Дама с Рилаккумой

または私は如何にして心配するのを止めてリラックマを愛するようになったか

2014年に読んだ本ベストテン

2014年のベスト10冊。

1ジェーン・オースティン(1776〜1817、イギリス)『高慢と偏見』(富田彬訳、岩波文庫)

2内田百閒(1889〜1971)『内田百閒集成』(全24巻、ちくま文庫)

3サマセット・モーム(1874〜1965、イギリス)
『人間の絆』(行方昭夫訳、岩波文庫、全三冊)

4アントン・チェーホフ(1860〜1904、ロシア)『かもめ』(浦雅春訳、岩波文庫)

5山之口貘(1903〜1963)『山之口貘詩文集』(講談社文芸文庫)

6ヴィスワヴァ・シンボルスカ(1923〜2012、ポーランド)『シンボルスカ詩集』(つかだみちこ編・訳、土曜美術出版販売)

7セルバンテス(1547〜1616、スペイン)『ドン・キホーテ』(牛島信明訳、岩波文庫、全六冊)

8阿川弘之(1920〜)『葭の髄から』(文春文庫)

9高島俊男(1937〜)『お言葉ですが・・・』(文春文庫、連合出版、全十七冊)

10柴崎友香(1973〜)『春の庭』(文藝春秋)

 

1、2『高慢と偏見』(『自負と偏見』)『内田百閒集成』

高慢と偏見〈上〉 (岩波文庫)

高慢と偏見〈下〉 (岩波文庫)

人間の絆〈上〉 (岩波文庫)

 オースティンと百閒先生とについては、倉橋由美子が『偏愛文学館』(講談社)で食べ物に譬えている。オースティンはブリティッシュティー、百閒先生は駄菓子である。どちらもたいして栄養にはならない。
山本健吉の「世界一平凡な大作家」という言葉がオースティンの全てをあらわしている。オースティン全ての長篇のストーリーは、ほとんど同じである。19世紀初頭のイギリスの田舎町の娘たちが結婚相手を求めていろいろな男に駆け引きをし続けるが、結局、自分の知性・階級に見合った男との結婚に落ち着く、というのがそれである。しかしその平凡極まりないストーリーには、破綻のない論理性、鋭い諷刺、人間観察、ユーモアが散りばめられている。

 阿川弘之氏は志賀直哉の弟子だけあって、文章にはうるさい。阿川氏は今の乱れ果てた日本語の本ばかり読んでアタマにきたら、寝るときに、枕上の『新輯内田百閒全集』の一頁を開いて心を鎮めるのだという。
百閒先生は、漱石先生の門下生である。漱石先生が伊豆の修善寺で吐血して生死の境を彷徨っていたときに、借金のお願いに行って先生を激怒させたことでも知られる。
 初期には『冥途』『旅順入城式』のような、漱石先生の『夢十夜』の世界を拡大させた小説もあるのだが、百鬼園先生はその永い生涯のなかで、身辺雑記ばかり書き綴った。借金とりから逃げ続け、法政大の独逸語の時間に俺の独逸語は独逸人には通じないと云って悪びれない。シュークリームのクリームをいかに吸うかを探究し、国鉄の職員を連れてなんの用事もなく借金をして鉄道旅行にでる。ヨーヨーで遊んでいるときには自分の身体が上下するような不思議な感覚を覚え、愛猫ノラの失踪に号泣する。座談会でも見たいラジオ番組があるから、と中座し、藝術院会員推薦のときの辞退理由は「イヤダカラ、イヤダ」。
書いていることは他愛ないが、その磨き抜かれた文章に一度嵌まってしまうと抜け出せない。

 

3『人間の絆』

人間の絆〈上〉 (岩波文庫)


