Дама с Рилаккумой

または私は如何にして心配するのを止めてリラックマを愛するようになったか

2020年に読んだ本ベスト10

2020年に読んだ本ベストテン。

 

1・松本俊彦「依存症、かえられるもの/かえられないもの」(2018年から2020年まで『みすず』に連載、みすず書房より単行本刊行予定)

※(追記)2021年4月に『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』に改題の上単行本刊行。

2・松本清張松本清張短編全集』(全11巻、光文社文庫

3・荒木優太編『在野研究ビギナーズ 勝手に始める研究生活』(明石書店)

4・ブレイディみかこ『ワイルドサイドをほっつき歩け ハマータウンのおっさんたち』(筑摩書房

5・エドガー・アラン・ポー『ポー短編集』(全3冊、巽孝之訳、新潮文庫

6・コナン・ドイル『ドイル傑作選』(全3冊、延原謙訳、新潮文庫

7・バートン・マルキールウォール街のランダムウォーカー 株式投資の不滅の真理』(井手正介訳、日本経済新聞出版社)

8・村田晃嗣『銀幕の大統領ロナルド・レーガン 現代大統領制と映画』(有斐閣)

9・善教将大『維新支持の分析 ポピュリズムか、有権者の合理性か』(有斐閣

10・入山章栄『世界標準の経営理論』(ダイヤモンド社

 

 

 

1・松本俊彦(1967-)「依存症、かえられるもの/かえられないもの」(2018年から2020年まで『みすず』に連載、みすず書房より単行本刊行予定)

※(追記)2021年4月に『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』に改題の上単行本刊行。

theladywiththedog.hatenablog.com

  まだ単行本になっていないが、大変に素晴らしいので載せる。

 依存症、自傷・自殺予防に関わる松本俊彦先生の業績と活動を知るにつけ、ただただ頭が下がる思いである。

この連載の単行本ばかりは、好事家としての気持ではなく、社会のために広く読まれてほしい。

 

2・松本清張(1909-1992)『松本清張短編全集』(全11巻、光文社文庫

西郷札―松本清張短編全集〈01〉 (光文社文庫)

西郷札―松本清張短編全集〈01〉 (光文社文庫)

  • 作者:松本 清張
  • 発売日: 2008/09/09
  • メディア: 文庫
 

 

 人間と社会の闇を鋭く抉った戦後日本の小説家として、清張の右に出るものはいないだろう。戦争、汚職、不倫、嫉妬、性慾、差別、貧困、差別などの人間の業を、厖大な作品群で描き続けた。

 清張は小倉市(現在の北九州市小倉北区)に育ち、貧しい生活を送った。十代後半で進学を諦め、職を転々とする。その後、朝日新聞社が小倉に西部支社を設置すると聞いて、広告デザイナーとして売り込み正社員となった。しかし大卒社員との露骨な学歴差別を痛感させられる日々が続く。復員後、生活費の足しにするため『週刊朝日』の懸賞小説に応募した「西郷札」が直木賞候補となる。ほどなく「或る「小倉日記」伝」が直木賞候補となり、選考途中で芥川賞の方に回されそれを受賞する。芥川賞受賞は1953年、44歳のときで、清張と同じ1909年生まれの太宰治は1948年に自殺している。自分のことを私小説家のように作品に投影することを嫌った清張であったが、この下積み時代の長さが清張文学の土台を作ったと言えるだろう。

 あまりにも厖大でジャンルが多岐にわたる清張の作品だが、短篇に清張のエッセンスが詰まっていると言われる。

光文社版の短篇全集は清張自選によるものである。以下に年代順で十選を掲げる。

 

一・「或る「小倉日記」伝」

 

 身体に障碍を抱える孤独な青年が、小倉左遷時代の森鷗外の日記の空白期間を埋めようと奮闘する。現実生活への厳しさと研究への情熱とが胸をうつ。

 芥川賞選考委員の坂口安吾が、選評において「小倉日記の追跡だからこのように静寂で感傷的だけれども、この文章は実は殺人犯人をも追跡しうる自在な力があり、その時はまたこれと趣きが変りながらも同じように達意巧者に行き届いた仕上げのできる作者であると思った。」と、のちの清張の推理小説家としての活躍を予見していたことで有名である。

 

二・「火の記憶」

 

 婚約者の男の父親が失踪扱いであったことに、相手方の家族は若干の疑念を抱いたが、大きな問題はないとして無事に結婚に至る。何年かして、夫は妻に自分が知っている限りの事情を明らかにし、失踪の真相を探っていくが。

 清張の推理小説は結末がある程度予想できるものが多い(といっても予想はできても気になって読み進めてしまうし、そもそも倒叙形式にしているものもある)。しかしながら、「火の記憶」のオチだけは全く想定外で、これまでの人間の関係がひっくり返ってしまったので動揺してしまった。

 

三・「赤いくじ」

 

 日本統治下の朝鮮で二人の軍人が、出征中の軍人の塚西夫人に近づこうと争っていた。敗戦後、アメリカ軍が進駐してくると聞いた軍の上層部は、心証をよくするため、日本人の女性を慰安のために差し出そうとする。その対象者は、米軍の事務対応の手助けをする者を選ぶという名目のくじ引きで決められたが、その中には塚西夫人もいた。

 予想と違い進駐軍との対応はあっけなく終了したが、引き揚げの際にはくじ引きの本当の意味が日本人の間で知れ渡っていた。

 「黒地の絵」と並び、清張の短篇の中でも最悪の読後感を残す。

 

四・「張込み」

 

 東京での強盗殺人犯が、九州にいるかつての恋人を尋ねてくるのではないかと睨んで、刑事が張り込む。つまらない家庭生活に閉じ込められた女に昔の恋愛の面影はなかったが、終盤で一瞬の生命の発露をみせる。

 野村芳太郎監督、橋本忍脚本の映画では、原作結末以降の話が加えられているが、こればかりは原作のようにあっさりと冷酷に終わらせる方が上手であると思う。

 

五・「声」

 

 清張のクライム・ミステリーには、日常のちょっとしたことで犯罪に巻き込まれる恐怖がある。

 新聞社で電話の交換手を務めていた朝子は、間違えてかけた電話で、強盗殺人犯の声をきく。何百人もの声を聞き分けられる朝子であったが、犯人の手がかりは摑めず、朝子も会社を辞めて結婚生活に入る。しかしそこにかつての声の記憶が忍び寄る。

 

六・「怖妻の棺」

 

 江戸時代の旗本、弥右衛門は妾宅で急死する。友人の兵馬は彼の恐妻のところに報告にいくが、愛人の存在を隠していたことを激しくなじられる。なんとか遺体の引取りを承諾させ、兵馬が妾宅に戻ると弥右衛門は息を吹き返していた。しかし弥右衛門は妻に浮気がばれたことに怯え、また切腹するしかないと言い出して……。

 清張には珍しくユーモラスな作品である。

 

七・「鬼畜」

 

 不倫相手が男の家に子供三人をおいて蒸発した。正妻は子供たちを処分するように妻に冷たく言い放つ。

 虐待の過程を淡々と記述していくのが恐ろしい。

 

八・「紙の牙」

 

 R市では市政新聞が跋扈しており、報道の名のもとで職員を脅し、協賛金の名目で金をせしめていた。R市の課長圭太郎は、愛人と温泉街にいるところを市政新聞の記者に目撃されたために便宜を要求されていく。

 弱みを握られた人間の哀れさが滲み出る。

 

九・「愛と空白の共謀」

 

 関西に出張していた夫が宿泊していた旅館で急死する。未亡人は亡夫の妻子持ちの同僚と親しくなり、出張に同行するが。

 ひとえに不倫相手と言っても、相手の家族に配慮できる人間と、自分の保身しか考えない器の小さい人間がいるのである。

 

十・「駅路」

 

 銀行を勤め上げた男が突如失踪する。子供を育て上げたのちに家庭から逃れ、もう一つの人生を歩もうとする男の悲しい末路を辿る。

 向田邦子が「駅路」を原作に「最後の自画像」というNHKドラマの脚本を書いている(新潮社より刊行)。清張の原作にはなかった女性側からの視点が反映されており、相変わらず鋭い台詞に唸る。

 

3・荒木優太(1987-)編『在野研究ビギナーズ 勝手に始める研究生活』(明石書店)

 

 

 

 高等小学校卒業の清張は、学閥に対して激しい対抗心を示した。古代史や昭和史などで独自の説を開陳して波紋を広げた。かなり陰謀論的で面白さはともかく学術的に妥当なものかは微妙だが、中央の固陋な大学エリートという存在に対する異議申し立てとしての意義はあっただろう。

 一方で現在の日本の大学は、清張が批判した閉鎖性以上に、経済的な苛酷さがますます深刻となっている。よほどの能力、幸運がない限り、研究者(特に文系)がポストを獲得することは困難である。

 このような現状の中で、大学での研究のオルタナティブを提示する本書が編まれたのも時代の要請であろうか。明治大学大学院で有島武郎修論を出して現在在野研究者となっている編者が、在野研究の意義と方法、メリットとデメリット、生活との両立、在野研究者へのインタビューなどをまとめている。在野研究の道もまた手探りで厳しいが、今後の学術研究発展への希望を抱かせてくれる。

 

 

4・ブレイディみかこ『ワイルドサイドをほっつき歩け ハマータウンのおっさんたち』(筑摩書房

 

 

 

 『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)がベストセラーとなった著者が、そのB面ともいうべきイギリスの労働者階級の白人中年男性を描いた新作である。題名は、労働者階級の子供が学校・教育への反抗的姿勢を示すことによって労働者階級が再生産されていく過程を綴ったポール・ウィリスの教育社会学の名著『ハマータウンの野郎ども』(ちくま学芸文庫)より。

 ブレグジットやトランプ当選で、リベラル派の若者から悪口ばかり言われる中高年の白人男性層であるが、彼らなりにオールドエコノミーの低迷を受けて苦しんでいるのである(ただし白人男性の苦境を強調することが、それ以上の苦難を味わってきた黒人や女性の問題を相対的に隠蔽してしまう可能性には留意しなければならない)。

 とりわけ印象的なのが、第7章「ノー・サレンダー」の強面でスキンヘッドのスティーブである。彼は忙しい仕事の合間をぬって図書館に通い詰めている、いわば在野研究者である。しかし保守党の緊縮財政下、図書館は閉鎖され、保育園と併設の、少しばかりの絵本と、受け取りカウンターがあるだけの図書室になってしまった。それでもスティーブは意地で黙々と本を読み続けるが、次第に子供たちの世話も手伝わされるようになって……。

 

