Дама с Рилаккумой

または私は如何にして心配するのを止めてリラックマを愛するようになったか

2025年に読んだ本

去年はトランプ関税に振り回されて全然読めませんでした……。

1・原民喜『夏の花・心願の国』(新潮文庫
2・堀辰雄『燃ゆる頬・聖家族』(新潮文庫
3・ライナー・マリア・リルケリルケ詩集』(新潮文庫
4・司馬遼太郎国盗り物語』(新潮文庫
5・清武英利『後列のひと 無名人の戦後史』(文春文庫)

6・池上彰佐藤優
『黎明 日本左翼史 左派の誕生と弾圧・抵抗 1867-1945』
『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960』
『真説 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』
『真説 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972-2022』
講談社現代新書
7・鹿島茂菊池寛アンド・カンパニー』(文藝春秋
8・伊藤彰彦『仁義なきヤクザ映画史』(文藝春秋
9・濱口竜介・野原位・高橋知由『カメラの前で演じること 映画「ハッピーアワー』」テキスト集成』(左右社)
10・ダムロッシュ『ハーバード大学ダムロッシュ教授の世界文学講義』(東京大学出版会


1・原民喜(1905-1951)『夏の花・心願の国』(新潮文庫
原民喜は広島の原爆投下に遭遇し、朝鮮戦争勃発から間も無く中央線で鉄道自殺に至った。極度の無口で生活力も欠けていたというが、触れれば壊れてしまいそうな繊細で美しい散文・詩を短い生涯で遺してきた。
原爆を題材とした作品が多いが、代表作の「夏の花」は、八月四日の亡き妻の墓前に花を供える場面から始まる。小説はその後すぐ原爆の惨状を描くことになるが、冒頭の墓参りのわずかな描写だけでも非常に美しく生死を描いている。
新潮文庫版の編者の大江健三郎は解説で、原民喜は原爆の悲劇を記録するために生まれてきたと述べている。それもまた今となっては事実となってしまっているが、原爆を記録した作品がなかったとしても原民喜の文章の美しさは決して変わらない。人類の歴史は原民喜を原爆作家として固着させてはいけなかったのである。

 

 



2・堀辰雄(1904-1953)『燃ゆる頬・聖家族』(新潮文庫
フランス文学の心理描写の影響を受けた清冽な文体の初期作品群。「死があたかも一つの季節を開いたかのようだった」という印象的な一文で始まる「聖家族」は、芥川龍之介の自殺をモデルとしている。

 

 

 

3・ライナー・マリア・リルケ(1875-1926)『リルケ詩集』(新潮文庫
ドイツの詩人リルケ原民喜堀辰雄などに強い影響を与えている。繊細な生のふるえを感じる。

 

 

4・司馬遼太郎(1923-1996)『国盗り物語』(新潮文庫
ピカレスクロマンとして面白い。前半の主人公は斎藤道三で、京の油商人から権謀術数で次々と成り上がり、ついには美濃一国を乗っ取って周辺諸国から「マムシ」と恐れられる。
道三は年老いてから、やむなく娘を敵国・尾張織田信長と政略結婚させることになるが、わずかな対面のみで、「うつけ者」と尾張国内で馬鹿にされていた信長の才能を見抜く。道三の軍事的機略と天下統一への野望が、敵国側の娘婿の信長に託される形で、主役が交代する仕掛けも面白い。

 

 

5・清武英利(1950生)『後列のひと 無名人の戦後史』(文春文庫)
著者は渡邉恒雄の球団経営介入を批判して読売巨人軍を解任されたことで有名になったが、読売新聞の社会部で長らく記者を務めており、企業もののノンフィクションに優れたものが多い。本書は「最前列ではなく、後ろの列の目立たぬところで、人や組織をさせる人々」の話を集めており、著者のエッセンスを味わえる。
自主廃業した山一證券の残務処理や住宅金融専門会社不良債権回収などのバブルの後始末をする人々、鹿児島の知覧で特攻隊員を見送った旅館の女将、小説かと見まごうほどに数奇な人工心臓開発の逸話、ロケット開発者・糸川英夫の晩年を支えた愛人、東京電力自前の技術学校卒業直後に原発事故と向かい合った東電の新入社員など、どのエピソードも読ませる。

 

 

 

6・池上彰(1950生)・佐藤優(1960生)
『黎明 日本左翼史 左派の誕生と弾圧・抵抗 1867-1945』
『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960』
『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』
『漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972-2022』
講談社現代新書
日本の左翼運動の歴史をまとめた通俗的解説書。ニューレフトの概観がまとめられた類書は意外と少なく、毎日新聞社から出版された「シリーズ20世紀の記憶」の『1968年 グラフィティ』などは視覚的資料としては充実していたが、本書はさらにニューレフトの派閥や分裂の流れもよくわかる。革命的共産主義者同盟全国委員会中核派)、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派革マル)など、はたからみれば全部同じような気もするが、微妙な対立のポイントを理解できた。

 

 



7・鹿島茂(1949生)『菊池寛アンド・カンパニー』(文藝春秋
作家の菊池寛と彼の創業した文藝春秋経営を描く評伝。浩瀚文学史的資料も緻密であるが、菊池の経営センスがいかに卓越したものであるかも経営学的に解説されており、他の出版社と比べて特異な文藝春秋の体質の理由がよくわかる。

 

 



8・伊藤彰彦(1960生)『仁義なきヤクザ映画史』(文藝春秋
誕生当初の日本映画は国定忠治清水次郎長など幕末の博徒を好んで描き、社会から外れたアウトローや弱者にフォーカスしてきた。その流れは戦後も続き、社会に対するある種の異議申し立てとして機能してきた。ただしその暴力性は手放しで誉められるものではなく、田岡一雄をモデルとした『山口組三代目』などを制作した東映は、制作協力金として山口組に資金提供する形となっていた。
ヤクザ映画の功罪を振り返り、コンプライアンス重視の今日においてなおヤクザ映画を作る意義を問う。

 

 

9・濱口竜介・野原位・高橋知由『カメラの前で演じること 映画「ハッピーアワー』」テキスト集成』(左右社)
商業映画デビュー後、『ドライブ・マイ・カー』などで世界的に知られるようになった濱口監督の現時点での最高傑作の一つは、演技未経験者が演じた「ハッピーアワー」であろう。なぜ未経験者を使い、そして感動を呼ぶ演技となったかが、理論的に解説されている。

 

 



10・デイヴィッド・ダムロッシュ(1953生)『ハーバード大学ダムロッシュ教授の世界文学講義』(東京大学出版会
かつての欧米中心主義が批判される一方、あまりにも厖大になりすぎた世界文学をいかに扱うについて語られる。グローバルな観点からのメジャーな文学の読み直し・比較も面白いが、三島由紀夫との類似が指摘されるタイの作家ククリット・プラモートなど、全く知らなかった文学も出てきて、世界の文学の広さに今更ながら驚かされる。

 

 

2025年に観た映画ベストテン

1・エルンスト・ルビッチ生きるべきか死ぬべきか』(1942、米)
2・エルンスト・ルビッチニノチカ』(1939、米)
3・エルンスト・ルビッチ『街角 桃色の店』(1940、米)
4・小林正樹『怪談』(1965、日)
5・黒沢清『Cloud』(2024、日)
6・西川美和永い言い訳』(2016、日)
7・西川美和『ゆれる』(2006、日)
8・西川美和夢売るふたり』(2012、日)
9・西川美和蛇イチゴ』(2002、日)
10・西川美和『すばらしき世界』(2021、日)

1・エルンスト・ルビッチ生きるべきか死ぬべきか』(1942、米)
題名の通り、ドイツ占領下のワルシャワで、シェイクスピアハムレットを演じる演劇団員たちを描く。タイトルとなっている劇中の台詞「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」は、不倫相手のポーランド空軍の中尉を楽屋に呼ぶ合図でもあり、ナチスへの抵抗の在り方を探る演劇人たちの苦悩でもある。この世は舞台、人はみな役者とシェイクスピアが言ったように、演劇的に現実に立ち向かっていく。

 

2・エルンスト・ルビッチニノチカ』(1939、米)
貴族から没収した宝石を売却するためにソ連の役人がパリに派遣される。そのお目付役で冷徹な共産主義者ニノチカグレタ・ガルボ)が同行していたが、フランス人と恋に落ちる。政治諷刺をまじえたビリー・ワイルダーの脚本がうまい。

 

3・エルンスト・ルビッチ『街角 桃色の店』(1940、米)
ブダペストの革製品の店で働くセールスマンのジェームズ・ステュアートは、新入りの女性店員と相性が悪い。彼は文通相手と実際に会う機会を得るが、それがその女性店員であったことに気づいてしまう。東欧の庶民生活の哀歓が滲み出ている。

 

4・小林正樹『怪談』(1965、日)
小泉八雲の『怪談』などからのオムニバス映画。凍てつく演出の「雪女」や平家の落武者たちに狙われる「耳無芳一の話」も迫力があるが、最後におかれている「茶碗の中」の実話怪談ふうの不条理さも怖い。

