Дама с Рилаккумой

または私は如何にして心配するのを止めてリラックマを愛するようになったか

2019年に観た洋画ベストテン

2019年に観た洋画ベストテン。

1・ジム・ジャームッシュ『ナイト・オン・ザ・プラネット』(1991、米)
2・ジム・ジャームッシュゴースト・ドッグ』(1999、米仏独日)
3・ロジェ・ヴァディムルイ・マルフェデリコ・フェリーニ世にも怪奇な物語』(1967、伊仏)
4・ウディ・アレンタロットカード殺人事件』(2006、英米
5・モルテン・ティルドゥムイミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』(2014、米)
6・ポン・ジュノ殺人の追憶』(2003、韓)
7・ビリー・ワイルダー『七年目の浮気』(1955、米)
8・ビリー・ワイルダー『昼下りの情事』(1957、米)
9・ビリー・ワイルダー異国の出来事』(1948、米)
10・ビリー・ワイルダー『熱砂の秘密』(1943、米)

1・ジム・ジャームッシュ(Jim Jarmusch, 1953-)『ナイト・オン・ザ・プラネット』(Night on Earth、1991、米)

 都会のタクシーは思わぬ接触の空間となる。社会的地位、職業、人種、家族形態、多種多様な人間が密室の中で困難を感じながらもコンタクトを取っていく。しかしながら、そしてこれがジャームッシュらしいところなのだが、目的地に着いてしまえば、運転手と乗客は永遠にまみえることはない。
 『ナイト・オン・ザ・プラネット』は、トム・ウェイツのしわがれ声に誘われて、同時刻の、地球上の五つの都市、ロサンゼルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキを巡っていく。
 最初の都市、ロサンゼルスでは、配役で揉めている映画プロデューサーが、勝気な女性ドライバー(ウィノナ・ライダー)のタクシーに乗る。初めはドライバーの態度にうんざりしていたプロデューサーだが、次第に俳優としての素質があることに気づく。だが、タクシーである以上、二人は人生でまた一緒に仕事をすることはないことが運命付けられている。
 続くニューヨークでは、英語が苦手な東独からの移民ドライバーと家庭の問題を抱える黒人乗客、パリではコートジボワールからの移民ドライバーと盲目のパリジェンヌの話となる。コミュニケーション不全の中で、幾ばくかの希望と、アイロニーをまじえる。
 しかしながら第四のローマのおしゃべりで下品なタクシードライバーロベルト・ベニーニが今までの雰囲気をぶち壊す。最後のヘルシンキでは、アキ・カウリスマキ映画の常連であったマッティ・ペンロッパーがドライバーを務める。ペンロッパーの語る凄まじい人生の悲哀で映画は締めくくられる。

2・ジム・ジャームッシュゴースト・ドッグ』(Ghost Dog: The way of the samurai、1999、米仏独日)

 RZAによるヒップホップの音楽とともに、レクサスに乗って寡黙な黒人殺し屋「ゴースト・ドッグ」(フォレスト・ウィテカー)がやってきて、獲物をサイレンサーの銃で片付ける。そして去り際に、彼のナレーションで、鍋島藩士・山本常朝による『葉隠』の英訳の一節が音読される。これだけでかっこいい。
 ゴースト・ドッグはイタリアン・マフィアの幹部ルーイに忠誠を誓っている。若かりしゴースト・ドッグが窮地に陥っていたときに助けてくれた恩であり、武士として主に尽くすのは当然の忠義なのである。
 しかしゴースト・ドッグは忠義によって、板挟みにあうこととなる。彼は、イタリアン・マフィアのボスの一人娘ルイーズに手を出したメンバーを、ルイーズに気づかれないように始末するよう依頼される。守備よく仕事を終えたものの、その部屋にはルイーズが残っており、殺人の瞬間を見られてしまっていた。ボスたちは怒り狂い、ルーイにゴースト・ドッグを始末するよう命令する。
 強面のゴースト・ドッグであるが、武士道精神に則り、自らの通信手段である伝書鳩と、公園にいる友人二人には限りなく優しい。街中でアイスクリーム屋台を営むハイチ出身の黒人はフランス語(スペイン語風の響きに聞こえる)しか話さないが、ゴースト・ドッグとはちゃんと通じあえる。そして、ゴースト・ドッグの孤独を見抜いた黒人の少女パーリーンとも心を通じ合わせるようになる。『ゴースト・ドッグ』における日本文化は明らかにずれているものだろうが、むしろそのような異文化の衝突・混淆に重点が置かれており、さらに言えば本来の日本文化との乖離度合いなどどうでもよいほどにスタイリッシュになっている。
 ところで暗殺の現場に居合わせたボスの娘はゴースト・ドッグに、ちょうど読んでいた芥川龍之介の英訳“Rashomon”を貸しており、さらにそれをゴースト・ドッグは公園の女の子におすすめして又貸ししているが、一体何の小説のことをおすすめしているのだろうか。というのも、多くの日本人が思い浮かべるであろう「羅生門」といえば、教科書に載っていた小説の「羅生門」であるが、海外でよく知られている黒澤明監督の『羅生門』のストーリーは、物語の枠組みとして小説の「羅生門」が使われてはいるものの、ほとんど「藪の中」に拠っているからである(貸した本の表紙には映画版『羅生門』の三船敏郎と今年亡くなった京マチ子の絵がある)。最後に公園の少女が本の感想としてゴースト・ドッグに語る「日本って変な国。同じ事件のことを話しているはずなのに、人によって全然話が違うんだもん」という言葉で、「藪の中」らしいとわかる。