5・エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809-1849)『ポー短編集』(全3冊、巽孝之訳、新潮文庫

 

 

 

 推理小説とS Fのはしりであり、その恐怖と美にみちた異常な世界に追って、世界中に信者を生み出し続けている19世紀アメリカを代表する小説家・評論家・詩人のエドガー・アラン・ポーの作品を、サイバーパンクや新歴史主義などに精通している巽孝之が、「ゴシック編」「ミステリ編」「S F&ファンタジー編」に分けて紹介する。

 新型コロナによって再注目された「赤き死の仮面」や、女性崇拝とそれを守るための奴隷制を支持した差別主義者としての側面もほの見える世界初とされる推理小説「モルグ街の殺人事件」といった定番に加え、サイボーグとして読み解く「使い切った男」、実在した謎のオートマトンから人工知能・AIの問題につながる「メルツェルのチェスプレイヤー」、ディストピアを先取りし映画『ブレードランナー』へと繋がる(これは流石に繋げ過ぎな気がする)未完の遺作「灯台」など、ポーの魅力を現代的テーマに繋げ甦らせる。

 

6・コナン・ドイル(Conan Doyle、1859-1930)『ドイル傑作選』(全3冊、延原謙訳、新潮文庫

 

 

 

 シャーロック・ホームズの生みの親であるが、本人はホームズものをお気に召していなかったようである。しがない開業医であったドイルは、小遣い稼ぎに小説を書き始め、ホームズもので思わぬブームを巻き起こした。しかし本当になりたかったのは歴史小説家であり、妙に人気になってしまったホームズに嫌気がさして、「最後の事件」において、モリアーティ教授とのどさくさの中でホームズを殺す訳だが、読者の抗議が殺到しにやむなく生き返らせた。

 ホームズだけでドイルを語るのは本人に申し訳ない気がする。このアンソロジーは、ホームズが出てこないドイルの名短篇を「ミステリー編」「海洋奇談編」「恐怖編」の三篇に分けて紹介する。見事なプロットと読者へのサービス精神が発揮されている。

 中でも「五十年後」は感動する。カナダにいったきり帰ってこない男の言葉を信じて婚約者はイギリスで待ち続ける。男の方はカナダで暴漢に襲われ記憶喪失になっていたが、五十年後……。オカルトの味付けが効いている。

 ところでこの新潮文庫版傑作選だが、本当は全8冊あるらしい。「ボクシング編」や「海賊編」もあるとの噂は読んだことがあるのだが、ネットにもほとんど情報がないし、図書館でも実物を見かけたことがない。

 新潮文庫でのドイル作品の整理番号は「ド-3-○」だが、現状1(『シャーロック・ホームズの冒険』)から13(『ドイル傑作選(Ⅲ)』)まで全て埋まっており、この間には絶版は存在しないはずである。そのため絶版本が存在するとは思っていなかったのだが、そうすると、「ド-3-14」以降に『ドイル傑作選(Ⅳ)』以降が存在したのだろうか。

 新潮文庫版と似たコンセプトの創元推理文庫版の『ドイル傑作選』(全5冊)でも他の短篇が結構読めるのだが、やはり喪われた新潮文庫版が気になる。誰かこの謎を解いてくれる名探偵はいないものか?

 

7・バートン・マルキール(Burton Malkiel、1932-)『ウォール街のランダムウォーカー 株式投資の不滅の真理 原著第12版』(井手正介訳、日本経済新聞出版社)

 

 

 

 株式相場はランダムなので予測しようがないという、ショックで受け入れがたい、しかし当たり前な主張を手を替え品を替え懇切に繰り返す。

2020年の年始も3月の急落はおそらく誰も予想できなかったし、その後の感染再拡大や、株式市場にマイナスと警戒されていたバイデンの勝利にもかかわらず、ひたすら急騰し続けたことはさらに予想できなかったことである。

 とはいえ、いくらこの本でインデックスを長期で放置するのが最善と言われても、今度の自分だけは違うと慾を出して大損をしてしまうのが大半の人間の性ではある。この本でインデックス投資の万能性を知ったはずの私も、高金利のロシア国債に目がくらんでしまい、為替変動で巨額の含み損を抱えてしまった。

 

8・村田晃嗣(1964-)『銀幕の大統領ロナルド・レーガン 現代大統領制と映画』(有斐閣)

 

 

 

1980年代のアメリカ大統領ロナルド・レーガンは功罪ともに大きな影響を残した。小さな政府と軍備増強、保守文化を志向したタカ派として批判されながらも、イギリスのサッチャー、日本の中曽根、西ドイツのコール、ヨハネ・パウロ2世、そしてソ連ゴルバチョフといったプレーヤーとともに1980年代の国際政治を大きく動かした。学生時代にレーガンの人気を受けて政治家活動をはじめ、レーガンの美声を思わせるバリトンの演説で支持者を熱狂させ、支持率が低迷していた時期にはレーガンの伝記を読んでヒントを得ようとしていたオバマもまたリベラル派のレーガンの息子であったと言える。

レーガンはハリウッド俳優出身の大統領であったが、売れないB級俳優だったとして俳優時代のことは等関視されてきた。この本は映画俳優時代のレーガンと政治家時代のレーガンとがいかに相互に関わりあってきたかを解き明かす。

レーガンは俳優時代に演劇と発声のメソッドを叩き込み、それが政治家時代の演説、立ち回りのうまさにつながった。また『リーダーズ・ダイジェスト』を愛読し、ジョークを飛ばす楽天主義的な要素も大衆の心を惹いた。そしてレーガンの大統領としての強烈な個性は、アメリカ映画における政治の描かれ方にも大きな余波をもたらした。

 中でも就任直後に発生したレーガン暗殺未遂事件は、映画と政治が互いに呼びかわしている。レーガン自身が映画俳優出身であり、その日はアカデミー賞の授賞式に出席する予定であった。犯人は『タクシー・ドライバー』を観ており自分がジョディ・フォスターと付き合っているという妄想に囚われ彼女を惹くために大統領暗殺を企てた。そして『タクシー・ドライバー』での大統領候補暗殺計画は1972年のジョージ・ウォレス暗殺事件を題材にしていた。さらにレーガンを庇ったシークレットサービスのジェリー・パーがシークレットサービスを目指したきっかけはレーガン主演の映画『シークレットサービスの掟』であった。この事件で生き延びたレーガンは一気に支持を固めていく。

 

9・善教将大(1982-)『維新支持の分析 ポピュリズムか、有権者の合理性か』(有斐閣

 

 

維新支持の分析 -- ポピュリズムか,有権者の合理性か

維新支持の分析 -- ポピュリズムか,有権者の合理性か

  • 作者:善教 将大
  • 発売日: 2018/12/20
  • メディア: 単行本
 

 

 日本維新の会はインテリ層から蛇蝎の如く嫌われている。しかしながらこの本では、維新の会のポピュリズムを一括りに批判する方が逆に短絡的になってしまっていないかと皮肉っている。

 維新の会を単純にポピュリズム現象と位置付けるといくつかの矛盾が生じる(そもそも維新をポピュリズムだと批判している論者がポピュリズムが何かを理解しているかどうかは疑問だが)。例えば大阪府では自公と共産党が相乗りしても敵わないほどの圧倒的な人気を誇るが、関東、兵庫、京都、滋賀などの大阪府以外ではそれほど支持があるわけではない。

特に大きな反証となっているのが2015年の大阪都構想住民投票が僅差ながら否決されたことである。その選挙をきっかけに維新が飽きられた訳ではなく、その後の選挙では維新の勝利が続いている。著者はこの住民投票の結果をもとに、維新支持者は、意外と合理的に大阪の住民の意見を代弁してくれる集団としての維新を評価し、それゆえにメリットに懸念があった大阪都構想では賛成を留保したのだと仮説を立てる。それを感覚的な議論ではなくデータ分析に基づいて数理的に解き明かしていく。

 2020年の2回目の住民投票においても、直前の吉村人気にもかかわらず前回と同じような結果に終わったことは本書の主張の妥当性を示しているだろう。有権者は大衆が思うほど万能ではないが、エリートがけなすほど馬鹿でもないということだろう。

 

10・入山章栄(1972-)『世界標準の経営理論』(ダイヤモンド社

 

 

世界標準の経営理論

世界標準の経営理論

 

 

 ビジネス系のコメンテーターやインフルエンサーが「社会学や人文系の学問は自分の思いつきを勝手に書いているだけ」というような類のことを言っていると、(経営学やビジネス書も大概やぞ……)とぼやきたくなるが、本書は経営学を根柢の理論から記述する優れた大著である。

経営学を経済学、社会学、心理学の3ディシプリンを基礎においた応用の学として位置付け、代表的・標準的な30の理論を紹介する。個人的に気に入ったのはゲーム理論と、企業がなぜ存在するのかという根本的疑問にこたえる取引費用理論、金融のオプション取引を応用し将来の不確実性に対処できるようにするためのリアル・オプション理論である。

 理論は現実の後追いをしているのではなく昔の理論が十分その後現実に起こったことを説明できること、SWOT分析のようなフレームワークは理論そのものではなく、それを金科玉条の如くいじくるのは合理的ではないことなど、帰納的ではなく演繹的に経営学を理解するヒントに溢れている。

2020年に観た洋画ベストテン

2020年に観た洋画ベストテン。

 

1・ポン・ジュノ『パラサイト 半地下の家族』(기생충、2019、韓)

2・キム・ギドク(1960-2020)『春夏秋冬そして春』(봄 여름 가을 겨울 그리고 봄、2003、韓独)

3・キム・ギドク『嘆きのピエタ』(피에타、2012、韓)

4・エレム・クリモフ『炎628』(Иди и смотри、1985、ソ連

5・ビリー・ワイルダーフロント・ページ』(The Front Page、1974、米)

6・ジョージ・A・ロメロ『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』(Night of the Living Dead、1968、米)

7・クリント・イーストウッド『リチャード・ジュエル』(Richard Jewell、2019、米)

8・ジョエル&イーサン・コーエンノーカントリー』(No Country for Old Men、2007、米)

9・ジョエル・コーエン『ファーゴ』(Fargo、1996、米)

10・スティーヴン・スピルバーグ『激突!』(Duel、1971、米)

 

1・ポン・ジュノ(봉준호、1969-)『パラサイト 半地下の家族』(기생충、2019、韓)

 

 

パラサイト 半地下の家族(字幕版)

パラサイト 半地下の家族(字幕版)

  • 発売日: 2020/05/29
  • メディア: Prime Video
 

 

 貧困は現代映画の大きなテーマの一つとなっている。日本の『万引き家族』、イギリスの『わたしは、ダニエル・ブレイク』、アメリカの『ジョーカー』に続き、韓国でも貧困映画の傑作が現れた。