5・黒沢清『Cloud』(2024、日)
菅田将暉演じる転売ヤーがネットから湧き上がる人々の憎悪に飲み込まれていく。ホラーであるとともにシュールな演出がよい。哀川翔と組んでいたVシネマ時代を彷彿とされる終盤のガンアクションもよかった。

6・西川美和永い言い訳』(2016、日)
西川監督は是枝裕和門下で作風は是枝監督に似ているが、潔癖さを感じる是枝監督よりもいっそう、しょうもない人間の弱さに優しい気がする。
小説家の本木雅弘は、不倫相手を家に呼んでいるときに妻が友人との旅行先で事故死したことを知らされる。世間に向けては悲劇の夫を演じながら、遺された妻の友人の父子との交流を重ねていく。

 

7・西川美和『ゆれる』(2006、日)
兄が起こした吊り橋の落下死亡事故は故意なのか過失なのかを巡って、唯一の目撃者である弟は証言を迫られる。

 

8・西川美和夢売るふたり』(2012、日)
火事で料理店を失った阿部サダヲは、ヤケ酒を煽り不倫に走る。それに勘づいた妻の松たか子は結婚詐欺を思いつく。擬似恋愛と本当の恋愛の境がわからなくなっていくのが面白い。

 

9・西川美和蛇イチゴ』(2002、日)
音信不通であった長男が祖父の葬式の日に突然戻ってきて、家族に隠れて借金をしていた父の苦境を救う。西川監督はタレントの使い方がうまいが、この作品の宮迫博之の胡散臭さが非常によい。

 

10・西川美和『すばらしき世界』(2021、日)
原作は『復讐するは我にあり』で有名な佐木隆三の『身分帳』(映画化により講談社文庫から復刊)。数十年を網走刑務所で過ごした元ヤクザの役所広司は、社会の変化と偏見にさらされながらも、新たな出発を試みる。

 

2024年に観た映画ベストテン

1・ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』(2023、日・独)

2・三宅唱『夜明けのすべて』(2024、日)

3・濱口竜介『悪は存在しない』(2024、日)

4・ウェス・アンダーソン『アステロイド・シティ』(2023、米)

5・是枝裕和『怪物』(2023、日)

6・濱口竜介『何食わぬ顔』(2002、日)

7・竹中直人無能の人』(1991、日)

8・黒沢清『Chime』(2023、日)

9・吉田大八『羊の木』(2018、日)

10・ダーレン・アロノフスキー『ザ・ホエール』(2022、米)

 

1・ヴィム・ヴェンダース(1945生)『PERFECT DAYS』(2023、日・独)

 

 

 主人公の役所広司は渋谷の公共トイレの清掃を仕事にしていて、とにかくいい趣味をしている。仕事の終わりに、本はウィリアム・フォークナー幸田文パトリシア・ハイスミスを読んでおり、題名はルー・リードの楽曲に拠るものである。

 しかし何よりも何気ない日常の描写が素晴らしい。役所広司は作中では無口だが、早朝から車で出勤して渋谷のトイレを清掃し、帰宅したら古本屋、銭湯、飲み屋に行くルーティンが、えも言われぬ効果を出している。

 1985年の『東京画』で、小津安二郎の時代の東京を追憶しながら当時の日本の品のなさを必要以上に責め立てるような印象に辟易したことがあって、ヴェンダースの再びの東京映画も似たようなものだと思っていたこと、しかも右翼フィクサー笹川良一が作った日本財団の支援で、ネット上で治安などの問題で炎上していた渋谷区のトイレプロジェクトが題材ということもあって、あまり観るのに気乗りがしていなかったが、現代の東京の日常を描いたの最高の映画の一つであるように思う。

 

2・三宅唱(1984生)『夜明けのすべて』(2024、日)

 

 

 この映画も『PERFECT DAYS』のように前評判が高かったがあまり気乗りがせず、というのも原作者の瀬尾まいこ氏が直木賞とは縁のない作家だったから、という一点に過ぎなかった。本屋大賞をとっているので十分評価されているのだが、エンターテインメント小説のジャンルにも隠れた序列があるのか、不思議なことに直木賞候補になったことは一度なく、芥川賞直木賞のような権威主義に囚われて、大した理由もなく敬遠してしまったので、恥ずかしい限りである。

 同じ中小企業で働く上白石萌音松村北斗が中心で、ともにPMSパニック障害を抱えている。病気という点では分かり合えるところもあるのだが、しかしながら内実は異なるから完全には分かりあうことはできない。それでも折り合いをつけて人生を歩んでいく姿がよかった。

 

3・濱口竜介(1978生)『悪は存在しない』(2024、日)

 

 

 濱口監督の作品は異化効果のある独特の対話劇で進んでいくので、最初は分かりづらいが、辛抱強く観ていれば、登場人物の心境に同感できるようになる。しかし『悪は存在しない』では、そのような分かりやすい解釈を拒絶してくる難解さがある。

 信州の田舎町におけるグランピング施設建設により沸き起こった騒動の中で、都会と地方、自然と人間、環境と経済、生と死にまつわる対立が輻輳する。コロナ助成金をもとにグランピング計画を進めようとするコンサルが出てきて、濱口映画らしくないと思ったが、その描写の解像度がやけに高く、濱口監督も映画の助成金絡みでコンサルとトラブルに巻き込まれたことがあるのではないかと邪推したくなるが、それでも共感と解決への道筋が最後に提示されかける。しかし物語は唐突に破局を迎え、観た者はひたすら自問を続けるしかなくなる。

 

4・ウェス・アンダーソン(1969生)『アステロイド・シティ』(2023、米)

 

 

 1950年代、近くで核実験が行われているネバダ州の砂漠地帯で、子供向けの宇宙科学のコンテストが開かれていたところに、宇宙人がUFOでやってきて騒動が巻き起こる。

 劇中劇の形をとったシュールな話であるが、裏に隠されているのは、一般のアメリカ人の冷戦期の核戦争への漠然とした不安感であるように思う。クリストファー・ノーランの『オッペンハイマー』(2023)のB面とも言える作品である。

 

5・是枝裕和『怪物』(2023、日)

 

 

 長野の小学生同士のトラブルをきっかけに様々な騒動がおこる。カンヌ国際映画祭クィア・パルム賞を受賞した際に、思春期の諸問題からLGBTQの問題を特別視したわけではないと是枝監督が発言して論争が起きたが、そのことも含めて考えさせられる。

 

6・濱口竜介『何食わぬ顔』(2002、日)

 

 濱口監督が東大の映画研究会に所属していたときに製作した自主映画で、8ミリフィルムの画質も物語構成もかなり荒削りだが、劇中劇、長回し、心を抉るダイアローグなど、濱口作品らしい特徴がすでに顕著であり完成度が高い。特に東京モノレールの中で、辞書の言葉を読み上げるシーンは才能が迸り出ている。

 珍しいことに、濱口監督自身も重要な役柄で出演している。東北記録映画三部作のインタビュアーや『ハッピーアワー』でのカメオ出演もあるが、本格的に俳優を演じているのはこの作品だけだろう。そして、この映画の中の濱口監督は、かなり嫌な奴である。早逝した映画研究会の先輩の遺作を完成させようとするが、わがままで周りの人を振り回し続ける。「濱口くんっていじめっ子顔だよね」と言われるシーンがあるが、その後に学生時代のいじめ経験を嬉々として話し出す。実際の濱口監督もいじめっ子だったのでは……と邪推してしまうような演技であった。

 

7・竹中直人(1956生)『無能の人』(1991、日)

 

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 つげ義春の漫画『無能の人』を映画化したもので、竹中直人が監督と主演を務めている。かつて芸術的な評価を受けたものの今は書けなくなってしまった漫画家が、河原の石屋、中古カメラ販売などで商売を試みるもどれもうまくいかない。登場人物のどうしようもなさと寂寥感がつげ漫画の雰囲気を醸し出している。

 

8・黒沢清(1955生)『Chime』(2023、日)

 

 近年『スパイの妻』(2020)のようなドラマでも評価されるようになった黒沢清だが、久しぶりに『CURE』(1997)のような訳のわからない怖さに満ちたホラーであった。

 恐ろしい展開を予感させて何も起こらず、何も起こらないと思っているときに限って異常な展開に転がるので、始終恐ろしかった。

 ところで、ネットでみつけた記憶のあるコメントなのだが、劇中で殺人事件を追う刑事が出てくるが、あれは本当の刑事ではなく、自分を刑事だと思い込んでいる人間なのだという……。劇中では特に暗示している描写はないはずだが、もしかしたらそうかもしれない、と思わせられてしまうくらいには不安な映画である。

 

9・吉田大八(1963生)『羊の木』(2018、日)

 

 

 『桐島、部活辞めるってよ』『紙の月』の吉田大八は、あまり美しいとは言い難い人間心理の描写がうまい。本作では、更生プロジェクトとして富山に移住した殺人犯六人が巻き起こす問題に、市役所職員の錦戸亮が苦悩する。劇中の地元住民と同じように、世間の前科者への冷たさに憤慨させられるとともに、再犯に巻き込まれるのではという不安感も同時に煽られる。『復讐するは我にあり』の佐木隆三のノンフィクションに似た感触がある。

 

10・ダーレン・アロノフスキー(1969生)『ザ・ホエール』(2022、米)

 

 

