Дама с Рилаккумой

または私は如何にして心配するのを止めてリラックマを愛するようになったか

多文化主義なのかアメリカ第一主義なのか イーストウッド『グラン・トリノ』にまつわる苦さ(2017/10-2017/11の日記)

10・11月
(『グラン・トリノ』結末に関する記述あり)
 今日クリント・イーストウッドについて語ることはいささかの躊躇いを感じさせる。
 昨年イーストウッドEsquire誌のインタビューにおいて、難しい選択だという留保をつけながらも、トランプ支持を表明した。圧倒的に民主党の強いハリウッドではタブーに近いトランプ支持は多くの同業者を鼻白ませた。
 イーストウッドが古くからの共和党員であり、共和党大会でオバマ再選阻止を訴えていたことを考えるとトランプ支持はさほど不思議ではない。それでも少なからぬ人にショックを与えたのは映画自体はリベラルにみえるからだろう。  
 その最たる例が『グラン・トリノ』(2008米。脚本はニック・シェイク)である。イーストウッドの監督作でなければ、反トランプ運動の教材にされていてもおかしくはなさそうだ。しかしトランプ時代のいま観ると、紛れもないトランプ的なアメリカを描きだした作品ではないかと思える。
グラン・トリノ』の舞台が、予想を覆してトランプの勝利したミシガン州デトロイト近郊であることは偶然ではない。ミシガン州などの「ラストベルト」は、これまで労働組合寄りの民主党の牙城であったが、マイノリティー擁護のインテリ政党となった民主党に愛想を尽かし、今回のトランプ勝利を決定づけた。『グラン・トリノ』の主人公ウォルト・コワルスキー(イーストウッド)もトランプに投票するであろう老人だ。
  コワルスキーは朝鮮戦争の英雄であり(イーストウッド自身も出兵していないが朝鮮戦争時に軍にいた)、退役後はフォードで自動車工として勤め上げた。そのためトヨタ車のディーラーをやっている息子夫婦とは折が合わない。まして近隣に増えてきたインドシナ半島出身の少数民族であるモン族と交流する気などさらさらない。最愛の妻の死後は、玄関先で愛犬をそばに缶ビールを飲む孤独な生活を送っている。その玄関には星条旗が掲揚されている。
 「イエロー」嫌いのコワルスキーだが、ギャングにたかられていた隣家のモン族を救ったことから、予期せぬ交流が生まれてくる。交流の中心となるのが頼りない青年のタオ(ビー・ヴァン)としっかり者のスー(アーニー・ハー)である。以前タオはいとこのギャングに脅され、コワルスキーの愛車「グラン・トリノ」を盗もうとしてコワルスキーに射殺されかけていた。モン族の隣家は、コワルスキーがギャングを追い払ってくれたことへの感謝と自動車を盗もうとしたことへの謝罪のために、タオをコワルスキーの家に手伝いに出す。最初は不器用なタオに呆れていたコワルスキーだが、タオの善良さに心を開いていき、仕事や恋愛の世話も買って出ることとなる。
 コワルスキーは英語のできる若者のタオとスーにとどまらず、英語を話さないモン族の人々とも交流を重ねていく(タオやスーよりも、言葉の通じない者同士の交流の方が興味深いと思うが割愛する)。その中で、モン族はヴェトナム戦争で米軍に味方したため、迫害を恐れて米国にやってきたいきさつを知る。
 コワルスキーと隣家の生活がそのまま平穏に流れるかと思いきや、タオが堅気の仕事を始めたことが気にくわないいとこのギャングたちが隣家に攻撃を加えてくる。忿怒したコワルスキーは単身、ギャングの家へと向かう。
 この展開はイーストウッドが演じた往年の西部劇そのままである。さらに、映画の中盤で伏線となっているシーンがある。デートをしていたスーが不良に取り囲まれているところをたまたまコワルスキーが通りかかる。ボーイフレンドは頼りにならず、コワルスキーが不良と対することとなった。老人を馬鹿にする不良たちに、コワルスキーは手で銃を撃つ真似をする。嘲笑する不良たちが油断している間に本物の拳銃を突きつける。