 失業中の父と母、それに美大志望の娘と多浪の息子からなるキム家は、アパートの半地下で暮らしていた。息子のギウは名門大学に通う友人の留学中に英語の家庭教師の代理を頼まれる。辿り着いたパク家は大豪邸を構える富裕層であった。家庭教師の高額報酬に目のくらんだキム一家は、弟の絵の家庭教師、運転手、家政婦となってパク家に寄生していく。

 経済格差、貧困、男尊女卑、自然災害、北朝鮮問題などをブラックユーモアで描く。どの場面を切り出しても暗示に富んでおり、視点を変えるだけで無限に解釈の可能性がある。

 

2・キム・ギドク(김기덕、1960-2020)『春夏秋冬そして春』(봄 여름 가을 겨울 그리고 봄、2003、韓独)

 

 

 

春夏秋冬そして春(字幕版)

春夏秋冬そして春(字幕版)

  • 発売日: 2020/11/04
  • メディア: Prime Video
 

 

 いま韓国映画といえばポン・ジュノであろうが、少し前まではキム・ギドクも並び称されていた。韓国にも波及した#MeToo運動の中でギドクはハラスメント告発により韓国映画界から追放される。海外を転々とし、2020年の12月、永住先として考えていたラトビアで新型コロナに罹患し急逝した。

 作品と作者は別、といえばそれまでだが、ギドクにおいて作品内の過激さと撮影現場での暴力とはやはり繋がってしまっているとみるべきであり、手放しで称讃するべき作品ではないということについては留保しなければならない。

 『春夏秋冬そして春』では、仏教の寺院での四季の移りかわりと若者の成長が淡々と描かれる。春に小動物に残酷な悪戯をしていた少年は、夏に寺を訪れた少女と恋に落ちる。そして季節と人生は巡りゆき……。人間の一生を四季を通して簡潔にまとめ上げている。

 

3・キム・ギドク『嘆きのピエタ』(피에타、2012、韓)

 

 

嘆きのピエタ(字幕)

嘆きのピエタ(字幕)

  • 発売日: 2017/03/24
  • メディア: Prime Video
 

 

 ピエタとは、十字架からおろされたキリストを抱いて嘆くマリアを描く聖母子像のことである。

 高利貸しのイ・ガンドのもとに、突如いなくなったガンドの母を名乗る女が現れる。債務者からの嫌がらせと思っていたガンドだが、次第に本当の母なのではないかという疑いに駆られていく。

かなり捻りを加えて親子関係を問う作品である。イ・ガンドを演じるイ・ジョンジンがGacktに似ている。

 

4・エレム・クリモフ(Элем Климов、1933-2003)『炎628』(Иди и смотри、1985、ソ連

 

 

炎628 [DVD]

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  • 発売日: 2013/12/20
  • メディア: DVD
 

 

 戦争映画の中でもその救い難さで知られている。628とは、独ソ戦中にベラルーシで焼き払われた村の数である。

 ドイツ占領下のベラルーシで、フリョーラ少年はパルチザン部隊に憧れ、家族の反対を押し切り志願する。しかしフリョーラに対するドイツ軍の報復攻撃により少年の村は壊滅に至る。

 なす術もなく打ち震える村人たちと残虐行為で亢奮するドイツ軍の対比が恐ろしい。

 

5・ビリー・ワイルダー(Billy Wilder、1906-2002)『フロント・ページ』(The Front Page、1974、米)

 

 

フロント・ページ [DVD]

フロント・ページ [DVD]

  • 発売日: 2009/09/26
  • メディア: DVD
 

 

 ビリー・ワイルダーの作品は全て観たいところであるが、『翼よ!あれがパリの灯だ』『ワン・ツー・スリー』『悲愁』など、少なからぬ作品があまりDVDが出回っておらずなかなか観られない。たまたま観る機会があった後期の作品『フロント・ページ』は、やはりワイルダーらしい面白さに溢れていた。

 結婚を機に新聞記者を辞めて新天地に行こうとしているヒルディ(ジャック・レモン)は編集長から最後の仕事に、死刑囚最後の日のインタビュー記事を任される。適当に仕上げて早くハネムーンに行くつもりであったヒルディであったが、死刑囚の脱走事件がおこり…。

 同じ原作で1940年代にもハワード・ホークスが『ヒズ・ガール・フライデー』を手掛けているが、ワイルダー版では緻密な構成の中でもドタバタっぷりが目立つ。さらに従来のワイルダーの古典的コメディタッチに、当時のアメリカン・ニューシネマの影響と思しきタッチも足されている。

 

6・ジョージ・A・ロメロ(George A. Romero、1940-2017)『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(Night of the Living Dead、1968、米)

 

 

ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(字幕版)

ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(字幕版)

  • 発売日: 2020/10/17
  • メディア: Prime Video
 

 

ゾンビ映画はこれまで、核戦争、差別、経済格差、環境破壊など様々なアナロジーで語られてきた。新型コロナのパンデミックはまさにゾンビ映画の典型を辿っていった。はじめにあった楽観論は消え失せ、長い潜伏期間によって安全な地帯に広まっていき、貧困層は閉じこもることができずあえて外に出ざるを得ない。そして現実の人間は、映画の中だけと思っていた馬鹿げた行動をしょっちゅう起こすものだったのである。

ハイチの民間信仰であったゾンビを近代化して世界中に拡散したのがジョージ・A・ロメロであった。ロメロ以前にもゾンビが出てくる映画はあったが、1968年発表の初監督作品『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』と1978年の『ゾンビ』によって、ゾンビ映画というジャンルを確立した。

父の墓地を訪れていた兄妹のところに、怪しい男が近づいてきて兄に襲いかかる。これがロメロの映画で初めて登場するゾンビなのであるが、動きが俊敏なので今からみると意表を突かれる。また、この映画内ではゾンビという言葉は使われておらず、グールと呼ばれている。

 辛くも男から逃げ切った妹は森の中の一軒家にたどり着くが、その周りにもゾンビが集まっていく。その家に逃れていた他の人々と今後の処置については話し合うものの、意見が対立しあい状況は悪化する一方であった。

 陰鬱な結末は2020年のアメリカで起こったもう一つの社会問題にもつながっている。

 

7・クリント・イーストウッド(Clint Eastwood、1930-)『リチャード・ジュエル』(Richard Jewell、2019、米)

 

 

リチャード・ジュエル(字幕版)

リチャード・ジュエル(字幕版)

  • 発売日: 2020/03/19
  • メディア: Prime Video
 

 

 1996年のアトランタオリンピックにおいて爆発物を発見し多くの命を救ったにもかかわらず容疑者として逮捕された実在の警備員リチャード・ジュエルを題材にしている。

 ポール・ウォルター・ハウザー演じるリチャード・ジュエルであるが、正直なところ真っ先に疑われるようなパーソナリティに満ちている。巨体、政治的タカ派、マザコン、そして英雄願望など……。それでもFBIとメディアの攻勢の中で耐え続けるジュエルと、彼を支える母とかつての職場で気に入られていた弁護士(サム・ロックウェル)とによる奮闘が心に残る。

 ところで本作は封切りで観るのは見送った。というのもジュエルを追い詰める女性記者の描写が物議を醸していたのが気がかりであったからである。実在した女性記者をモデルにしており、所属していた地元新聞社は、映画内での傲慢な態度、F B I捜査官への枕営業を示唆するような描写に対して、イーストウッドワーナー・ブラザースに抗議した。実際に映画で観てみると、イーストウッドジェンダーステレオタイプが古臭いままなのに辟易するとともに、当時の新聞社も圧倒的な男性社会であり、女性が対等に評価されるには男性以上に傲慢にスクープを飛ばさざるを得ないのだという悲愴感も溢れていたように思える(モデルとなった女性記者はリチャード・ジュエル事件の誤報で叩かれたことを遠因に後年オーバードーズで自殺している)。

 

 

 

8・ジョエル&イーサン・コーエン(Joel & Ethan Cohen、1954-/1957-)『ノーカントリー』(No Country for Old Men、2007、米)

 

 

ノーカントリー (字幕版)

ノーカントリー (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 コーマック・マッカーシーの原作をもとに、麻薬取引の金をたまたま見つけたヴェトナム帰還兵の男と、彼を執拗に追う殺し屋(ハビエル・ハルデム)を描く。

 最初は殺し屋役のハビエル・ハルデムの残虐さが際立つが、常人には理解できないがそれでも聴いているうちに筋が通っているような気もする彼の仕事の信条が癖になっていく。

 

9・ジョエル・コーエン『ファーゴ』(Fargo、1996、米)

 

 

ファーゴ (字幕版)

ファーゴ (字幕版)

  • 発売日: 2015/10/11
  • メディア: Prime Video
 

 

 借金を抱えた男は、金持ちの義父から金を巻き上げるため、妻の狂言誘拐を思いついた。しかし誘拐を担当したチンピラ二人組が警察の職務質問を受けたところからシナリオが狂っていく。

 暴力的な展開にもかかわらず、間が抜けていてシュールである。

 

10・スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg、1946-)『激突!』(Duel、1971、米)

 

 

激突! (字幕版)

激突! (字幕版)

  • 発売日: 2015/06/29
  • メディア: Prime Video
 

 

 スピルバーグのデビュー作となったビデオ映画で、後年のスペクタクル大作とは異なる非常にシンプルなつくりである。

とあるセールスマンはのろのろ運転のタンクローリーを追い越したために、執拗に煽られ続ける。運転手の顔が最後までわからないのが怖い。

2020年に観た邦画ベストテン

2020年に観た邦画ベストテン

 

 1・黒沢清『スパイの妻〈劇場版〉』(2020)

2・野村芳太郎『疑惑』(1982)

3・野村芳太郎『鬼畜』(1978)

4・野村芳太郎『張込み』(1958)

5・野村芳太郎ゼロの焦点』(1961)

6・野村芳太郎『真夜中の招待状』(1981)

7・宮崎駿千と千尋の神隠し』(2001)

8・宮崎駿もののけ姫』(1997)

9・今敏『パプリカ』(2006)

10・阪本順治『顔』(2000)

 

1・黒沢清(1955-)『スパイの妻〈劇場版〉』(2020)

 