 病的な肥満で、余命幾許もない英語教師の室内劇を描く。自分が捨てた娘からの無心、偽善的な新興宗教の勧誘員の青年などが加わり、善意がどんどん横滑りになっていくのが、滑稽だがかなしい。玄関口にピザを置いていくときに、声をかけてくれるピザ屋の宅配員が実は救い手かと思いきや、ほんのささいな悪意にショックを受けてしまう。教師の敬愛するメルヴィルの『白鯨』のテクストは彼を救ったと言えるのだろうか。

 

 

2024年に読んだ本ベストテン

1・谷崎潤一郎細雪』(全三巻、新潮文庫

2・幸田文『父・こんなこと』(新潮文庫

3・エラリー・クイーン『Xの悲劇』『Yの悲劇』(中村有希訳、創元推理文庫)『Zの悲劇』『ドルリー・レーン最後の事件』(越前敏弥訳、角川文庫)

4・松本清張西海道談綺』(全四巻、文春文庫)

5・織田作之助『放浪・雪の夜 織田作之助傑作集』(新潮文庫

6・谷崎潤一郎『猫と圧造と二人のおんな』(新潮文庫

7・オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』『幸福な王子』『サロメウィンダミア卿夫人の扇』(新潮文庫

8・濱口竜介『他なる映画と 1・2』(インスクリプト

9・吉村昭『熊嵐』(新潮文庫

10 ・阿部幸大『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』(光文社)

 

1・谷崎潤一郎(1886-1965)『細雪(ささめゆき)』(全三巻、新潮文庫

 

 

 大阪や神戸、阪急沿線の蘆屋(芦屋)を主な舞台として、大阪船場の旧家に生まれた四姉妹を中心に、無口なせいでなかなか決まらない三女・雪子の縁談と、対照的に奔放な四女・妙子の異性トラブルの顚末が、四季の繰り返しと戦争の予感が少しずつ迫る中で緩慢に綴られる。

 船場言葉の会話文を中心に季節のうつろいで彩られる文章が流麗なのもそうだが、物語が抜群に面白い。雪子の縁談と妙子の恋愛以外にはプロットらしいプロットもないのだが、他の細々とした生活・人物描写が活き活きとしている。

 今日から読むと『細雪』は恋愛小説であるだけでなく戦争を巡る小説であり、さらには間断なく襲い掛かる災害の小説であり、病気の小説でもあることが明らかである。

 昭和13(1938)年7月の阪神大水害の描写は中巻の白眉であるが、その同じ年の9月、銀行員の義兄の東京転勤についていった長女・鶴子の借家を訪問したときにも姉妹は猛烈な台風に襲われる。この台風は関東・東北で200余の犠牲者を出したというが、特に名前も残されていない。昔の室戸台風関東大震災北丹後地震、濃尾地震の記憶も人々の心の中に影を落としている。

 災害を合間を縫うように登場人物は頻繁に病気にもなる。結核脚気、壊疽、黄疸、神経衰弱、皮膚病、赤痢など病気の描写が執拗に続く。上巻の冒頭にある雪子の縁談で、いい相手が決まりかけていたのに、身辺調査で相手の母親が精神病であることがわかり破談となってしまうように、社会における差別も描かれる。そしてこの美しい小説絵巻は、東京の嫁ぎ先に行く雪子の下痢が治らないまま、唐突に終わってしまう!

 他にも戦前の家制度の厳しさや、夫の転勤で関西を離れざるを得ない長女の悲しみ、東京と関西文化との相違、京都御所花見・蛍狩りのような自然描写、阪急電車を中心とした関西の私鉄経済の発展、越境と戦争の中で生まれた亡命ロシア人やドイツ人家族との交流など、細部をみていけば、小説に関するほぼ全てがこの『細雪』のなかにある。しかしながら題名のような実際の雪が降る場面だけは欠如している。

 

2・幸田文(1904-1990)『父・こんなこと』(新潮文庫

 

 ヴィム・ヴェンダースの『PERFECT DAYS』で、役所広司が古本屋の100均コーナーから幸田文の『木』(新潮文庫)を選んだとき、古本屋の主人は「幸田文はもっと評価されていいわよね」と話す。この映画らしくない直截な価値評価だが、確かにこの言は正しい。

 幸田文は父・幸田露伴の臨終を『中央公論』で書き記して文才が注目されるようになった。緊張感のある張り詰めた和文体から露伴と文の人柄が滲んでいる。

 

3・エラリー・クイーン『Xの悲劇』『Yの悲劇』(中村有希訳、創元推理文庫)『Zの悲劇』『ドルリー・レーン最後の事件』(越前敏弥訳、角川文庫)

 国名シリーズで人気作家となったエラリー・クイーンが1930年代に別名義で発表した四部作で、耳が聞こえなくなり引退したシェイクスピア役者のドルリー・レーンが探偵役となる。

 特に完成度が高いのは、海外ミステリーのオールタイムベストの常連である『Yの悲劇』だが、シェイクスピア悲劇のように、四部作を通読してはじめてシリーズ全体に隠された悲劇について真に理解できるようになる。

 

4・松本清張(1909-1992)『西海道談綺』(全四巻、文春文庫)

 岡山県北の勝山藩士・恵之助は、妻と密通をした上司を斬り、妻を廃坑に突き落として出奔する。とある事件をきっかけに幕府の有力者の保護を得た恵之助は、鉱山開発の知見をかわれて幕府直轄地・日田に赴く。隠れた任務は銅の流出疑惑の究明である。

 江戸時代の鉱山開発というマニアックなテーマを扱った、清張最長のフィクションであり、そのせいか現在は絶版となっているが、幕府の権力者、豪商や山師、山伏、犬神信仰の呪術者など多様な人物が変わるがわる登場して、伝奇小説として非常に面白い。

 

5・織田作之助(1913-1947)『放浪・雪の夜 織田作之助傑作集』(新潮文庫

 最近の新潮文庫は昭和以前の旧作についても新刊として出してくれることが多く、これも『夫婦善哉』しかなかった織田作之助の2冊目の新潮文庫になる。大坂を舞台にした多彩な作品でストーリーテラーとしての才能を味わえる。

 

6・谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』(新潮文庫

 三角関係の話だが、ここに猫が加わる。庄造は前妻にせがまれ飼い猫を譲るが、猫がいなくなって寂しくなり、こっそり前妻の家へ、前妻ではなく猫に会うために訪れる。猫の可愛さに翻弄される人間がおかしい。

 

7・オスカー・ワイルド(1854-1900)『ドリアン・グレイの肖像』『幸福な王子』『サロメウィンダミア卿夫人の扇』(新潮文庫

 世紀末芸術の旗手であるオスカー・ワイルドは、長篇『ドリアン・グレイの肖像』や戯曲『サロメ』のような芸術至上主義的な作品だけでなく、『ウィンダミア卿夫人の扇』『まじめが肝心』のようにユーモアに満ちた風俗劇、『幸福な王子』などの優しさの中に強烈な皮肉を隠した童話も創作してきた。通底するのは機知に満ちた言葉選びである。

 

8・濱口竜介(1978生)『他なる映画と 1・2』(インスクリプト

『ハッピーアワー』や『ドライブ・マイ・カー』などの監督の濱口竜介の講演や寄稿をまとめたもので、一流の監督であるとともに一流の評論家であることを示している。

 面白いことに、大学時代は映画館でよく寝ていたと打ち明けられている。高校までは意識的に映画を観ることはなく、東大入学時に総長であった蓮實重彦の名前も知らなかった。濱口の映画をいち早く評価することとなる蓮實であるが、総長時代の蓮實の祝辞は非常に晦渋かつ長大であり、濱口は途中で他の新入生と同じように居眠りしていたという。入学後も、映画研究会に入って映画館通いを続けたが、よく分からないまま途中で寝ることが多かったという。しかしながら、映画に対する分からなさを抱き続けたからこそ、映画を分からないものとして捉え続けることができたのだろう。

 

9・吉村昭(1927-2006)『熊嵐(くまあらし)』(新潮文庫

 新田次郎八甲田山死の彷徨』、小林照幸『死の貝 日本住血吸虫病との戦い』と並ぶいわゆる「Wikipedia三大文学」として知られる。

 北海道の天塩山脈山麓の開拓村がヒグマに襲われた「三家別羆(さんけべつひぐま)事件」をもとに、自然の脅威の前になす術もない人間と、ひとり沈着に立ち向かう猟師を対照的に描く。

 悪評のあった猟師・銀四郎は噂とは予想外の落ち着いた人物で、警察にも対処できなかったヒグマを仕留める。しかしその後の宴会で銀四郎は村人たちに乱暴狼藉を働き、村人たちは手の平返しで憤慨する。しかし村の区長は熊と対峙する彼の隠された寂しさに気づいてしまう。悲惨な獣害でありながら、抑制された透明な筆致が印象に残る。

 

10 ・阿部幸大(1987生)『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』(光文社)

 人文科学、特に質的な文化研究に絞っているが、研究・論文執筆を属人的・神秘的なものではなく、徹底的にテクニックにこだわり、個人的な問いがなくても、システマティックに論文・レポートを作成できるようにする標準化を徹底しているところに、類書とは異なる凄さがある。