 ギャングの家の前に立ったコワルスキーは、銃を構えるギャングたちにまた手で銃を撃つ真似をする。そして嘲笑するギャングたちに煙草のライターを貸してくれと云う。ギャングがライターを貸すわけもなく、コワルスキーはやおら上着に手を突っ込む。西部劇や『ダーティハリー』シリーズで幾度となく観てきた仕草だ。しかし定番の早撃ちを期待していると呆気にとられることとなる。コワルスキーは何もすることなく、ギャングに射殺されてしまうのだ。彼が手にしていたのは銃ではなく、本当にライターだった。丸腰の人間を射殺した罪で、不良たちは長い年月の間、刑務所から出られないことが確定する(ミシガン州は死刑を廃止している)。こうして隣人のモン族の生活は守られることとなった。
 『グラン・トリノ』には戦争の影が潜んでいる。コワルスキーは朝鮮戦争で勲章を受け、モン族はヴェトナム戦争アメリカとともに戦った。モン族のギャングとのコワルスキーの戦いは、共産主義勢力とのアメリカの戦争のアナロジーとなっている。しかしコワルスキーは北朝鮮兵を射殺したトラウマに苦しめられていた。ギャングを一緒に殺しに行こうというタオに対し、コワルスキーはお前には人を殺す恐ろしさがわかっていないとたしなめる。無防備のまま撃たれるという決断は、孤立主義につながるものだ。これはアメリカの伝統的思考の一つであり、現在のトランプの主張にもつながる。
 映画の前半で目につく玄関前の星条旗であるが、モン族との交流が始まる中盤から姿を消す。そして死へと向かう終盤、再び掲揚されていることが確認できる。コワルスキーが再び星条旗を揚げたということが感慨深い。彼は完全な多文化主義者に変わったのではなく、あくまでも誇りあるアメリカ人として死ぬことを選んだのだ。モン族を受け入れるようになったのも、アメリカ的な精神を受け継ぎうることに気づいたからである。
 ポーランドカソリックのコワルスキーはWASPではない。古くからの友人たちもイタリア系やアイルランド系であることが示唆されている。この設定からも、コワルスキーがモン族への人種的偏見を捨てることが可能であると予期できるのだが、彼は本当に偏見を捨てきれたのか。結局コワルスキーという白人男性が英雄のまま映画は終わる。モン族は常に庇護される側であり、ギャングと戦おうとしたタオは地下室に閉じ込められてしまう。もちろん戦いをするべきではないというのがコワルスキーの考えであるが、ケリをつけるための最後の戦いにやむなくコワルスキー一人が向かうというのは、白人男性的なヒロイズムを反映しているだろう(またタオ役のビー・ヴァンはのちに、撮影現場が白人優先の雰囲気に満ちていたと語った)。
 コワルスキーの死後、息子たちが遺産相続のために集まる。しかし彼らが狙うフォード社の72年型ヴィンテージカー、グラン・トリノは、タオに託されていた。ただし遺言状には相続の条件があった。「豆食いメキシコ人のように車のルーフを切らず、クズ白人のようにペンキで車体に炎など描かぬこと。また後部にカマっぽいスポイラーなどつけぬこと。あれはクソだ。」裏を返せばアメリカの精神を受け継ぐ気の無い移民は認めないということだ。
 『グラン・トリノ』をポリティカル・コレクトネス(イーストウッドが忌み嫌っているのだが)の観点から観ると問題含みの作品である。しかしこの後味の悪さ、苦さが『グラン・トリノ』を一筋縄ではいかない映画に仕立て上げている。
グラン・トリノ (字幕版)

グラン・トリノ (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video