 怪談の特性の一つに反復にある。全く見覚えのないものに対して人は恐怖し得ない。過去のイメージの反復の中にあるわずかな差異をもってはじめて恐怖を認識し得る。

黒沢清が90年代にJホラーの旗手として卓越していたのも、その映像スタイルが反復をもとにしたものであったからではないか。世界的に知られるきっかけとなった『CURE』(1997)では様々なシーンが微妙に意味を変えながら反復され、『クリーピー 偽りの隣人』(2016)では事件の反復がサスペンスを生んでいる。『散歩する侵略者』『予兆 散歩する侵略者 劇場版』(ともに2017)は同じ戯曲が原作であり、ストーリーの起点は同じであっても、終盤に向けて徐々に差異が広がっていって決裂する。さらにいえば、哀川翔前田耕陽主演のVシネマシリーズ『勝手にしやがれ!!』(1994-1996)では、撮影スケジュールの都合上、二作品ごとに冒頭のシーンやセットが使い回しになっている。

 『スパイの妻〈劇場版〉』はストーリーの中に多くの反復が発生し、黒沢清の過去のフィルモグラフィーの反復も含み、ヒッチコックアンゲロプロス山中貞雄といった世界の映画史の反復も潜んでいる。何より映画そのものがNHK BS放送の特別ドラマを再編集して出来上がったものであった。

 昭和十年代、神戸の貿易商(高橋一生)は満洲に渡った際にあるものを目撃し、密かに世界に向けて告発の用意を進めていた。その妻(蒼井優)は夫に対する疑惑と愛情の間で揺れ動く。

 古典的なサスペンス、ホラー、メロドラマ、スパイもの、戦争ものの定石を取り入れながらも、それを微妙に踏み外しており、過去の映画の記憶を忠実になぞる厳格さと、肩透かしを食らわせる意地悪さとが同居している。

 ところで高橋一生の表情だが、どうもリヒャルト・ゾルゲの顔に意識的に似せているような気がする。これもまた黒沢清の反復に蝕まれて出来上がった錯覚であろうか。

 

2・野村芳太郎(1919-2005)『疑惑』(1982)

 

疑惑

疑惑

  • 発売日: 2017/07/28
  • メディア: Prime Video
 

 

  法廷ドラマが苦手である。正直なところ発言の順番を待っているのが退屈なのだ。その点『疑惑』の容疑者である桃井かおりは審理プロセスを無視して不規則発言を連発してくれるから飽きさせない。

 社長である夫と乗っていた車が富山港から転落し、妻の球磨子(桃井かおり)だけが助かる。夫には3億円の保険金がかけられており、詐欺・恐喝の前科者で水商売上がりの球磨子が、マスコミのバッシングの中容疑者として逮捕される。佐原律子岩下志麻)が球磨子の弁護士を引き受けるが、弁護中にその球磨子から激しく罵倒される。

 松本清張の原作は地元新聞記者の視点から語られるが、映画版では容疑者と弁護士の女性二人に焦点があてられる。ふてぶてしい桃井かおりと、冷徹に無罪を立証しようとする岩下志麻とがストーリー上でも画面構図上でも対照的に描かれている。二人は終始対立し憎み合うが、家庭に束縛されず奔放に生きる女と、職業的・経済的に自立した女との、ホモソーシャルな男性社会を迂回した奇妙な「悪女」同士の繋がりが、セジウィックの用語をもじったところの「女同士の絆」を感じさせる。

 

3・野村芳太郎『鬼畜』(1978)

 

 

鬼畜

鬼畜

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 監督の野村芳太郎松本清張作品を数多く手掛けたが、印象に残る場面は原作に存在しないものが多い。有名な『砂の器』(1974)の道行も原作にはほとんどない場面であった。『鬼畜』も原作のラストに付け加えたシーンが感嘆すべきものとなっている。

印刷業を営む宗吉は不倫相手との間に三人の子供がいたが、経営の悪化で仕送りが滞っていた。たまりかねた相手は家に押しかけ、子供をおいて蒸発する。怒り狂った妻は、子供らを消すように宗吉に命令する。末っ子は育児放棄で衰弱死させ、次女は東京のデパートに置き去りにした。しかしすでに物心のついている長男はなかなか棄てることができない。

 最後のシーンは正反対の解釈ができる。ストーリーが終了したあともその二重のしこりが心を支配する。

 

4・野村芳太郎『張込み』(1958)

 

 

松本清張 張込み

松本清張 張込み

  • 発売日: 2017/07/28
  • メディア: Prime Video
 

 

 原作者の松本清張もそうだが、監督の野村芳太郎も鉄道に入れあげていた。清張と初めてコンビを組んだ『張込み』の冒頭は特に異様である。

 横浜駅から二人の刑事が東海道本線の三等車に駆け込む。蒸し暑い中、通路に新聞紙を敷いて寝、席が空くまで待ち続ける。そうして、山陽本線鹿児島本線長崎本線を乗り継ぐ。うだるような社内の暑さの中、爆音をあげて走駆する蒸気機関車と、西へ漸進していく駅名標。十分強にも及ぶ長旅ののち、佐賀の旅館にたどり着いた刑事が発した「さあ、張込みだ!」の掛け声とともに、『張込み』のオープニングクレジットが始まる。

 東京での強盗殺人事件の犯人がかつての恋人を訪ねてくるはずだと睨み、その家の前の旅館で張込むこととなった。横浜から乗車したのは、在京マスコミに察知され、現在は犯罪とかかわりのない彼女の生活が乱されないようにするための配慮であった。昔の恋人(高峰秀子)は吝嗇な夫の後妻となっており、つまらない家庭に閉じ込められている。かつて恋をしたとは信じがたい女の生気のなさに刑事らはうろたえ、本当に男が訪ねてくるのか疑心暗鬼のまま、終わりのみえない張込みに苛立っていく。

 急展開する終盤で、高峰秀子が一瞬の生の輝きをみせる。

 

5・野村芳太郎ゼロの焦点』(1961)

 

 

ゼロの焦点

ゼロの焦点

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 北陸で失踪した新婚の夫の行方を追う妻の姿を追って、北陸の荒涼とした自然と敗戦後の混乱が生んだ悲劇を描く。能登金剛のヤセの断崖での告白シーンは、のちのサスペンスものの定番となった。

 先に野村芳太郎の映画は清張の原作に付け加えるところが素晴らしいと述べたが、削り方も別格である。冒頭、新婚旅行で一緒に風呂に入り、夫から「君の身体、若いね」と声をかけられたとき、「そんな、誰かと比べるような言い方をなさらないで……」と独白が入る。原作ではこの箇所はかなりくどく説明されているのだが、この独白だけで、夫の隠された過去と女の存在が暗示される。

 

6・野村芳太郎『真夜中の招待状』(1981)

真夜中の招待状 [DVD]

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  • 発売日: 2005/12/03
  • メディア: DVD
 

 

 野村芳太郎といえばやはり松本清張原作の映画で広く知られているが、それ以外にも長い監督生活で幅広いジャンルを手掛けている。芸術家というよりは職人気質の監督で、松竹の会社員としてそつなく仕事をこなしていった。そのためか、どんな映画でもしっかりまとめている。

 『真夜中の招待状』はジャンル分けが難しい。遠藤周作の原作『闇の呼ぶ声』(ぶんか社文庫)からも脱線していき、ミステリーかと思いきや、ホラー、オカルト、差別問題、ロマンスへとジャンルが転々としていく。

 婚約者の兄たちが次々と失踪していき、婚約者もいなくなるのではないかという不安から圭子はノイローゼに陥る。精神科の診察を糸口に、彼の家族の秘密が明らかになっていく。

 映画の全篇でサブリミナル効果がポイントとなっている。謎に迫る中で圭子らは催眠術を研究している大学教授の丹波哲郎の実験室で映像を見せられる(丹波自身も晩年は心霊研究に熱中した!)。公園で遊ぶ子供たちをおさめたフィルムであるが、丹波は、これをみていたら無性にタバコが吸いたくなったはずだ、というのもタバコのカットが挿入されていてそれが無意識に働きかけているのだ……と解説する。劇中の登場人物だけでなく、映画を観る者にも向けられた映像でもあろうが、タバコを吸いたいという気持はいっさいおきなかった。サブリミナルでポップコーンのショットを映画に入れたら売れ行きが上がったなどという実験は実際には作り話であるし、そもそもタバコは吸わないし……。映画を観終わったあとに立ち寄ったコンビニではタバコには目もくれず、ペプシコーラを飲みたくなって久しぶりに買ってみた。

 あとで調べていて驚いたのだが、オープニングクレジットの空撮のシーンにおいて、ペプシコーラを飲む女性の写真が何度か挿入されていたのである……(ペプシなのは松竹系の劇場ではサントリーの飲料を売っていたためで、野村監督の茶目っ気と劇場の経営にも目配りする職人気質を感じる)。

 

7・宮崎駿(1941-)『千と千尋の神隠し』(2001)

 

千と千尋の神隠し [DVD]

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  • 発売日: 2014/07/16
  • メディア: DVD
 

 

 ジブリの作品は意識的に避けてきた。どうも偽善的な気がするのと、みんなが絶賛しているので逆張りしたくなってしまったからである。とはいえ、金曜ロードショーの担当者も変わったらしいので、まとめて宮崎駿作品を観てみた。高畑勲はまだ一作も観ていない。

 結局宮崎駿とは相性が悪いというのは分かったが、例外的に『千と千尋の神隠し』と『もののけ姫』は良かった(しかしながら興行収入上位のこの2作が気に入ったということは、やっぱり根はミーハーなのだろうか?)。

 2作とも、労働のテーマが全面に押し出されている。『千と千尋の神隠し』では「やりがい搾取」的な雰囲気があり、左翼的に批判しがいのあるところはあるが、それでも(それゆえ?)心に残る作品ではある。

 

8・宮崎駿もののけ姫』(1997)

 

もののけ姫 [DVD]

もののけ姫 [DVD]

  • 発売日: 2014/07/16
  • メディア: DVD
 

 

 宮崎作品でエコロジーを扱ったものと言えば『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』であろう。環境批評の世界では、赤坂憲雄稲葉振一郎の論集も最近出版されたように、ナウシカの方が人気のようだが、そのメッセージにあまり納得がいかなかった。映画版よりも深いと評価されている漫画版(徳間書店)も読んでみたが、いまいちであった。

 ナウシカの方がディープエコロジーを志向しているように思えるが、人間中心主義を隠蔽しそれを引きずってしまっているように思えた。腐海が汚れるといっても、それは人間に住みよくなくなるということであって、自然環境の変化自体はそもそも人間の価値観からはニュートラルではないのか?