3・ロジェ・ヴァディム(Roger Vadim、1928-2000)、ルイ・マル(Louis Malle、1932-1995)、フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini、1920-1993)『世にも怪奇な物語』(Histoires extraordinaires、1967、伊仏)

 エドガー・アラン・ポーの三短篇を映画化。ルイ・マルによる「ウィリアム・ウィルソン」以外はあまり著名な短篇ではない。ジェーン・フォンダアラン・ドロンなどの名優がポーの怪奇小説を演じている。フジテレビのオムニバスドラマ『世にも奇妙な物語』はおそらくこの映画のオマージュである。
 最後のフェリーニの「悪魔の首飾り」が図抜けて怖い。ヴァディムとマルが昔を舞台にしていたのに対し、フェリーニはポーの原作を現代ローマにアダプテーションしている。それなのに最も幻想的なのはフェリーニである。
 イギリスのシェイクスピア役者トビー・ダミット(テレンス・マリック)は、アルコール中毒によって落ち目となっていた。そこに、フェラーリを報酬に、イタリアから映画出演のオファーが来る。ローマの空港で、彼はパパラッチ(フェリーニの『甘い生活』に由来する言葉)に囲まれるが、そこで白い鞠を持った少女を幻視する。退屈な取材、映画関係者パーティーの後、目当てのフェラーリを受け取るや、彼は漆黒のローマ市内をあてどなく爆走する……。実際に怖いのはほんの2、3シーンなのに、そのシーンの恐怖を倍長させるため、魔術的な映像が周到に用意されている。

4・ウディ・アレン(Woody Allen、1935)『タロットカード殺人事件』(Scoop、2006、英米

 イギリス滞在中のジャーナリスト志望の学生(スカーレット・ヨハンソン)は、ユダヤアメリカ人の手品師ウォーターマンウディ・アレン)のステージで、箱に入れられるが、その中で、最近死んだ著名ジャーナリストの亡霊に遭い、連続殺人事件の犯人のヒントを教えられる。手品師と協力して捜査を進めていくが、その過程で富豪の男(ヒュー・ジャックマン)と親しくなる。
 オカルト、マジック、犯罪、死、恋愛、ユダヤ人の自虐ネタといったウディ・アレンのお得意要素が詰め込まれている。イギリスの道路が左側通行であることをこれほど上質のギャグにできるのは、ウディ・アレンしかいないだろう。

5・モルテン・ティルドゥム(Morten Tyldum、1967-)『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』(The Imitation Game、2014、米)
 
 イギリスの数学者アラン・チューリングは、コンピュータ科学とともに、人工知能研究の先鞭をつけた。映画では第二次世界大戦中にドイツ軍の暗号機エニグマの解読任務に関して取り上げられている。しかしこの映画で露呈するのは、英国の栄光ではなく恥辱の近代史である。
イミテーション・ゲーム」の題名はチューリング・テストにちなむ。ブラックボックスを使って通常言語で会話した際に、判定者が中の会話者を人間か機械か区別できなかった場合に、機械はこの人工知能のテストに合格したとみなされる。チューリング・テストの考案者であるチューリングも、周りの人間とのコミュニケーション、当時のイギリスの厳しい社会規律に支障に悩み、周りの人間を模倣して生きてきた。
 映画の最後、チューリングがその功績を称えられて2013年にエリザベス女王により恩赦となったことが語られる。逆に言うと、チューリングのように特別な才能のなかった同性愛者達は、いまだに英国で名誉回復されていないということでもある。

