちゃん」(1999)

 娘がクラスでいじめられているセッちゃんという女の子のことについて話す。近代文学の末流として捉えられる平成の作品が多い本アンソロジーにおいて、現代文学としての新しさが顕著な数少ない作品である。

 

『第10巻・2004-2013 バタフライ和文タイプ事務所』

高樹のぶ子「トモスイ」(2009)

 一度吸うともう死んでもいいと思うくらい美味しいという「トモスイ」を吸いに夜釣りにいく。触覚的な描写が独特である。