 一方『もののけ姫』は人間社会の工業・技術(それも網野史学の影響を受けた賤民としての)と原始資源の二極を描き、不可知なものは不可知なものとして留め置いている。ナウシカとは違うエコロジー批評の起点をみるべきである。

 

9・今敏(1963-2010)『パプリカ』

 

 

パプリカ

パプリカ

  • 発売日: 2015/09/15
  • メディア: Prime Video
 

 

 リュミエール兄弟に次ぐ映画草創期の監督ジョルジュ・メリエスは、手品師としてトリック撮影を多用した。『パプリカ』はアニメでしかできないトリック技法で人を食っており、メリエス的な映画の本義に近い。

 他人の夢にはいることのできる機械の盗難によっておきた夢と現実の倒錯を描く。原作は筒井康隆新潮文庫)。

 

10・阪本順治(1958-)『顔』(2000)

 

 

顔 [レンタル落ち]

顔 [レンタル落ち]

  • 発売日: 2005/03/29
  • メディア: DVD
 

 

 実家に引き籠っている姉が妹を衝動的に殺したことをきっかけに逃亡の旅に出る。喜劇役者の藤山直美が姉を演じていて、追い込まれていく中で逆に人生を楽しくしていくところに喜劇としての面白さがある。モデルは松山ホステス殺人事件で「七つの顔を持つ女」と呼ばれた福田和子である。

松本俊彦「依存症、かえられるもの/かえられないもの」(2020/5-2020/9の読書日記)※(追記)2021年4月に『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』に改題の上、単行本刊行

 連載の第一回目を読んだだけでその傑作を確信できる作品というものがある。新潮社のPR誌『波』に連載されていたブレイディみかこの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の第一回(https://www.shinchosha.co.jp/ywbg/chapter1.html)がそうであったように、みすず書房のP R誌『みすず』に連載中である「依存症、かえられるもの/かえられないもの」も疑いようのない傑作である。ブレイディみかこが広く注目されるきっかけとなった『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』は同じ『みすず』の連載であったが、松本俊彦医師もこの連載が単行本となったときには幅広い絶讃を受けることは間違いない。

 といっても、松本先生は精神医学の世界ではすでに依存症と自傷・自殺予防研究の大御所であるようで、一介のビブリオマニアがその文章の出来不出来ばかりを云々するのもおこがましい限りではある。現在は国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所 薬物依存研究部の部長を務めており、一般人が普段手にするような版元から出ている著作としては、『薬物依存症』(ちくま新書)、『アルコールとうつ・自殺 「死のトライアングル」を防ぐために』(岩波ブックレット)、『自分を傷つけずにはいられない 自傷から回復するためのヒント』(講談社)、『自傷・自殺する子どもたち』(合同出版)とそれほどないが、海外の精神医学の文献を多数翻訳し、医学系の出版社から数多くの専門書を出している。最近ではピエール瀧高知東生の担当医を務めた。

 タイトルにある「かえられるもの/かえられないもの」は、「ニーバーの祈り」と呼ばれる文句、「神様、私にお与えください/変えられないものを受け入れる落ち着きを/変えられるものを変える勇気を/そして、その二つを見分ける賢さを」にちなむ。米国の神学者ラインハルト・ニーバーの言葉とされ、アルコール依存症患者の自助グループのモットーとして使われてきた。

 連載は2018年の5月号から始まった。試みに連載回の書誌情報を並べてみよう。それぞれの連載回のタイトルも欠くことはできない。一篇一篇が蠱惑的な短篇小説のような趣きであるのだから。

 

2018年5月号・第一回「「再会」 わたしはなぜアディクション臨床にハマったのか」

2018年8月号・第二回「「浮き輪」を投げる人」

2018年11月号・第三回「生きのびるためのセガ・ラリー・チャンピオンシップ」

2019年4月号・第四回「神話を乗り越えて」

2019年7月号・第五回「アルファロメオ狂想曲」

2019年10月号・第六回「失われた時間を求めて」

2020年3月号・第七回「カフェイン・カンタータ

2020年6月号・第八回「「ダメ。ゼッタイ。」によって失われたもの」

2020年9月号・第九回「泣き言と戯言と寝言」

 

 毎月掲載されている訳ではない。3か月に一度のペースである。しかも1月号と2月号は例年「読書アンケート特集」の合併号であり、通常の連載は載ることはないから、さらにひと月ずれ込む。なんと読者を焦らす連載であろうか。次回の松本先生の登場が待ち遠しくて仕方がない。3か月に一回だけ、というペースに気がついた今でも、月初の『みすず』の刊行日が近づくと、もしかしたら他の連載の穴埋めをするために急遽繰り上げで掲載されるかもしれない、とみすず書房のホームページにある最新号情報を何度もクリックしてしまう。これもまた或る種の依存症なのだろうか?

 第一回の「「再会」 わたしはなぜアディクション臨床にハマったのか」は、なぜアディクション「なんかに」関心を持ったのか、という若手からの質問に対して「不本意な医局人事のせいです」と答えるところから始まる。「精神医学の王道は統合失調症」という暗黙の了解がある大学医局の医師の間では薬物依存症患者への偏見があった。依存症専門病院の先任医師が突然退職したことに伴い、押しつけあいの末、一年だけ我慢してくれ、という口約束で松本先生はこの不人気ポストに回された。しかし松本先生は、根性焼きの痕が残る金髪の少年たちを診る度に「古い友人と再会するよう懐かしさ」を覚えていた。そして話は中学時代に遡る。

 1980年代、松本先生が中学時代を過ごした神奈川県小田原市では校内暴力が問題となっていた。生徒たちを恐怖政治で抑え込んできた体罰教師を、松本先生の同級生がノックアウトしたことをきっかけに、不良グループは学校を制圧した。窓ガラスが割れ、トイレには煙草とシンナーの臭いが立ち込め、教師たちは不良グループには弱腰でおべっかを使う。一方で、普通の生徒たちにはそれまで同様に体罰を振るい、生徒たちの間には教師への不信と不良グループへの支持が広まった。

 その中で松本先生は生徒会役員であった。不良グループへの共感と学校の治安維持というジレンマの中で、松本先生は喫煙、シンナー吸引をしている生徒への声掛けを行っていく。松本先生は学校の問題を話し合うため、毎日遅くまで生徒会室に残ったが、それには同じ生徒会役員で、吹奏楽部の女の子への片思いというもう一つの理由があった。

 紆余曲折ありながらも、不良グループと生徒会とは距離が縮まり、生徒会室に通う不良生徒も増えてきた。その中の一人に、松本先生と同じ小学校出身で、とても地頭ではかなわなかった同級生がいた。中学になってから不良になったものの、クラシック音楽を愛好し、松本先生にも気に入った曲を薦めていた。生徒会室で彼が松本先生と吹奏楽部の女の子と会話することが度々あったが、クラシックの話題になると、知識のある吹奏楽部の女の子と彼との会話が盛り上がり、松本先生は嫉妬を覚えた。

 しかし三年生の秋になって、彼は生徒会室から姿を消す。不良グループから聞いた話だと警察に捕まり少年院送りになったという。

 彼のいなくなった半年間の中学生活の最後、卒業式の日に不良グループの生徒達は号泣した。職員室に集まって教師たちに深々と頭を下げ、自分たちが穴を開けた箇所を修理し始め、教師たちは更生した生徒をみて感涙にむせぶ。

 このテレビドラマのように予定調和の光景をみた松本先生はシラけきって、教室を離れひとり生徒会室へと向かう。そこには先客が、片思いの吹奏楽部の女の子と、そして同日に少年院を卒業した彼が話をしていた……。

 初回のエピソードの衝撃は、シンナーで呂律の回らない彼が、二度と会うことはないであろう松本先生に最後に「貸した」ラフマニノフのLPレコードの「暗い情熱がほとばしる音楽」のように、通奏低音として全篇を貫いている。第二回以降は、とはいえ、また違う様相を呈してくる。「アディクション臨床にハマった」とある通り、松本先生もかなりの依存症体質なのだということが明らかになっていくのである。

 松本先生は「地元では一応名門とされる高校」(名前は出ていないがおそらく小田原高校)に進学するが、優等生であった中学時代とはうってかわり、授業をサボり、図書館で小田原城を眺めながら時間を潰し、16歳で喫煙を始める(喫煙するきっかけに、第一回目で出てきた同級生と片思いの女子が絡んでくるのだが)。

 その後精神科に興味を持ち(医学に興味を持った訳ではなく、精神科にいくには医学部にいくしかなかったということである)、佐賀医科大学(現在は佐賀大学医学部)に進むが、ここでも勉強に本腰を入れられず授業をサボり続ける。5年生になってやっと自分の危機に気づき、再履修と追試に明け暮れる。コーヒーをがぶ飲みし、それが効かなくなると、カフェイン錠のエスタロンモカを濫用して、強烈な覚醒と嘔気のなか、なんとか国試まで乗り越える(「カフェイン・カンタータ」、タイトルはコーヒーにはまる娘を父がたしなめるバッハの「コーヒー・カンタータ」より)。

 研修医となり、お金が少し貯まってからは、指導医が持っていたイタリア車アルファロメオに惹かれて衝動買いする。ドイツ車とは違い、手間のかかるアルファロメオの魅力とその改造に取り憑かれる(「アルファロメオ狂騒曲」)。

 依存症専門病院に勤務していたときは、無力感を慰めるため、帰りにゲームセンターの「セガ・ラリー・チャンピオンシップ」に通いつめ、その華麗なドライブ・テクニックによって中学生や高校生から一目置かれる(「生きのびるためのセガ・ラリー・チャンピオンシップ」)。

 これらのエピソードから、依存症の本質が仄見えてくる。薬物は一回でも使えば取り返しがつかないと喧伝されるが、そうだとしたらシンナーを使っていた不良グループの同級生たちは卒業後も薬物に依存しているはずだが大半はそうはなっていない。依存症に陥る理由は、薬物そのものの毒性だけでなく、濫用者の心の痛みにもある。クラシック好きだった彼も、中学で両親が離婚し、母親は恋人のもとに通い詰め家をほとんど空けていた。薬物やリストカットは、弱い自分の身体を改造する手段、生きのびるための手段である。そしてこれは本人の意思の弱さや甘えとして叱責するのではなく、些末な診断名に囚われず、患者たちの物語に寄り添って、病気として根気よく治療されなければいけないものである。 

 日本では、欧米と比べて薬物依存症患者が少ないことがかえって依存症患者への偏見を生み、症状を悪化させている。1980年代の民放連のCM「覚せい剤やめますか、それとも人間やめますか」、そしてそれに続く広報活動「ダメ。ゼッタイ。」が周知されているが、「ダメ。ゼッタイ。」の国連のもともとのキャッチコピーは“Yes to life, no to drugs.”であり、日本では人生への肯定的文句が訳し落とされているのである。これらの強迫的なキャンペーンによって、大多数の人々は薬物に絶対に手を出さないようになるが、心の痛みを抱えている一部の人々はこのような綺麗事を言う大人たちの言うことは信頼できず、薬物に惹かれる自分の人格を否定されたように感じて、かえって優しく接してくれる売人の方に心を許していくこととなる。松本先生が強調するには、ほとんどの薬物使用者・売人は、健全な大人がイメージするゾンビのような癈人ではなく、EXILE TRIBEのようにかっこいい存在なのだ!