 後半で語られるように、人文科学は役に立つものでなければいけないという主張が基底にある。特にエビデンスも提示せず漠然と「無用の用」となっているはずである、あるいはそもそも役に立たなくてもいいという開き直りのような旧弊な態度を排除し、人文科学に懐疑の目が向けられるなか、いかに直接的な価値を社会に還元するかに迫っている。

 

他によかった本

安部公房『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』(新潮文庫

つげ義春無能の人・日の戯れ』『義男の青春・別離』(新潮文庫

谷崎潤一郎『卍』『少将滋幹の母』(新潮文庫

新田次郎八甲田山死の彷徨』(新潮文庫

松本清張彩り河』『聖獣配列』(文春文庫)『告訴せず』『山峡の章』『殺人行おくのほそ道』『霧の会議』『紅刷り江戸噂』『彩色江戸切絵図』(光文社文庫

宮澤賢治『新編 宮澤賢治詩集』(新潮文庫

フランツ・カフカカフカ断片集』(新潮文庫

秋草俊一郎・戸塚学『教科書の中の世界文学』(三省堂

松浦寿輝沼野充義田中純『徹底討論 二○世紀の思想・文学・芸術』(講談社

越前敏弥『名作ミステリで学ぶ英文読解』(ハヤカワ新書)

『『ドライブ・マイ・カー』論』(慶應義塾大学出版会)

北村一真『英語の読み方 リスニング篇』(中公新書

『経営とは何か ハーバード・ビジネス・レビューの100年』(ダイヤモンド社

 

 

2023年に読んだ本ベストテン

1・松本清張『昭和史発掘』(全九巻、文春文庫)

2・立花隆天皇と東大』(全四巻、文春文庫)

3・清水晶子・ハン・トンヒョン・飯野由里子『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』(有斐閣

4・森岡正博『生まれてこないほうがよかったのか? 生命の哲学へ!』(筑摩選書)

5・ジョリス=カルル・ユイスマンス『さかしま』(澁澤龍彦訳、河出文庫

6・サマセット・モーム金原瑞人MY FABORITE 征服されざる者 The Unconquered/サナトリウム Sanatrium』(青灯社)

7・Joyce Carol Oates, "Where Are you Going, Where Have You Been?"/ジョイス・キャロル・オーツ「どこへ行くの、どこ行ってたの?」(柴田元幸訳、『英文精読教室 第4巻 性差を考える』(研究社)収録)

8・ローリー・グルーエン編『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』(大橋洋一監修、平凡社

9・滝澤弘和『現代経済学 ゲーム理論行動経済学・制度論』(中公新書

10・豊島圭介『「東大怪談」 東大生が体験した本当に怖い話』(サイゾー

 

 

 

1・松本清張(1909-1992)『昭和史発掘』(全九巻、文春文庫)

 1964年から1971年にかけて『週刊文春』に連載されたもので、今日では歴史的資料としては古い。また作者の松本清張推理小説家であるため、考証の飛躍が目立つ。しかし連載当時には生存していた当事者の証言を多用したオーラル・ヒストリーの先駆としての側面があり、何より当時の時代の空気を伝えている。

 昭和史とあるが扱っているのは戦前のみで、しかも後半は二・二六事件に絞られている。いびつな構成ではあるが、読み進めていけば二・二六事件に行かざるを得ない必然性を感じさせられる。

 第一巻の最初に扱われるのは、陸軍の田中義一が政界入りしたときの持参金の出所をめぐる「陸軍機密費問題」で、その後の展開の伏線ともなっている。文壇ゴシップも取り上げられ、「芥川龍之介の死」では、多くの文芸関係者が象徴的に取り上げてきた芥川の自殺を、執拗に愛慾を描き続けた清張らしく女性問題の側面から取り上げる。不倫相手がいたことは芥川の遺した文章の中にもはっきりと書かれているのだが、多くの人がその事実を意外と読み飛ばしており、芥川の死を「将来に対するぼんやりした不安」として回収してしまっていることに気づかせられる。また当時の部落差別と軍隊組織を逆手に取った抵抗を描く「北原一兵卒の直訴」も泣かせる。

 第二・三巻から徐々に暗雲が立ち込める。橋本欣五郎による蹶起計画(三月事件、十月事件)は、蹶起後の首班に考えていた荒木貞夫に叱責されるなどで、あっけなく失敗に終わるが、橋本の処分が軽かったことなどもあって、その後頻発する軍部の蹶起の前哨となる。その後のクーデタ計画における橋本欣五郎は、首謀者のところに首を突っ込みおこぼれにあずかろうとするものの、失敗に終わると自分は無関係だったとそそくさと逃げる狂言回しに過ぎなくなる。二・二六事件に至るまでのクーデタ計画は、血盟団事件五・一五事件、神兵隊事件、救国埼玉挺身隊事件など大掛かりかつ深刻になっていく。

 クーデタ計画の傍ら弾圧も進む。特高から日本共産党の中枢にまで食い込み、共産党員による大森銀行ギャング事件を指嗾したと噂され、幹部の会合情報を流して戦前の共産党を壊滅させたスパイMは、戦後もその正体はわかっていない(「スパイMの"謀略"」)。京大の滝川教授の罷免をめぐって京大法学部は文部省に敗北し(「京都大学の墓碑銘」)、天皇機関説に関する美濃部達吉貴族院での弁明演説は『昭和史発掘』内ではほとんどみられない理知的な言葉に感激してしまうものだが、度重なる攻撃によって追い詰められていく(「天皇機関説」)。

 陸軍では統制派と皇道派の対立が激化し、真崎甚三郎、荒木貞夫平沼騏一郎大川周明西田税北一輝永田鉄山石原莞爾などキーパーソンが順々にあらわれるなか、最後に二・二六事件の首謀者である青年将校らが表舞台に出る。

 青年将校の中で印象に残るのは、安藤輝三と磯部浅一の対照的な二人である。安藤大尉は、部下に慕われ統制派幹部にも信頼されていた。そのために合法的闘争を志向し、部下を巻き込むことを恐れて蹶起に反対であったものの、決行直前になって賛成に回り、蹶起部隊の主力となった。状況が悪化して他の青年将校らが降伏に応じていく中でも、安藤を信じる部下と共に最後まで抵抗を続けた。一方で、安藤の蹶起参加のために粘り強く説得し続けた磯部は狂信的である。陸軍士官学校事件などで既に軍隊を追われていた磯部は自由な時間を使って昭和維新のため精力的に活動し続けた。しかし青年将校らの意に反して天皇の奉勅命令がくだり、獄中で「天皇陛下 何と云う御失政でありますか」「皇祖皇宗に御あやまりなされませ」と天皇への呪詛に満ちた文章を記す。戦後、磯部の文章の熱気にやられた三島由紀夫が、人間宣言をした天皇を批判する『英霊の聲』を著した。執筆当時、美輪明宏は三島に磯部の霊が憑いているのをみており、それが自決の遠因になったのではないかと語っている。

 青年将校らをけしかけた皇道派や民間右翼らは実際の蹶起が近いと知ると物怖じして保身に走った。しかし青年将校らの純粋無垢な思いはもはや外からは抑えきれない力として爆発し、そのまま破局へと突き進むほかなかったのである。

 

2・立花隆(1940-2021)『天皇と東大』(全四巻、文春文庫)

 2021年に逝去した立花隆の本はかなりの数が絶版になっている。元々社員として勤めていた文藝春秋の文春文庫でも多くが絶版となっており、『天皇と東大』も品切れのようだ。電子版であればまだ買えるものもあり、必ずしも紙媒体の情報にはこだわらなかった立花らしいとも言えるが、一時代を築いたノンフィクション作家が急速に忘れ去られていくことに一抹の寂しさもある。

 『天皇と東大』は、主役を天皇におき、さらに中心舞台を東大(帝国大学東京帝国大学)に設定して大日本帝国の盛衰を描く。東大は1960年代の大学紛争などから左翼的なイメージが強いが、左翼運動だけではなく右翼運動の発信地でもある。国家人材の育成が大学設立の目的であったのだから当然といえば当然ではあるものの、右翼としての東大はあまり着目されてこなかった。

 戸水寛人、上杉慎吉平泉澄、筧克彦、蓑田胸喜など、現代では保守論壇以外ではほとんど忘れ去られている著名な右翼思想家・学者の言動を多数取り上げて時代の空気を蘇らせている。

 

3・清水晶子(1970-)・ハン・トンヒョン(1968-)・飯野由里子(1973-)『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』(有斐閣

 日本語で読めるポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)の概説書はこれまでなかったように思われる。本書でも指摘されているが、ポリコレではなくポリコレ批判が先立ってしまったために、ポリコレ批判の通俗的な著作はたくさん出てくるのに肝心のポリコレを解説したガイドブックのような本が存在しないという好ましくない状況が続いていた。講談社現代新書ちくま新書あたりで出してくれそうな気がしていたが、法律・経済学関係の本を中心としている有斐閣から本書が出版されることとなった。