 モームは本当に純文学作家なのかと云われると答えづらい。
 モーム自身は読者を楽しませるためだけに小説は読まれるべきだと主張しており、現にモームストーリーテラーとしての才能は突出している。モームの通俗性への批判は常に存在し続け純文学ではなくただのエンターテインメント小説だとも云われる。しかし、モーム好きで知られる中野好夫の云うように、「通俗というラッキョウの皮をむいていくと、最後にはなにもなくなるのではなく、人間存在の不可解性、矛盾の塊という人間本質の問題にぶつかる」のである。
 かつての日本でのモーム熱はすさまじいものであり、1959年の来日のときに頂点に達した。しかしモームの離日とともに急速に忘れさられ、文庫も次々と絶版になった。
 わずかにモームが生き残ったのが受験英語の世界であった。モームの英語は簡明で、試験問題、読本にはちょうどよかったのである。だが受験英語の世界でもモームは科学英語にとって変わられることとなった。
そういえば、高一のときにモームの「アリとキリギリス」を試験の課題で読んでいた。童話とは違って、まじめに働いたアリ的男がひどい人生を送り、遊んでばかりのキリギリス的男の方が人望があって楽しい人生を送る、という内容であった。そのときはモームの道徳のなさ、そしてそれを試験に出す千葉高の英語科の方針に怒った記憶があるが、もちろんモームの云っていることの方が正しいのである。
 忘れさられていたモームの再評価の機運は、受験英語モームを読んだことのある世代が、受験の頃を懐かしがってモームを読み返したことによってでてきたとも云える。その一人が訳者の行方昭夫である。
『人間の絆』は読者を楽しませるためだけに書いてきたモームが唯一自分のために書いた自伝的小説である。原題はOf Human Bondageと云い、スピノザからとられている。実は『人間の絆』という伝統的な邦題は不適当であり、『人間の絆(ほだし)』『人間のしがらみ』とでもした方がよいだろう。
 主人公フィリップは幼くして両親をなくし、片脚に障碍をかかえ、寄宿舎ではいじめにあう。成績優秀ながらも、厳しい学校生活に反感を抱いて、オックスフォード大学へのエスカレーター入学を断ってドイツへ留学する。しかし自分に藝術家としての才能があるのではないかとおもって、今度はパリの美術学校に通い出す。自分の才能に絶望し、ロンドンの医学校に通いだす。ここで落ち着くのかと思いきや、魔性の女ミルドレッドが現れ、まさに泥沼としか云いようのない修羅場が延々と続く。ミルドレッドだけでも全体の半分を占める。ミルドレッドが姿を消し、遅ればせながら研修医となったフィリップが赴任先、生涯の伴侶を見つけてようやく幕が閉じる。
 フィリップはモームの分身と考えてよい。実際のモームは脚の障碍ではなく、吃音をかかえていた。そして、小説、エッセイを読んでもまったくでてこないが、同性愛者であった。当時のイギリスでは同性愛は禁忌であり、同性愛を隠すために偽装結婚までしたモームの苦労ははかりしれない。
 『人間の絆』の重要な鍵となるのはペルシャ絨毯である。そこに人生を解く鍵があると告げられたフィリップは、時々考えてみて、物語の最後に気づく。人生に意味などないのだ。ペルシャ絨毯の模様に意味がないように。目的もなく、自分の赴くままに人生という絨毯を彩っていくしかないのである。

 

4『かもめ』

かもめ (岩波文庫)


『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』と並ぶ四大戯曲の最初の作品。
『かもめ』の初演は散々であったようだ。チェーホフは戯曲の執筆はやめようと考えたようだが、モスクワ藝術座のスタニスラフスキーの演出による再演では大成功を収めた。モスクワ藝術座のシンボルは今日もかもめを象ったものである。
 チェーホフの戯曲らしく、誰が主人公なのかはっきりせず、人物の会話もなんだかちぐはぐなのだが、生の憂鬱をひしひしと感じさせられる。第四幕の最後の作家志望の青年トレープレフの拳銃自殺(しかもそれは舞台裡で行われる)に至って、どうしようもない感情に襲われる。
しかしチェーホフ自身は『かもめ』を喜劇だと云い、悲劇として演出したスタニスラフスキーに異議を唱えている。だがこの戯曲のどこが喜劇なのかはまったく分からない。喜劇としてみるにはまだ若すぎるのか。

 

5『山之口貘詩文集』

山之口貘詩文集 (講談社文芸文庫)


 貘は、郷里の沖縄では評価が高いようだが、本土ではあまり知られていない。
 貘の恋愛観は現代的である。結婚相手が見つからないことへの嘆きを綴り続けた。貘において、恋愛の不能は人間としての不能に直結している。失恋を重ね、貘は人生の落伍者としての哀しみを味わい続けた。
しかし、琉球で培ったユーモア感覚、温かさも忘れてはいない。貘は結婚後は、いい夫、いい父として振る舞ったようである。