 さらには、2009年の酒井法子の逮捕から、芸能人の薬物逮捕に関する報道が激化した。警察署に報道陣が待ち構え、カーチェイスの実況のように報道ヘリが追跡する。通院・入院している病院を特定しようと、依存症専門病院に取材が殺到する。患者たちは、ワイドショーによって繰り返し流される濫用のイメージ映像によって薬物使用への衝動をかき起こされ、コメンテーターのバッシングによって自己の肯定感を喪失しますます依存のリスクを高めることとなる。

 このような依存症に関する潔癖症は、癩(らい)病(現在の名称はハンセン病)患者を一掃しようとした「無癩県運動」から、現在の新型コロナ感染者のバッシングまでへとつながっている。ただ一つ、救いであったのは、長らくコロナの感染者が確認されてこなかった岩手県の知事がはやくから、最初の陽性者は責めずにケアしていくこと、目標は感染ゼロではなく県民の命と健康を維持すること、を明言していたことであった。

 つまりは、目標とすべきは、薬物依存症とその患者の撲滅ではなく、人間の命と健康を維持することである。これは何も薬物依存だけに限らない。酒、タバコ、インターネット、カフェイン、リストカットのように、ほとんど人間は多かれ少なかれ何かしらのものに依存しているのだ。全体の健康を守るためには、この種の不健康もある程度は容認しなければいけない。しかしながら、均衡が崩れ、頼るべき相手が誰もいなくなったとき、犯罪や自傷行為に走り、最悪の場合には自殺に至る。覚えておくべきは、最も危険度が高く、実際に直接間接の社会問題を生み出しているのは、違法薬物ではなくアルコールだということである。

 松本先生は自殺を決意した人を止めることは実際のところ難しいと語る。自分は死ぬ気はなくなったと周囲に嘘をついてでも自殺を決行しようとする場合もある。しかし、そうは言っても人は最後まで迷うものだ。飛び降り自殺者を捉えた監視カメラの映像では、ほとんどの自殺者が自殺直前にしきりに携帯電話の画面を覗き込み、誰かから連絡がこないかと気にしていた。さらに景観を損ねたくないという管理会社からの要望のために橋梁にわずか50センチの柵を設置しただけでも、その後の自殺者が激減したという。精神科医にできることは、次回の診察の予約を取って問題を先送りにし続けることだけかもしれない。それでも、次の診察の予約を入れてしまったからこそ、とりあえずその間は死なずに済むのである。

 松本先生は中学校・高校で薬物依存症と自傷・自殺予防の講演によく招かれるが、最後に必ずするアドバイスがあるという。悩みや問題を抱えているときどうすればいいか、あるいは自分の友人が大きな問題を抱えているときには……。松本先生のアドバイスは、結論からすれば大人に相談しろ、ということだが、その言葉には、医学的に明確な実践性と人生訓的な漠然性、世間の冷淡さと人々の善良さ、上っ面のヒューマニズムと辛い現実とが混淆し、「かえられるもの」と「かえられないもの」とが綯交ぜになっている。

「確かにすべての大人が信頼できるとは思いませんが、それでも私は、3人に1人は『信頼できる大人』がいると考えています。これは、精神科医という専門家としてだけでなく、40ウン年間生きてきた1人の大人としての人生経験にもとづいた確信です。ですから、たとえ最初に相談した大人が、『信頼できる大人』でなかったとしても、あきらめずに少なくとも3人の大人には相談してみてください。(…)

『すでに3人に相談したけど、3人ともみんなハズレだった』という体験をしている人がいるかもしれませんね。そのような方には申し訳ないですが、もう少しだけ相談にチャレンジしてみてほしいと思います。(…)

最後にもう1回くりかえしておきます。信頼できる大人は必ずいます。」

 この言葉は『自傷・自殺する子どもたち』(合同出版)で紹介されている。子ども向けではない大人向けのこの本でこの言葉が紹介されている真意であるが、単純に自身の活動の紹介というだけでなく、大人たちに、信頼できる大人の割合を増やすこと、すなわち自分がその信頼できる人間になる、少なくとも他のより信頼できる誰かへのメッセンジャーになるという、変えられるものを少しでも変える勇気を持つことを暗に促しているのだと思う。

 

※(追記)2021年4月に『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』に改題の上、単行本刊行

 

 (松本俊彦先生のリサーチマップ)

松本 俊彦 (Toshihiko Matumoto) - マイポータル - researchmap

薬物依存症 (ちくま新書)

薬物依存症 (ちくま新書)

 

 

シリコンバレーの暗黒啓蒙、日本のカルト資本主義、ウォール街のランダム・ウォーカー(2019/07-2020/04の読書日記)