 著者3名は左派系の論壇でよく知られているが、特徴的なのは即決ではなくためらいの姿勢である。ポリコレといってもその内部で対立し合うこともある。例えばハリー・ポッターの作者であるJ・K・ローリングフェミニズム運動に積極的で、またダンブルドアはゲイだと公言しており同性愛にも理解があると言えるが、トランスジェンダーについては女性の偽物が本来の女性の権利を侵害していると激しい攻撃を続けており、欧米では批判あるいはキャンセルカルチャーの対象となっている。日本の方ではローリングのことはあまり知られていないようであったが、この1、2年でトランス差別も欧米から上陸して「市民権」を得つつあるようである。

 このように複雑な様相をみせているポリコレの目指すべき姿は定まっているとはいえない。本書が元々予定していた題名は『ポリティカル・コレクトネスから未来へ』であったようだが、「どこへ」にするしかない状況では、ためらい、留保しながらも、少しずつ模索を続けるしかないのだろう。

 

4・森岡正博(1958-)『生まれてこないほうが良かったのか? 生命の哲学へ!』(筑摩選書)

 

 自分は生まれてこなければ良かった、あるいは人間は生まれてこない方が良い、という反出生主義(antinatalism)が急速に広まっている。反出生主義の発想自体は古くからある。ギリシャ悲劇のオイディプス王原始仏教、厭世主義哲学のショーペンハウアー、胎児自身が中絶選択の権利を持つ芥川龍之介の「河童」、シオラン(『生誕の災厄』!)……。面白いのことに、世界の若者に最も人気のある反出生主義者はポケモンミュウツーであるという説がある。『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』(1998)にて、自らを創った人間たちを呪い、「誰が生めと頼んだ? 誰が創ってくれと願った? 私は私を生んだ全てを恨む!」と叫ぶミュウツーの悲憤が世界中の若者をして自らの生誕の呪詛に至らしめたという!

 本書はにわかに人気を集める反出生主義を哲学的に克服するために構想された「生命の哲学」の序章で、反出生主義の代表的哲学者である南アフリカのデイヴィッド・ベネターの主張(邦訳は『生まれてこない方が良かった 存在してしまうことの害悪』(すずさわ書店))を反駁することを中心に進められる。著者も同意するように、ベネターの主張は理論的でそれ自体としては挑戦的で興味深いものであるが、直感的におかしなもので、素人でもところどころに破綻やごまかしがあるのがわかる。ベネターの議論には、英語圏功利主義哲学・分析哲学の強みと悪いところの双方が顕著に現れているように思えるが、東洋、インドなどの世界中の哲学を援用しながらそれらをひとつひとつ哲学的に批判していく作業がスリリングであり希望に溢れている。

 

5・ジョリス=カルル・ユイスマンス(1848-1907)『さかしま』(澁澤龍彦訳、河出文庫

 世紀末のデカダン芸術を代表する作品で、病弱な青年が屋敷に引きこもって、自分の好きな本、美術について語り続ける。その人工的な小宇宙が癖になる。

 

6・サマセット・モーム(1874-1965)『金原瑞人MY FABORITE 征服されざる者 The Unconquered/サナトリウム Sanatrium』(金原瑞人訳、青灯社)

 英語児童文学研究者の金原瑞人金原ひとみの父)のお気に入り作品の英文コレクションで、モームからは「征服されざる者」と「サナトリウム」の二つが選ばれている。モームは昔は人気があって英語の入試問題でもよく出題されていたが、今日では代表作の長篇『月と6ペンス』『人間の絆』以外の短篇はそれほど読まれていない。しかし非常に読みやすくて面白く、英語も平易である。「征服されざる者」と「サナトリウム」の日本語訳については同じ金原訳の『ジゴロとジゴレット モーム傑作選』(新潮文庫)にある。

 イギリス作家らしい皮肉な作風を特徴としたモームの短篇の中では、「征服されざる者」と「サナトリウム」のどちらも違う意味で異色の短篇と言えるが、最も優れたものでもあろう。

「征服されざる者」は戦時下の性暴力を抉った悲惨な作品である。占領下のフランスにて、ドイツ兵は自分が襲った女性に対して、初めの自分の乱暴な行為を反省し、本当の愛情が芽生えたのだと言って求婚する。女性の両親もドイツ占領下という状況に鑑み、娘にドイツ兵の愛を受け入れるよう説得するが、妊娠した娘は頑なに拒み続け……。

 一方の「サナトリウム」は高原のサナトリウム結核患者やその家族の間で繰り広げられる愛情の諸相を描く。小説の最後は、I love youという夫から妻への言葉で終わる。 普段のモームだったら一番使いそうにない陳腐な言葉ではあるのだが、そこに至るまでの人間描写がうますぎて思わず泣かされるのである。

 

7・Joyce Carol Oates, "Where Are you Going, Where Have You Been?"/ジョイス・キャロル・オーツ(1938-)「どこへ行くの、どこ行ってたの?」(柴田元幸訳、『英文精読教室 第4巻 性差を考える』(研究社)収録)

 全6巻の『英文精読教室』は、近現代の英語作品の原文とその詳細な訳註とで構成されており、英文読解の練習にもなるし、作品自体も面白い。中でも、1966年に発表されたオーツの「どこへ行くの、どこ行っていたの?」は、怪奇描写はなく、ほぼ人間同士の会話だけで進むのに、英文で読んでいてもゾッとする話であった。

 アリゾナ州で実際にあった女性殺人事件を題材とし、旧約聖書士師記の逸話にちなんだ題名を付けられ、ボブ・ディランに献辞が捧げられる本作では、自分の容姿に自信を持つ少女コニーが留守番をしている家に、正体不明の若い男が執拗にデートに誘ってくる。初めは男と対等にやり合っていたコニーであったが、次第に男の不気味さに飲み込まれてしまう。アメリカの暴力的風景を描いてきたオーツの作品にしては暴力的な描写は皆無であるものの、会話劇の不条理さが際立っており恐ろしい。

『英文精読教室』で他によかった短篇は以下の通りである。

第1巻・物語を楽しむ

I. A. Ireland, "The Ending for a Ghost Story" (1891)
(I・A・アイルランド「幽霊ばなしのためのエンディング」)
W. W. Jacobs, "The Monkey's Paw" (1902)
(W・W・ジェイコブズ「猿の手」)
Shirley Jackson, "The Lottery" (1948)
 (シャーリイ・ジャクスン「くじ」)

James Robertson, "The Miner" (2014)
 (ジェームズ・ロバートソン「坑夫」)

第2巻・他人になってみる

Agnes Owens, "The Dysfunctional Family" (2008)
 (アグネス・オーエンズ「機能不全家族」)
Nana Kwame Adjei-Brenyah, "The Finkelstein 5" (2018)
 (ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー「ザ・フィンケルスティーン5」)

第3巻・口語を聴く

Mark Twain, "How I Edited an Agricultural Newspaper Once" (1870)
 (マーク・トウェイン「私の農業新聞作り」)

第4巻・性差を考える

Kate Chopin, "The Story of an Hour" (1894)
 (ケイト・ショパン「一時間の物語」)

第5巻・怪奇に浸る

Edgar Allan Poe, “The Masque of the Red Death”(1842)
 (エドガー・アラン・ポー「赤死病の仮面」)

第6巻・ユーモアを味わう

Philip K. Dick, “The Eyes Have It” (1953)
 (フィリップ・K・ディック「目はそれを持っている」)

William Saroyan, “The Man with the Heart in the Highlands” (1936)
 (ウィリアム・サローヤン「心が高地にある男)

 

8・ローリー・グルーエン(1962-)編『アニマル・スタディーズ 29の基本概念』(大橋洋一監修、平凡社

 近年の人文科学・社会科学研究において注目されている動物論(アニマル・スタディーズ)について、人間中心主義、生政治、ヴィーガン、法などの29のトピックから詳細に解説している。今後の日本における動物論研究の基盤の本と言える。

 

9・滝澤弘和(1960-)『現代経済学 ゲーム理論行動経済学・制度論』(中公新書

 かつての経済学は、ケインズ経済学とフリードマン新自由主義経済学とのイデオロギー的な対立の側面から語られることが多かった。現代では、床屋談義はともかく、学問としての経済学は大きく姿を変えている。実証分析によりケインジアンマネタリズムの双方の主張を柔軟に修正して取り入れながら、心理学や生物学、歴史などの他の分野の知見も取り入れている。本書はそのように多様化していく現代経済学をコンパクトにまとめる。現代の諸学問に絶大な影響を与えているゲーム理論や、合理的経済人としての前提を修正した行動経済学だけでなく、日本ではポピュラーではない制度論(組織の経済学、新制度派経済学、法と経済学)にも紙面を割かれており貴重である。

 

10・豊島圭介(1971-)『「東大怪談」 東大生が体験した本当に怖い話』(サイゾー

 イロモノのつもりで面白半分で読んでいたのだが予想外の良著であった。著者は怪談もののドラマの脚本などを手がけてきており、ドキュメンタリー映画三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』の監督でもある。

 ジャンルとしては実話怪談の一種で、帯にもあるように「日本最高の頭脳が"説明不可"と震えた本当の恐怖」を蒐集することを目的としていたようだが、純粋な怪談としては他の実話ものと比べてさほど恐ろしいものではない。逆に印象深いのは、一つの恐怖体験が自らの苦しい人生経験と絡み合ってしまっているためにその体験を科学的に片付けられない一方で、むしろその実体験で自覚した自らのひずみが生きるはずみにつながっていることが語り口から感じられることである。