 

6『シンボルスカ詩集』

シンボルスカ詩集 (世界現代詩文庫29)


 シンボルスカは1996年に、ポーランド人としては4人目となるノーベル文学賞を受賞した。
ナチスによる占領、社会主義体制による抑圧、「連帯」からの民主化の時代を生き抜いたシンボルスカの詩は多分に政治的である。しかしその政治的要素は簡潔で哲学的な文章によって非政治的なものとして表現されている。

 詩集以外の雑文にはまったく手を出さず、晩年には詩集もどんどん薄くなっていったシンボルスカであるが、東日本大震災のときには特別に応援メッセージを贈ってくれていたことには感動した。

 

7『ドン・キホーテ

ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)


 『ドン・キホーテ』は近代小説の祖であるとともに反近代小説の祖でもある。
 一般的には前篇の、風車に突進する場面が有名であるが、前篇よりも後篇の方が遥かに面白い。
 ドン・キホーテ前篇は、後篇はサラゴサに向かうと予告して終わる。しかしセルバンテスが後篇を執筆中に贋作のドン・キホーテが出回った。検閲の厳しかった当時のスペインで作者名を偽った著作が発行できたのは異常なことであり、しかも贋作の作者はいまだ特定されていない。贋作の作者は序言で真作の作者セルバンテスを誹謗中傷し、セルバンテスは忿怒にかられ、ドン・キホーテ後篇を上梓した。
 後篇でドン・キホーテ一行は「前篇のドン・キホーテを読みました」という読者に会う。そこで、前篇のつじつまのあわない部分についての質問があり、ドン・キホーテは作者のアラビア人シデ・ハメーテ・ベネンヘーリのミスだと弁解する。(セルバンテスはベネンヘーリの書いたドン・キホーテベルベル人スペイン語に翻訳したものを筆記しているという設定になっている)
 そしてついにドン・キホーテは偽物のドン・キホーテの存在を知る。自分たちがまだ終えていないはずの後篇の冒険がすでに出版されているというのだ。しかもドン・キホーテは騎士道精神を無視し、サンチョ・パンサは好色漢として描かれているというのだ。これに激怒したドン・キホーテは急遽、行き先を予告していたサラゴサからバルセロナに変更し、偽物に一杯食わせる。
 ドン・キホーテは偽作のドン・キホーテの印刷現場にも立ち会い、偽作がスペイン中に広まっていることに唖然とする。
 ドン・キホーテは偽作に登場する人物と接触に成功し、その人物にあれは偽物であったと証言させることに成功する。
 『ドン・キホーテ』は物語としての面白さもさることながら、読者論、パロディ、狂気の問題、言葉遊びなど様々な要素がごった混ぜになっている。

 

8『葭の髄から』

葭の髄から


文藝春秋』巻頭に永らく連載されていた随筆集。簡潔でユーモアのある文章は、平成屈指の名文と云える。

 

9『お言葉ですが・・・』

お言葉ですが… (文春文庫)


週刊文春』に永らく連載され、月刊のほうの『文藝春秋』の『葭の髄から』と呼応して日本語の堕落を糾弾し続けた。
 文藝春秋が連載を中断してからは、連合出版にうつり、別巻が六巻まででている。高島先生の眼疾が悪化しない限りはまだまだ出してくれると思う。

10『春の庭』

春の庭 (文春文庫)


 柴崎友香はとうの昔に芥川賞をとっているとおもっていた。今回の受賞は力量としては当然だろう。
都内某所のマンションとその隣の一軒家の庭をめぐるささやかな物語だが、東京という都市とそこに住む人々への愛情がこもっている。大した事件も起こさずに、淡々と日常生活だけを綴って読ませるというのは大変な技倆なのである。
 ところで柴崎さんは授賞式のスピーチで「現実は現実を意味するだけ/でもそれこそがより大きな謎」というシンボルスカの一節を引用している。さらに、日本酒を飲みながら読みたい本に百閒先生の『阿房列車』をあげていた。やはり好きな作家とは読書の好みも重なるようである。