 フランス軍に占領されたイェーナで偶然ヘーゲルが目撃し「世界精神が馬に乗っている」と幻視したナポレオン・ボナパルトは、軍事的策略家であるだけでよく、自身が思想家である必要はなかった。同じことがドナルド・トランプにも言える。いかな道化じみたトランプであっても、その思想的欠如を批判の目的とするのではなく、何らかの思想(それがいかに異質だとしても)の表徴として捉えるべきではないか。
 インターネット出身の気鋭の評論家・木澤佐登志による『ニック・ランドと新反動主義 世界を覆う〈ダーク〉な思想』(星海社新書、2019)は、日本では体系立って紹介されていない暗黒啓蒙(dark enlightenment)あるいは新反動主義(neoreactionarism)、加速主義(accelerationism)といったトランプの背後に蠢く思想的潮流をコンパクトに追っていく。
 本書の核となるのはイギリス出身の哲学者、ニック・ランド(Nick Land)である。ランドは大陸哲学やサンバーパンク文化などを大学で研究していたが、大学側から次第にその姿勢を異端視され、個人的な研究所を設立する。現在は上海に居住し言論活動を展開している。西欧リベラル的な平等主義、民主主義を嗤い、資本主義社会をテクノロジーで加速させることによって真の自由の獲得を目指す彼の主張は、リバタリアニズム、イタリア未来派、ロシア宇宙主義、ラヴクラフトクトゥルフ神話サイバーパンク、90年代日本のアニメといった旧来の思想的潮流を踏まえ、新反動主義オルタナ右翼、中華未来主義(ランドは西欧的人権規範を無視してテクノロジーと資本主義を加速させる中国を羨望する)といった新しい思想的潮流を胎動させた(なお、ニック・ランドのブログの論攷を集めた『暗黒の啓蒙書』(五井健太郎訳)が講談社より刊行予定)。
 ニック・ランドと類似した主張を掲げる人物は、ランドに直接的影響を受けたか、独立に思想を発展させてきたかを問わなければ、多数いる。極右ウェブサイト「ブライトバート・ニュース」の設立者で、トランプ政権のアドバイザーを務めたスティーヴ・バノン、金融政策で統制されることのない自由な経済活動を可能にするビットコインの理論をネット上で発表した正体不明の人物サトシ・ナカモト、アメリカを株式会社化してGoogleの経営者やトランプ・オーガニゼーションに利潤の最大化を目指して経営させるべきだと考えるシリコンバレーのエンジニアたち……。
 中でも注目すべきは、シリコンバレーで隠然たる影響力を持つピーター・ティール(Peter Thiel)であろう。
 日本ではスタンフォード大学での講演録『ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか』(ブレイク・マスターズと共著、関美和訳、NHK出版、2014)が翻訳されているものの、スティーヴ・ジョブズジェフ・ベゾス、マーク・ザッカーバッグといったシリコンバレーの他の面々に比べたら知名度は低い。しかし、1999年に当時としては劃期的かつ安全な電子決済システムPayPalを開始しeBayに売却して巨額の資金を得てからは、「ペイパル・マフィア」と称される創業時メンバー、テスラのイーロン・マスクYouTube共同創設者チャド・ハーリー、LinkedIn創設者リード・ホフマンらの「ドン」として、シリコンバレーを陰に陽に動かしてきた。外部投資家として初めてFacebookに出資し、現在も会長を務めるデータ分析会社パランティア・テクノロジーズは米国政府やC I Aとも連携している(パランティアのデータ分析がビン・ラディン暗殺の決め手となったと噂されているが、ティールは否定も肯定もしていない)。
 一方で、民主党支持者が圧倒的に多いシリコンバレーにおいて、明確にトランプを支持して資金提供を行い、政権移行メンバーとなったことに関して批判が集中した(ティールをFacebookの外部取締役として置いていることを非難されたザッカーバーグは、トランプ支持者であっても言論の自由は認められるべきであると表明している)。ティールの言動に関しては、ニック・ランド的暗黒啓蒙から捉えるべきことが多い。
 邦訳で読めるティールの伝記としては『ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望』(トーマス・ラッポルド、赤坂桃子訳、飛鳥新社、2018)がある。
 西ドイツのフランクフルト出身のティールは、幼少期にアメリカに移住し、理数系の科目で秀でた才能を発揮する。しかしながら、シリコンバレーの大方の起業家とは異なり、スタンフォード大学では哲学を専攻した。大学在学中に傾倒したのが、フランス出身の思想家で、当時スタンフォード大学に勤めていたルネ・ジラールであった(ちなみにパランティア・テクノロジーズのCEO、アレックス・カープもユルゲン・ハーバーマスの指導のもと哲学の博士号を取得しており、ティールはその特異な経歴を気に入ってあえて登用した)。
 ティールが大学在学中に文化闘争が起きる。白人・欧米・男性中心主義的であった従来のスタンフォード大の文化教育のプログラムを、ポリティカル・コレクトネスの観点から見直す動きが出ていた。ティールは自由至上主義の観点からポリコレの押し付けに反撥し、保守系の学生新聞『スタンフォード・レビュー』において論陣を張り、『多様性の神話』(未邦訳)を執筆した(トランプ支持を表明した際に、『多様性の神話』の中で、性暴力に遭った女性にも落ち度があると主張していたことが報道されたことを受け、撤回と謝罪を表明した)。
 このエピソードから、ティールが争いを好む人間であるかのように思えるが、彼は実際には競争することを嫌悪している。その根抵にあるのが、ジラールから教わったミメーシス(模倣)理論である。人間の文明は他者の慾望を模倣することによって成り立っており、似たもの同士の競争が絶えない仕組みとなっている。そこからティールはこの無意味な競争から離脱し、誰にも真似できない完全に新しいものを創造(ゼロ・トゥ・ワン)して市場を独占するべきであると考え(ただし師のジラールはおそらくここまで主張していないと思う)、PayPalでそれを実践した。泡沫候補に過ぎなかったトランプを初期から支持していたのも逆張りの発想によるものだと言える。
 現在ティールはスマートフォンで「140文字」をいじらせて満足しているシリコンバレーの現状に不満を抱き、宇宙進出や不老不死関係の投資を目論んでいる。さらに、リバタリアニズムを徹底した海上小国家樹立を目指している。海上国家計画に関しては嘲笑されることが多かったためか、本人の口からあまり語られることはなくなっていた。しかし新型コロナの影響を受けてから、パンデミックと民主主義的な福祉国家の壊滅から富裕層が避難する場所として、この数ヶ月でにわかに注目されるようになってきた。
 リベラルを標榜するシリコンバレーに蠢くピーター・ティールのユニークな動きは、彼の得意とする逆張り投資らしく逆説的に未来に光を齎す啓蒙なのだろうか、それとも字義通りの暗黒啓蒙へと加速されていくのであろうか。
 日本の資本主義社会にも特異なイデオロギーが蠢動していることを示唆するのが斎藤貴男カルト資本主義 増補版』(ちくま文庫、2019、初版は1997年に文藝春秋より)である。
 ちくま文庫で新たに加わった武田砂鉄の解説は、90年代に顕著となった日本のカルト資本主義は、安倍政権と東京五輪強行によってカルト帝国主義に深化している……と主張しているが、こじつけめいている。また、斎藤の考察部分も主観が入り過ぎて全く説得力がない。それでもなお、個々の企業のオカルティズムへの傾倒の描写は綿密に取材されており読み応えがある。
 バブル崩壊後、オウム真理教が世間の注目を集める中、経営不振に陥った企業もオカルト的なものに触手を伸ばしていた。
 はじめに取り上げられるのが、ソニー千里眼・透視能力などを研究するエスパー研究所と催眠療法を研究する生命情報研究所である。エスパー研究所はソニーの会社名義を借りて透視能力は疑いえないという論文も発表している。科学技術に優れたソニー擬似科学を取り扱っているのは不思議であるが、東洋思想に興味のあった創業者の一人、井深大に気に入られて、予算を割り当てられていた。井深の死後にこの研究所は廃止される。
 また生命情報研究所も天外伺朗というスピリチュアル医学のエヴァンジェリストを擁していた。天外伺朗とは、手塚治虫の怪作『奇子』の中で比較的まともな登場人物の名を借りたペンネームである。ペンネームでありながら、明らかにソニーの社員が執筆していると分かるようになっている。
 ソニーがここまで胡散臭いオカルトに入れ込んでいたことに驚くが、とはいえ、それを認めるだけソニーが自由な社風であった証拠と肯定的に見ることもできるだろう。天外伺朗、本名土井利忠もAIBOの開発責任者として有名になった。
 ソニー以外にもいかがわしい話が集められている。科学的にありえない永久機関に出資していた住友商事大林組、公教育にまで入り込んでいるEM菌、カルト教団ヤマギシ会に洗脳的な社員研修を請け負わせていた大企業群、オカルトビジネスの総本山でコンサルティング会社・船井総合研究所の設立者である船井幸雄
総じて言えるのは、個人主義的・合理主義的な西欧への反撥とそのカウンターカルチャーとしての集団的・主観的な東洋への関心である。それは経営者にとって御しやすい、従順で生産的な労働者の育成に繋がっていく。『カルト資本主義』では、京セラ・DDI(現KDDI)の創業者で、日本航空の再建を手掛けた稲盛和夫も紹介されている。東洋的スピリチュアリズムを取り入れているとはいえ、経営学的にも評価の高い稲盛の考えは一概には否定できないと思うが、そこでも労務管理強化という危うさを孕んでいることが分かる。
 米国と日本とでは、同じ資本主義といえども、その異質な思想の顕現には各々の国の特性が窺える。それにしても日本のカルト資本主義的思考は、全体志向の割には、良くも悪くも突き抜けているピーター・ティールと比べてみみっちさが否めない。
 アメリカと日本の資本主義から発生した異質な思想をみてきたが、我ら凡愚は、どれだけ人文科学的・リベラルな教養を身に纏おうとも、資本主義からの離脱を図るほどの胆力がある場合を別とすれば、この資本主義社会の暗黒面にただただ呑み込まれるほかないのか。だがその中でもどうにか耐え抜くための智慧は存在するだろう。ただしそれは、これまでの教養・文化キャノンとは異なる形態を持っており、近代的な知識人としては「教養はサイコロを振らない」とでも言いたくなる代物かもしれないのだが。
 株式投資の名著であるバートン・マルキールウォール街のランダム・ウォーカー 株式投資の不滅の真理 原著第12版』(日本経済新聞出版社、井出正介訳、2019、原著初版は1973年)の主張は至って平凡である。将来の株の動きなんか誰にもわからない、おいしい儲け話に引っかからないで、市場平均に連動するインデックス投資で十数年のスパンでじっと辛抱していろ、と。
 よくある投資のテクニック本と違い、ひたすらこのことを言い続けている。この本で最も有名なのは、ウォール・ストリート・ジャーナル紙の相場欄に猿が何十個かダーツを投げて当たった会社の銘柄と、プロのトレーダーが選んだ銘柄との長期の運用成績の比較である。結果として運用成績は大して変わらなかったのである。この話だけで、この本の主張は事足りるが、それでもうまい儲け話に乗りたい、自分だけは大丈夫、株式相場には何かしら法則があるはず、と思ってしまうのが人間の常である。大部のこの本はひたすらこのような幻想を打ちのめすために大部分の頁を使っている。
 チューリップバブルや日本のバブル崩壊リーマン・ショックなどでいかにトレーダーたちが判断を見誤ってきたか、いかにペテン師が儲け話で素人ならず玄人もカモにしてきたか、いかに短期の株式相場がねじ曲げられているか(不動産王トランプがカジノのため社債を発行した際に、高リスクを主張したアナリストに激怒して、証券会社を脅してクビにした話が出てくる。なお、社債は本当にデフォルトとなった)という話が延々と紹介されるが、どれも皮肉っぽくて面白い。昔とは違って、AIを使えば成功できるではないかという批判もあるが、遠からずみんながA Iを使い始めるので無意味になる。
 個人的に最も面白かったのは、(日本語版だけにしかないようだが)一橋大学会計学者・伊藤邦雄の「伊藤レポート」の理論に基づいたROEファンドの失敗である。ROE自己資本利益率)が高ければ少ない資金で効率的に稼げている、したがって投資家に高リターンが見込めるという考えのもと、高ROE企業を厳選したファンドだが、実際には平均的な利回りを大きく下回った。というのも、このファンド自身のせいで無駄な資金が流入してしまい利益率が下がってしまったからである。偉大な伊藤先生もこんなお粗末な失敗をしでかしたのか、と微笑ましい。
 ランダム・ウォーク理論の反証として、ウォーレン・バフェットやピーター・ティールなどは一点集中で勝ち続けている、というものがあるのだが、それは非常に稀な才能があり巨額の資金力を有している場合のみに発生する例外と考えるのがいいだろう。この二人であっても、コロナ・ショックを同様に乗り越えられるかどうかはまだ誰にも分からない。
 ピーター・ティールは師ルネ・ジラールのミメーシス理論を飛躍させて、競争ではなく独占こそが成功の鍵であると考えている。ティールの顰みに倣い、ジラールの理論をランダム・ウォーク的に論理飛躍させるならば、次のようになるのではないか。凡人は模倣による局所的な競争に頭を悩ますのではなく、あらゆる模倣と競争を織り込み済みの確率・平均・偶然に身を任せて気長にやるのが成功の秘訣ではないか、と。
 

 

 

 

暗黒の啓蒙書

暗黒の啓蒙書

 

 

 

 

 

 

 

カルト資本主義 増補版 (ちくま文庫)

カルト資本主義 増補版 (ちくま文庫)

 

 

 

 

多文化主義なのかアメリカ第一主義なのか イーストウッド『グラン・トリノ』にまつわる苦さ(2017/10-2017/11の日記)