 勉強のストレスで発症した統合失調症で入院中に言葉を発せないはずの患者と会話できるようになっていた話、夫の海外赴任に伴い自身の仕事のキャリアを断絶して帯同した妻がバンコクのアパートでタイの精霊と仲良くなる話、義理の父の虐待で育つなか相模原の山中で「牛人間」に遭遇し大学卒業後の今もなおその山道に行ってしまう話など、身につまされる。

 インタビュイーへのアンケートも掲載されており、心霊現象と東大に落ちるのとではどちらが怖いかという質問があり、8割がたは心霊現象と答えていた。これは個人的には意外な結果であった。というのも、心霊現象と思しきものには、二、三度ちょっとだけ出くわしただけで大学卒業後は全くないのものの、高校卒業直前にある教科の単位が取れておらず留年することがわかって大学の合格を取り消しになる夢にはいまだに何回もうなされるからである。不思議なことに、単位が足りなかった教科は必ず決まっていて、得意でも不得意でもなく、先生も授業も特に印象には残っていない化学なのである……。

 

※その他の良かった本

石原千秋編『生れて来た以上は、生きねばならぬ 漱石珠玉の言葉』『教科書で出会った名句・名歌三○○』(新潮文庫

江藤淳『文学と私・戦後と私』(新潮文庫

大江健三郎『死者の奢り・飼育』(新潮文庫

川端康成『古都』(新潮文庫

志賀直哉『和解』(新潮文庫

谷川俊太郎『ひとり暮らし』(新潮文庫

頭木弘樹編『うんこ文学 漏らす悲しみを知っている人のための17の物語』(ちくま文庫

松本清張『波の塔』『証明』『疑惑』『火神被殺』『危険な斜面』『遠い接近』『神々の乱心』『事故』『陸行水行』『馬を売る女』『浮游昆虫』(文春文庫)

シェイクスピア『夏の夜の夢・あらし』(新潮文庫

モーム『月と六ペンス』『ジゴロとジゴレット』『英国諜報員アシェンデン』『人間の絆』『要約すると』(新潮文庫)『報いられたもの・働き手』(講談社文芸文庫

クッツェー『少年時代の写真』(白水社

つげ義春つげ義春 名作原画とフランス紀行』(新潮社)

北村一真『英文読解を極める』(NHK出版新書)

行方昭夫『読解力をきたえる英語名文30』(岩波ジュニア新書)

メン獄『コンサルティング会社完全サバイバルマニュアル』(文藝春秋

ティーブン・G・メデマ『ロナルド・H・コースの経済学』(白桃書房

渡辺努『物価とは何か』(講談社選書メチエ

2023年に観た映画ベストテン

今年はインボイスと電帳法対応が忙しくて全然観られませんでした…。

 

1・セルジオ・レオーネ『ウエスタン(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト)』(1968、伊・米)

2・酒井耕・濱口竜介『東北記録映画三部作 第一部 なみのおと』(2011、日)

3・酒井耕・濱口竜介『東北記録映画三部作 第二部 なみのこえ 気仙沼』(2013、日)

4・酒井耕・濱口竜介『東北記録映画三部作 第二部 なみのこえ 新地町』(2013、日)

5・酒井耕・濱口竜介『東北記録映画三部作 第三部 うたうひと』(2013、日)

6・ロベール・ブレッソンジャンヌ・ダルク裁判』(1962、仏)

7・シアン・ヘダー『CODA コーダ あいのうた』(2021、米・仏・加)

8・シャンタル・アケルマン『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975、ベルギー・仏)

9・城定秀夫『夜、鳥たちが啼く』(2022、日)

10・森達也『FAKE』(2016、日)

 

1・セルジオ・レオーネ(1929-1989)『ウエスタン(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト)』(1968、伊・米)

 マカロニ・ウエスタン(ハリウッドを模倣してイタリアで製作された西部劇)の代表的監督であるセルジオ・レオーネアメリカで製作した大作で、いわゆる「ワンス・アポン・ア・タイム三部作」の最初の作品である。

 イタリア時代の「ドル三部作」(大ヒットしたという興行的意味を含めて「ドル箱三部作」ともいう)でもカット割などに個性があったが、本作ではディレクターズ・カット版で160分超に及ぶ長尺を使って、遠慮なく作家性を吐き出している。冒頭の駅での待ち伏せのシーンが印象的で、風車の軋む音、蠅の羽音が断続的に続くなか、男たちの髭面がクローズアップで執拗に映し出される。やっと汽車が到着したが、目的と思われる人物は降りてこず、一瞬の緩みが生じたところ、不意にハーモニカ吹きの男(チャールズ・ブロンソン)が現れる……。全篇が人も環境も荒々しいものの、緩急をつけて繋がれていく構図が美しい。

 レオーネの作品群は、西部劇というジャンル自体がそもそもそうなのだろうが、男同士の絆が中心で、女性は周辺的なものか、蔑視の対象であることが専らであった。例外的に『ウエスタン』は女性が中心人物となっており、フェミニズム的要素も強い。ニューオーリンズで娼婦をしていたジル(クラウディア・カルディナーレ)は、西部の到着直前に夫家族をギャングに殺され広大な牧場を相続することとなる。ギャングたちの陰謀に妨害されながら、謎のハーモニカの男の手助けを受けて牧場の再興に励む彼女と、荒地に伸びていく鉄道によって、男たちの西部開拓の時代は過ぎ去っていくことが象徴される。

 

2・酒井耕(1979-)・濱口竜介(1978-)『東北記録映画三部作 第一部 なみのおと』(2011、日)

3・酒井耕・濱口竜介『東北記録映画三部作 第二部 なみのこえ 気仙沼』(2013、日)

4・酒井耕・濱口竜介『東北記録映画三部作 第二部 なみのこえ 新地町』(2013、日)

5・酒井耕・濱口竜介『東北記録映画三部作 第三部 うたうひと』(2013、日)

http://silentvoice.or.jp/works/naminooto/

 商業映画デビューする前の濱口竜介の作品は相当数あるが、監督本人が映画館に足を運んで欲しいという意思があるようで、DVDやネット配信はほとんど行われておらず、鑑賞する機会が非常に限られている。この東日本大震災のドキュメンタリーも、映画祭や有志の上映会などでなければなかなかみられず、劇映画ではないのでその上映の機会もかなり少ない。しかしながら、濱口竜介のその後の演出技法の源流を確認できるだけでなく、震災の記録映画自体として非常に優れたものであり、もっと知られてほしい作品である。

 せんだいメディアテークの「3がつ11にちをわすれないためにセンター」のアーカイブとして、岩手から福島の沿岸地域を縦断して撮影されたこのドキュメンタリーにおいて、被災地の映像はほとんどなく、住民同士の対話でつなげられている。その対話方式が異質で、家族や仕事仲間などの親密な人間同士を、あえて全くの他人であるかのように仮定して進められていく。はじめに氏名と属性を名乗りあって、当人らにとっては既知のことであるはずのその日の経験がカメラの前での語り直しで異化されることによって、隠されていた思いが浮き出てくる。

 

6・ロベール・ブレッソン(1901-1999)『ジャンヌ・ダルク裁判』(1962、仏)

 ジャンヌ・ダルクの映画といえば、ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』(1928)の方が有名だが、ロベール・ブレッソンは否定的だったようで、顔のクローズ・アップを多用した表現主義的で大仰な演出に辟易していたと『シネマトグラフ覚書』(筑摩書房)に記している。『ジャンヌ・ダルク裁判』は実際の裁判記録からの再現を試みた点はドライヤーと一緒だが、演出についてはブレッソンらしく抑制的で静謐になっている。ドライヤー版では戯画的に描かれている裁判官や司教たちは理知的であり、裁判も淡々と進む。その淡白さから、当時の英仏関係のもとに置かれた人々の行き場のない苦悩が滲み出てくる。

 

7・シアン・ヘダー『コーダ あいのうた』(2021、米・仏・加)

 CODA(Children of Deaf Adults)である女子高生が歌手を目指す。親子間の感情の衝突、経済的問題など学園・家庭ドラマ的な要素と、聴覚障碍者やヤングケアラーを取り巻く問題とがうまく組み合わさっており、物語として面白いだけでなく勉強になった。

 

8・シャンタル・アケルマン(1950-2015)『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975、ベルギー・仏)

 英国映画協会が10年に一度選出している、批評家が選ぶ史上最高の映画トップ100の2022年版で、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』やヒッチコックの『めまい』などの常連をおさえて第一位となった。前回の2012年版では35位でそれ以前にはランキング外であった。近年のフェミニズムの波による映画界の急変と(少なくとも一般の日本人にとっては)未知の映画作家の傑作が残されていたことに驚いた。

 ランキングのトップであるが非常に癖がある映画で、正直なところ好みは分かれるだろう。200分超もの上映時間を使って、ブリュッセルに住む未亡人の3日間を映すだけである。その3日間はおおむね反覆にすぎないが、少しずつ苛立ちが混じり込んで破局に至る。

 

9・城定秀夫(1975-)『夜、鳥たちが啼く』(2022、日)

 近年再評価が進む佐藤泰志(1949-1990)の小説の六度目の映画化となる本作は、舞台が函館ではなく東京近郊となっている。佐藤泰志というと函館のイメージが強いが、作家活動の半分ほどは、東京の国分寺市を拠点としており、国分寺周辺を舞台にした小説も多い。佐藤は国分寺の在住が長く、国分寺や国立、立川を舞台とした小説も多い。『きみの鳥はうたえる』や『草の響き』も映画版では函館が舞台に移されているが、原作の舞台は東京西部である。多摩地域で生活した作家としての一面は改めて注意するべきであろう(さらにいうと、佐藤と同じ頃、同じ国分寺で同世代の村上春樹がジャズバーを経営していた)。

 『夜、鳥たちが啼く』は、スランプに陥り同棲中の恋人にも去られた小説家が、その友人と離婚した妻とその子供に家を貸し自分は離れのプレハブに一人暮らすことによって生まれる顚末を描く。2014年に映画化された『そこのみにて光り輝く』の描写は直截的であったがどことなく品の良さを感じた一方、こちらの映画の方が抑制的な描写に留まっていたが生々しさ、色っぽさがあった。ピンク映画出身の監督だからこそ、佐藤泰志の小説特有の汗臭さをうまく表現できたように思える。

 

10・森達也(1956-)『FAKE』(2016、日)

 森達也は、地下鉄サリン事件直後にオウム真理教信者に密着したドキュメンタリー『A』(1998)で知られるが、今回は2014年にゴーストライター問題で一時期週刊誌やワイドショーを賑わした佐村河内守の自宅で取材している。題材は三面記事的なゴシップに過ぎないが(もちろん難聴者への誤解が広まってしまったという問題もある)、現代の報道の問題点を抉っている。

 自宅での取材交渉時に佐村河内氏を貶めたりはしないと約束していたはずのテレビ番組で、結局誹謗するような内容でインタビューが使われるなど、当時面白おかしく報道された騒動の裏側が分かる。その傍ら、バラエティ番組でチヤホヤされる新垣隆氏を自宅のテレビから苦々しく眺めたり、毎回の食事で異様な量の豆乳を飲み干したりなど、佐村河内氏の癖も感じられて面白い。

 しかし森達也は佐村河内氏に完全に寄り添っているわけでなくどことなく突き放している。視聴していて、佐村河内氏の言動の大半はそれなりに納得できるものの、全部とは言わない間でも少し誤魔化しているような違和感を残し続ける。

 

 

2022年に読んだ本ベストテン

1・徳田秋声『あらくれ・新世帯』(岩波文庫)

2・干刈あがた干刈あがたの世界』(全6巻、河出書房新社)

3・善教将大『大阪の選択 なぜ都構想は再び否決されたのか』(有斐閣)

4・井谷聡子『体育会系女子のポリティクス 身体・ジェンダーセクシュアリティ』(関西大学出版部)

5・ジェイ・B・バーニー『新版 企業戦略論』(全3巻、ダイヤモンド社)

6・遠山暁・村田潔・古賀広志『現代経営情報論』(有斐閣アルマ)

7・織田作之助夫婦善哉 決定版』(新潮文庫)

8・川端康成眠れる美女』(新潮文庫)

9・小泉悠『「帝国」ロシアの地政学 「勢力圏」で読むユーラシア戦略』(東京堂出版)

10・北村薫『雪・月・花 謎解き私小説』『水 本の小説』(新潮社)

 

 

1・徳田秋声(1872-1943)『あらくれ・新世帯』(岩波文庫)

 徳田秋声は前々からその名前を知りながら、十数年ほど読む契機がこなかった。

 最初に知ったのは、2020年に急逝した坪内祐三が、エッセイ集『人生天語』(文春文庫)において、神保町にある八木書店の『徳田秋聲全集』の完結を祝した回であった。地味で渋い作家、ということを何度も強調しながらも、夏目漱石谷崎潤一郎と並ぶ近代日本文学の三大文豪に挙げていた。坪内氏ほどの好事家がここまで評価する秋声という人物が気になった。

 それと同じ頃、読書家で知られた俳優の児玉清の自叙伝的な読書録『寝ても覚めても本の虫』(新潮文庫)を読んだ。読書家になったきっかけが秋声の『縮図』(岩波文庫)で引き込まれたからだと語られていた。『寝ても覚めても本の虫』はミステリーやエンターテインメント作品の紹介がほとんどを占めており(百田尚樹の『永遠のゼロ』が講談社文庫に収録されてからにわかに注目を集めたのも児玉清が文庫版解説で号泣しながら読んだと絶賛したこともあるだろう)、冒頭の純文学、それも自然主義作家の『縮図』だけが変に浮いているように思った。それが気になって『縮図』を手にしたが数頁読んでみて良さがわからず、同じ金沢出身の三文豪と呼ばれる泉鏡花室生犀星の名前は度々聞きおりにふれ読んできたものの、秋声だけはそれきり完全に縁が切れてしまった。

 2020年代に入ってから、間歇的に秋声のことを聞くことになった。

 はじめに遭遇したのは、岩波書店のPR誌『図書』2021年12月号の日本近代文学の研究者・大木志門氏のエッセイ「東京五輪の年に読む徳田秋声『縮図』」であった。そこでまず引用されていたのは、自然主義文学とは縁がありそうにもないビジネス誌ニューズウィーク日本版』の記事であった(「閻連科:中国のタブーを描き続けるノーベル文学賞候補が選ぶ意外な五冊」(2020年8月11日・18日合併号))。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/culture/2020/08/5-109.php

 挑撥的な作品により度々発禁となりながらノーベル文学賞の有力候補と言われている現代中国の作家である閻連科氏が選んだ一冊が「今日ではもはや日本の読者でさえ改めて読むこともない小説かもしれない」徳田秋声の『縮図』であった。マジックリアリズムの作風である閻連科が秋声を好むことに驚いた。

 さらに、岩波文庫での『あらくれ・新世帯』の刊行と『縮図』の増刷の背景には、DMMのゲーム「文豪とアルケミスト」で知った若年層からのリクエストが多かったことがあり、そのゲームにおいて美青年に転生した徳田秋声の人気は「如何せん目立たず存在感が薄いことは否めない」というキャラクター紹介にも関わらず、若者受けしそうな太宰治中原中也をもおさえているという!

 次に新潮社のPR誌『波』での北村薫氏の連載エッセイで不意に秋声が出てきた。様々な本の話題がつながっていくこちらのエッセイで、金沢出身の鏡花と犀星に続けて、秋声の逸話が語られ、そのまま北陸新幹線で金沢の徳田秋聲記念館での生誕150周年記念講演へと赴く。

 最後に『日本近代短篇小説選』(岩波文庫)の明治篇2に収録された短篇「二老婆」(1908)で再び秋声を読むこととなった。題名からしてあまり読む気はなく、アンソロジーとして義務的に読んだわけであるが、東京で貧困に喘ぐ二人の女性の生活の残酷さとそれをあくまで写実的に描写する冷淡ともいうべき筆致に衝撃を受けた。

 「あらくれ」は1915年に『讀賣新聞』で約100回にわたって連載されたが、毎回毎回主人公のお島が周囲の干渉に対して癇癪を起こし、その自己主張が当時の読者にも毎日強烈な印象を与えたことであろう。お島は養家からの結婚相手を拒絶して養家を出、日本中を彷徨しながら不甲斐ない男たちとの交流の傍ら自らの商売の道を切り開いていく。(秋声との関係は良好だったものの)反自然主義の位置にいた漱石が「あらくれ」を現実そのままを書いているだけで「その裏にフィロソフィーがない」と批判したことが有名だが、「あらくれ」は今日的な意味において紛れもなくフェミニズム文学であり、アクチュアルな意味合いで読み直されなければいけない作品である。

 

2・干刈あがた(1943-1992)『干刈あがたの世界』(全6巻、河出書房新社)

 干刈あがたは『ウホッホ探検隊』と『ゆっくり東京女子マラソン』というふざけたような題名の小説の作者としてのみ知っていたが、『戦後短篇小説再発見』の第4巻「漂流する家族」に収録されていた「プラネタリウム」に感動した。仕事が忙しくて家に帰ってこない夫を待つ妻とその息子たちが、楽しみを繕いながらなお隠せぬ寂しさを様子を描き、卑近な家庭風景の中に徐々に宇宙のイメージが入ってきて、ティッシュペーパーの箱で作ったプラネタリウムの底で妻子が愉悦に浸りながら漂流して終わる。

 干刈あがたは現在あまり読まれていない作家だが、離婚やシングルマザー、共働き、子育てといったテーマを扱った小説群はむしろ今こそ注目されなければいけないはずである。『ウホッホ探検隊』は離婚した母子家庭の手探りの交流を辿るが、息子の語る「僕たちは探険隊みたいだね。離婚ていう、日本ではまだ未知の領域を探険するために、それぞれの役をしているの」というように筆致は至ってユーモラスである。題名の「ウホッホ」もまた、離婚した父が家に来たときに躊躇いがちにする咳払いのことであり、微妙な感情の揺れ動きの中でも、離婚を必ずしも悲観的にとらえずむしろ新しい家族の形の創生として積極的・ユーモラスに模索していく。『ゆっくり東京女子マラソン』はPTAという文学ではほとんど扱われなかった舞台(強いて言えば筒井康隆の「くたばれPTA」くらい)にして女性が様々な問題をゆっくり乗り越えていく様子を描く。