10・11月
(『グラン・トリノ』結末に関する記述あり)
 今日クリント・イーストウッドについて語ることはいささかの躊躇いを感じさせる。
 昨年イーストウッドEsquire誌のインタビューにおいて、難しい選択だという留保をつけながらも、トランプ支持を表明した。圧倒的に民主党の強いハリウッドではタブーに近いトランプ支持は多くの同業者を鼻白ませた。
 イーストウッドが古くからの共和党員であり、共和党大会でオバマ再選阻止を訴えていたことを考えるとトランプ支持はさほど不思議ではない。それでも少なからぬ人にショックを与えたのは映画自体はリベラルにみえるからだろう。  
 その最たる例が『グラン・トリノ』(2008米。脚本はニック・シェイク)である。イーストウッドの監督作でなければ、反トランプ運動の教材にされていてもおかしくはなさそうだ。しかしトランプ時代のいま観ると、紛れもないトランプ的なアメリカを描きだした作品ではないかと思える。
グラン・トリノ』の舞台が、予想を覆してトランプの勝利したミシガン州デトロイト近郊であることは偶然ではない。ミシガン州などの「ラストベルト」は、これまで労働組合寄りの民主党の牙城であったが、マイノリティー擁護のインテリ政党となった民主党に愛想を尽かし、今回のトランプ勝利を決定づけた。『グラン・トリノ』の主人公ウォルト・コワルスキー(イーストウッド)もトランプに投票するであろう老人だ。
  コワルスキーは朝鮮戦争の英雄であり(イーストウッド自身も出兵していないが朝鮮戦争時に軍にいた)、退役後はフォードで自動車工として勤め上げた。そのためトヨタ車のディーラーをやっている息子夫婦とは折が合わない。まして近隣に増えてきたインドシナ半島出身の少数民族であるモン族と交流する気などさらさらない。最愛の妻の死後は、玄関先で愛犬をそばに缶ビールを飲む孤独な生活を送っている。その玄関には星条旗が掲揚されている。
 「イエロー」嫌いのコワルスキーだが、ギャングにたかられていた隣家のモン族を救ったことから、予期せぬ交流が生まれてくる。交流の中心となるのが頼りない青年のタオ(ビー・ヴァン)としっかり者のスー(アーニー・ハー)である。以前タオはいとこのギャングに脅され、コワルスキーの愛車「グラン・トリノ」を盗もうとしてコワルスキーに射殺されかけていた。モン族の隣家は、コワルスキーがギャングを追い払ってくれたことへの感謝と自動車を盗もうとしたことへの謝罪のために、タオをコワルスキーの家に手伝いに出す。最初は不器用なタオに呆れていたコワルスキーだが、タオの善良さに心を開いていき、仕事や恋愛の世話も買って出ることとなる。
 コワルスキーは英語のできる若者のタオとスーにとどまらず、英語を話さないモン族の人々とも交流を重ねていく(タオやスーよりも、言葉の通じない者同士の交流の方が興味深いと思うが割愛する)。その中で、モン族はヴェトナム戦争で米軍に味方したため、迫害を恐れて米国にやってきたいきさつを知る。
 コワルスキーと隣家の生活がそのまま平穏に流れるかと思いきや、タオが堅気の仕事を始めたことが気にくわないいとこのギャングたちが隣家に攻撃を加えてくる。忿怒したコワルスキーは単身、ギャングの家へと向かう。
 この展開はイーストウッドが演じた往年の西部劇そのままである。さらに、映画の中盤で伏線となっているシーンがある。デートをしていたスーが不良に取り囲まれているところをたまたまコワルスキーが通りかかる。ボーイフレンドは頼りにならず、コワルスキーが不良と対することとなった。老人を馬鹿にする不良たちに、コワルスキーは手で銃を撃つ真似をする。嘲笑する不良たちが油断している間に本物の拳銃を突きつける。
 ギャングの家の前に立ったコワルスキーは、銃を構えるギャングたちにまた手で銃を撃つ真似をする。そして嘲笑するギャングたちに煙草のライターを貸してくれと云う。ギャングがライターを貸すわけもなく、コワルスキーはやおら上着に手を突っ込む。西部劇や『ダーティハリー』シリーズで幾度となく観てきた仕草だ。しかし定番の早撃ちを期待していると呆気にとられることとなる。コワルスキーは何もすることなく、ギャングに射殺されてしまうのだ。彼が手にしていたのは銃ではなく、本当にライターだった。丸腰の人間を射殺した罪で、不良たちは長い年月の間、刑務所から出られないことが確定する(ミシガン州は死刑を廃止している)。こうして隣人のモン族の生活は守られることとなった。
 『グラン・トリノ』には戦争の影が潜んでいる。コワルスキーは朝鮮戦争で勲章を受け、モン族はヴェトナム戦争アメリカとともに戦った。モン族のギャングとのコワルスキーの戦いは、共産主義勢力とのアメリカの戦争のアナロジーとなっている。しかしコワルスキーは北朝鮮兵を射殺したトラウマに苦しめられていた。ギャングを一緒に殺しに行こうというタオに対し、コワルスキーはお前には人を殺す恐ろしさがわかっていないとたしなめる。無防備のまま撃たれるという決断は、孤立主義につながるものだ。これはアメリカの伝統的思考の一つであり、現在のトランプの主張にもつながる。
 映画の前半で目につく玄関前の星条旗であるが、モン族との交流が始まる中盤から姿を消す。そして死へと向かう終盤、再び掲揚されていることが確認できる。コワルスキーが再び星条旗を揚げたということが感慨深い。彼は完全な多文化主義者に変わったのではなく、あくまでも誇りあるアメリカ人として死ぬことを選んだのだ。モン族を受け入れるようになったのも、アメリカ的な精神を受け継ぎうることに気づいたからである。
 ポーランドカソリックのコワルスキーはWASPではない。古くからの友人たちもイタリア系やアイルランド系であることが示唆されている。この設定からも、コワルスキーがモン族への人種的偏見を捨てることが可能であると予期できるのだが、彼は本当に偏見を捨てきれたのか。結局コワルスキーという白人男性が英雄のまま映画は終わる。モン族は常に庇護される側であり、ギャングと戦おうとしたタオは地下室に閉じ込められてしまう。もちろん戦いをするべきではないというのがコワルスキーの考えであるが、ケリをつけるための最後の戦いにやむなくコワルスキー一人が向かうというのは、白人男性的なヒロイズムを反映しているだろう(またタオ役のビー・ヴァンはのちに、撮影現場が白人優先の雰囲気に満ちていたと語った)。
 コワルスキーの死後、息子たちが遺産相続のために集まる。しかし彼らが狙うフォード社の72年型ヴィンテージカー、グラン・トリノは、タオに託されていた。ただし遺言状には相続の条件があった。「豆食いメキシコ人のように車のルーフを切らず、クズ白人のようにペンキで車体に炎など描かぬこと。また後部にカマっぽいスポイラーなどつけぬこと。あれはクソだ。」裏を返せばアメリカの精神を受け継ぐ気の無い移民は認めないということだ。
 『グラン・トリノ』をポリティカル・コレクトネス(イーストウッドが忌み嫌っているのだが)の観点から観ると問題含みの作品である。しかしこの後味の悪さ、苦さが『グラン・トリノ』を一筋縄ではいかない映画に仕立て上げている。
グラン・トリノ (字幕版)

グラン・トリノ (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争』(2017/12-2018/8の日記)

 『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房、2017)は生硬かつ頑陋な左翼色を感じさせる題名でありながら、読み終えたらこのタイトルしかありえないと感じさせられる。緊縮に喘ぐ労働者の絶望、差別にさらされる移民の苦しみ、社会への怒り、それでも足掻き続ける人々への愛情が「子どもたちの階級闘争」という言葉に込められている。
 著者のブレイディみかこは、福岡県の貧困家庭に生まれ、高校を卒業後、パンクに憧れ渡英した。無一文での帰国、ロンドンの日系企業勤務などの紆余曲折を経て、労働者階級出身のブレイディ氏と結婚し、保育士となった。
 南部ブライトンでの保育士業務のかたわら、自身のブログやYahoo!JAPANニュースにおいてパンクロックや英国セレブのゴシップ記事を執筆していた。日本で注目を集めるようになったのは、緊縮政策下での英国の労働者階級の動揺を発信するようになってからである。ネット媒体だけでなく、2015年からはみすず書房のPR誌『みすず』で「子どもたちの階級闘争」の連載を開始し、読書界に衝撃を与えた。『みすず』の連載は完結したが、現在も岩波書店の『図書』で「女たちのテロル」、新潮社の『波』で「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」、筑摩書房の『ちくま』で「ワイルドサイドをほっつき歩け ハマータウンのおっさんたち」を連載している。
 イギリスでは労働者階級が強い力を持ち続けていた。1945年、ドイツの無条件降伏後に行われた総選挙では、普通に考えれば救国の英雄チャーチルが勝ちそうなものだが、福祉充実を前面に押し出した野党の労働党が圧勝する。
 新首相となったアトリーは「ゆりかごから墓場まで」の高福祉を実現するが、その後「イギリス病」と揶揄される停滞に陥ることとなり、79年に保守党のサッチャーが首相に就任する。新自由主義を掲げ、国営事業の民営化や労働組合の弱体化を推進し、イギリス経済を復活させたという評価の一方で、鬼籍に入った今もなお呪詛を吐く人々が少なからずいる。みかこが敬愛するモリッシーは“Margaret on the Guillotine”(1988)という曲まで作っている。
 長期政権を誇ったサッチャーも、人頭税の導入により支持率が急落し、90年に辞任した。97年に「第三の道」を掲げた労働党のブレアが就任する。サッチャーから「私の最も出来の良い息子」と賞讃されたブレアは、労働党の支持基盤であった労働者階級の切り捨てを行い、インテリ志向を強めることとなる(みかこは日本のリベラルのブレア人気を揶揄している)。その後、保守党政権が続き、緊縮財政が展開され労働者階級に大きな打撃を与える。第三極の自由民主党の躍進に始まり、スコットランド国民党や英国独立党の伸長、ロンドン暴動、スコットランド独立問題、そしてブレグジットといった問題が頻発することとなる。
 そんな中、野党労働党最左派のジェレミー・コービンが党首に就任する。時代錯誤のマルクシストの登場で労働党は終わりだ、と嘆かれる中でコービンは若年層を中心に人気を集める。ブレグジット後に不意打ちで行われた総選挙でも、開票直前に急速に支持を広げ、与党保守党の圧勝という下馬評を覆した。 
 『子どもたちの階級闘争』はこの緊縮下でみかこが保育士をつとめた無料託児所の物語である。無料託児所(口を悪くして言えば底辺託児所)はイギリスの高福祉の象徴的な存在であったが、予算が徐々に削られていき、遂に廃止となる。
 無料託児所には、人間としての尊厳を奪われかけている人々が集まってくる。その多くは白人であり、移民の子どもは案外少ない。移民の家庭には教育熱心な親が多く、差別を恐れて、地元の公立校には通わせず、パブリック・スクールに行かせたがるからだ。白人の労働者階級が公立校に進学し、教育格差が広がるというソーシャル・アパルトヘイトが蔓延している。そして移民に対する偏見が再生産されていく。そのために白人の下層階級が多い地区の託児所や学校では、数少ない移民の子どもはいじめの標的や偏見の対象となりやすい(そんな中でブレイディ家の息子はあえて公立校の進学を選ぶのだが……。その後の顚末は『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』に記されている)。もちろん保育士のみかこに対しても、白人の子どもからむき出しのレイシズムを浴びせられることがある。そして移民の間でも、東欧系がアジア系を蔑視するという入れ子状の差別が起きている。
 経済、労働、人種といった複雑に絡み合う問題を、みかこは一見乱暴だが、繊細な筆致で炙り出す。現代の左派がポリティカル・コレクトネスにうつつを抜かして経済問題を等閑視し白人の労働者階級を見下していることに怒るとともに(もちろんポリコレを否定しているわけではない)、地元の移民に対する差別にも立ち向かう。その一方で大晦日のケルンで起きた移民による集団暴行事件やナイジェリア北部のボコ・ハラムによる女子生徒誘拐事件に対して、リベラル派の男がレイシストと批判されるのが怖くて及び腰なのにも容赦ない。あまりにも錯綜した深刻さに絶望してしまいそうなエピソードが並ぶが、みかこの文章からは、なおそこに人間への希望を見出すことができる。
 みかこの通っていた福岡の県立高校は進学校で、アルバイトが禁止されていたが、家計の足しにするためにアルバイトをしていた。学校側に発覚して詰問されたときに、教師は、今の日本にそんなアルバイトが必要な貧困家庭が存在するはずがない、と叱責してきたという。現在では流石にそこまでの認識にとどまっている人は少ないだろうが、いまなお日本人の多くにとっては底辺託児所のような世界はあえて目を向けたくないところではないか。『子どもたちの階級闘争』はもはやそのような認識は不誠実であり通用しないということを突きつけてくる。
ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー
 
女たちのテロル女たちのテロル