 作者の早逝後刊行された『干刈あがたの世界』は、奥付を見る限りだと元々12巻を予定していたようだが、第一期の6巻のみで中断したらしい。干刈あがたの作品は朝日文庫河出文庫で『ウホッホ探検隊』が何度か再刊されているが現在あまり出回っておらず、それ以外の作品はほとんど見つけられない。この責任の一端は版元にあるといってよく、干刈がデビューしたのは福武書店が発行していた文芸誌『海燕』の新人賞であって、小説のほとんどが『海燕』に掲載後、福武書店から刊行、文庫化されていた。しかし出版事業に興味のない2代目社長になってから福武書店ベネッセコーポレーションに社名を変更し、文芸事業から完全撤退したため干刈作品のほとんどが絶版になってしまった。罪な話ではある。

 

3・善教将大(1982-)『大阪の選択 なぜ都構想は再び否決されたのか』(有斐閣)

 

 2018年の『維新支持の分析 ポピュリズムか、有権者の合理性か』(有斐閣)で知られる政治学者が、2020年の大阪都構想の再度の敗北の謎を読み解く。

 2020年11月に行われた大阪都構想の可否を巡る2回目の住民投票、コロナ対応で吉村洋文・大阪府知事が人気を集め、また関西で強固な地盤のある公明党が国政で協力関係にある自民党と袂をわかち応援に回ったことにより、可決されるとの予想が多かったが、前回と同じように僅差で否決された。

 感情的な議論が紛糾しがちな維新政治であるが、この本は実証データをもとに実態を紐解いていく。維新の会そのものの分析だけでなく、有権者の政治行動やデータ分析の実践方法の教科書としても優れている。

 エキセントリックな言動で目立つ創設者の橋下徹や吉村知事の存在は主要な支持要因ではなく、維新の地元政策の効果を実感して緩く支持している支持者の方が多い(国政では維新ではなく自民党への投票が多い)。維新支持の理由の主たるものはこれまでの大阪府大阪市の二重行政の弊害打破への期待であったが、維新の登場によって相当の程度で改善された。逆に言うと、現状で維新のおかげでもう回っているから、わざわざ大阪都に移行するメリットを感じられなくなったという。維新政治の本丸であるはずの大阪都構想は、維新支持者によって逆説的に否決されたといえる。

 再び都構想が否決されたとはいえ、維新はその後も広く支持を集めている。都構想の支持者は相当数いたのだから、たとえ反対派であっても二重行政に関する問題は真摯に取り組まなければならないと釘を刺す。コロナ以降は独裁・権威主義体制の方が優れているという議論がにわかに広まったが、この本は地味な代議制民主主義の長所をも暗に示している。

 

4・井谷聡子(1982-)『体育会系女子のポリティクス 身体・ジェンダーセクシュアリティ』(関西大学出版部)

  これまで男性が中心であったサッカーやレスリングを主な題材として、日本の女子スポーツがをフェミニズム理論、クィア理論やポストコロニアル理論(この辺りは欧米での既存研究にはあまりみられない独自性がある)などを用いて分析する。「女らしくあれ」という要求と「女になるな」という要求とが同時に突きつけられる矛盾したフィールドのうちに孕む問題と可能性を探っていく。用いられる理論は決してわかりやすいものではないが、馴染みのある女子スポーツの見方を確かに変容させる研究書であった。

 

5・ジェイ・B. バーニー(1954-)『新版 企業戦略論』(全3巻、ダイヤモンド社)

 RBV(Resource Based View)の代表的研究者であるバーニーによって作成された企業戦略論のテクストで、MBAでも広く教科書として用いられている。RBVとは反対のポーターのポジショニング理論にも触れられており参考になる。

 

6・遠山暁・村田潔・古賀広志『現代経営情報論』(有斐閣アルマ)

 近年盛んに言われるようになったDX(デジタル・トランスフォーメーション)の教科書と銘打たれているが旧版の『経営情報論』は2003年に刊行されている。それだけに流行に囚われない確固とした社会学的・思想的な議論が展開されており類書と一線を劃す。

 開発手法やUI、データベースなどの基本的な話題にも触れながら、本書で一貫して主張されているのは、一回DXを取り入れれば解決するというような「技術決定論」はあり得ず、情報技術は人間と社会との軋轢を経ながら、徐々にそれらを変え、また変えられていくという思想である。

 

7・織田作之助(1913-1947)『夫婦善哉 決定版』(新潮文庫)

 甲斐性なしの男とそれに呆れながらも付き添って生計を立てていく女を描いていき、二人が法善寺境内の「めをとぜんざい」を食べて終わる。大阪弁の会話を基調とした文体は饒舌だが、それでいて不思議と引き締まっている。

 2007年に続篇の原稿が発見されており、新潮文庫の決定版はこの「続夫婦善哉」を併録している。時々ある文豪の習作や書簡の発見などとは比較にならないようなとんでもない発見であるが寡聞にして知らなかった。大阪・法善寺における「めをとぜんざい」を食べての終わり方は完璧であり、「夫婦善哉」によって大阪を象徴する作家となった織田作之助であったが、意外なことに「続夫婦善哉」は大分県の別府に舞台を移して新しい局面へと向かっている。

 

8・川端康成(1899-1972)『眠れる美女』(新潮文庫)

 川端康成は日本的な情緒を書いた作家とされるが、その感性は一般的な日本人とはかけ離れており非常に個人的なものであるように思われる。川端のそもそもの文学的出発点が、横光利一と同じ新感覚派であったことを考えると当然とはいえるが、『眠れる美女』は川端の異様な感覚を知るのに適した短篇集である。

 性的に不能になった老人が睡眠薬で眠らされている美女と添い寝をする「眠れる美女」、娘の片腕と一緒に過ごす「片腕」などを収めている。文庫版の解説は三島由紀夫で、「熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品」と川端文学の異常さを的確に指摘している。

 

9・小泉悠(1982-)『「帝国」ロシアの地政学 「勢力圏」で読むユーラシア戦略』(東京堂出版)

 ウクライナ侵攻後に一般的にも著名となったロシア軍事専門家が、ロシア内での思想的なバックグラウンドをもとに現代ロシアの軍事戦略を分析する。距離的にはわずかしか離れていない根室国後島とで時差が2時間あるために発生するビザなし交流のトラブルなど、逸話のいちいちが面白く、西側には馴染みのないロシア側の安全保障的価値観を一通りする上で有益である。

 広大な領土と国境線を抱え、経済的に無理をして維持しているロシアの軍事力は見かけほど強くはないが、期待するほど弱くもないという観点に立つ。近年活潑化してきたロシア軍のウクライナコーカサス地方中央アジア、シリア、中国、北方領土、北極圏での動きを追い、独特な安全保障上の価値観を浮き彫りにする。エピグラフに2008年のNATOの会議においてプーチンがブッシュに言ったとされている「ジョージ、ウクライナは国家でさえないんだ!」という言葉が引用されていてゾッとする。

 

10・北村薫(1949-)『雪・月・花 謎解き私小説』『水 本の小説』(新潮社)

 年初から気が滅入ることが続いた2022年は、『波』に連載されているこちらのエッセイが癒しであった。

 ミステリー作家が純文学、ミステリー、詩歌、演芸、映画、テレビなどのエピソードを次々とあげていくエッセイ風の小説であるが、ほとんどが知らない話で、思わぬところへ謎が飛んでいき展開が読めない。博覧強記の優しいおじさんとしての語り口が毎回楽しみである。

 

その他のよかった本

『日本近代短篇小説選』(全6巻、岩波文庫

『現代小説クロニクル』(全8巻、講談社文芸文庫

『戦後短篇小説再発見(全18巻、講談社文芸文庫

岡本かの子『老妓抄』(新潮文庫)

松本清張『蒼ざめた礼服』『渡された場面』『隠花平原』(新潮文庫)

松本清張球形の荒野』(文春文庫)

沼野充義沼野恭子『ヌマヌマ はまったら抜けだせない現代ロシア小説傑作選』(河出書房新社)

『日本近代随筆選』(全3冊、岩波文庫)

アーサー・コナン・ドイル『失われた世界』(創元SF文庫)

千街晶之編『伝染(うつ)る恐怖 感染ミステリー傑作選』(宝島社文庫)

頭木弘樹編『トラウマ文学館』(ちくま文庫)

風間賢二『怪異猟奇ミステリー全史』(新潮選書)

北村一真『英語の読み方 ニュース、SNSから小説まで』(中公新書)

シャーロック・ホームズで学ぶ英文法』(アスク)

河合香織『母は死ねない』(2023年に筑摩書房より刊行予定)

菊田雅弘裕『さっと読める! 実務必須の重要税務判例』(清文社)

『21世紀中小企業論 第3版』(有斐閣アルマ)

小泉悠『ロシア点描 まちかどから見るプーチン帝国の素顔』(PHP研究所)

小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』(ちくま新書)

ヴィスワヴァ・シンボルスカ『瞬間』(未知谷)