6・ポン・ジュノ(1969-、Bong Joon-Ho)『殺人の追憶』(살인의 추억、2003、韓)
 
 真犯人は必ずどこかにいるし、おそらく同じこの映画を観ているに違いないというメッセージが込められていることに気づくと慄然とする。
 80年代の韓国で起こった未解決の連続女性殺人事件を題材にして、翻弄される刑事二人の苦悩を描く。ただ捜査が滅茶苦茶で、平気で拷問や証拠の捏造をするし、虚偽の自白で片付けようともする。ソウルから派遣された若い刑事がそれを窘め科学的な捜査を導入するが、解決の寸前で何度も捜査が後退するにつれて狂い始める。
 映画中で最も疑わしいのが、工場に勤める青年であるが、これまでの荒々しい男たちとは全く似つかわしくない美青年である。初登場のシーンでは、工場の控室で、黙々と本を読んでいる。もしかしたら真犯人ではなく、軍事政権時代の粗暴な韓国社会で抑圧されてきた無辜の犠牲者なのかもしれない。
 2019年になって、別の事件で服役中の男がDNA鑑定により犯人であると特定されたが、時効が成立している。

7・ビリー・ワイルダー(Billy Wilder, 1906-2002)『七年目の浮気』(The Seven Year Itch、1955、米)
 
 地下鉄の通気口でマリリン・モンローのスカートが捲れ上がっているシーンが有名になりすぎているが、本当の『七年目の浮気』の醍醐味は、室内の会話劇の妙にある。
 妻子がバカンスに向かった後、マンハッタンに残った紳士たちは束の間の浮気を楽しむ。しかし実直な出版社社員リチャード・シャーマン氏は、そのような浮気には禁慾を貫こうとする。しかし上階に短期間住み込見中の美女(マリリン・モンロー)と仲良くなってしまう。
 浮気の話となると、どうしてもしこりを残してしまいそうだが、なんの嫌味もないコメディとしてまとめられているのは、さすがワイルダーの職人芸である。
 

8・ビリー・ワイルダー『昼下りの情事』(Love in the Afternoon、1957、米)

 こちらも浮気の話なのに、爽快な映画となっている。
 パリでチェロを学ぶアリアーヌ(オードリー・ヘップバーン)は、私立探偵の父の事件簿を覗き見するのを楽しんでいる。浮気調査で父が撮った証拠写真に映った浮気相手のアメリカ人富豪フラナガン氏(ゲーリー・クーパー)に惚れる。しかし依頼主である寝取られ夫が今夜二人を射殺しにいくと言ったのが気になり、現場に向かい、機転を利かして二人を守る。その後、フラナガン氏からデートに誘われるようになる。
 映画の冒頭、「パリは愛の街……」とナレーションが入り、色々なカップルのキスシーンが挿入されているが、その中で、兵士の男二人がキスするシーンが入っている。何気なく入っているこのシーンからも、男女のラブコメディの名手ビリー・ワイルダーが、クィアなものにも目配りしていたことが窺える。
 

9・ビリー・ワイルダー異国の出来事』(A Foreign Affair、1948、米)

 邦題だとわかりづらいが、affairは多義的な意味がある。出来事のことでもあり、外交的な事件でもあり、男女のことでもある。
 アイオワ州選出の女性上院議員フィービーは、米軍統治下のベルリンを視察するが、米軍兵士の風紀の紊れに眉を顰める。そこに、ナイトバーで歌うエリカ(マレーネ・ディートリッヒ)が、ナチス高官の愛人であったとの情報が入る。しかし米軍内に彼女と親しくなった男がいるために手を出せないのだという。
 マレーネ・ディートリッヒの妖艶さとともに、敗戦国の惨めさというものも感じさせられる。
 

10・ビリー・ワイルダー『熱砂の秘密』(Five Graves to Cairo、1943)

 戦時中に取られた反ナチ映画である。キーパーソンは北アフリカ戦線で連合国軍を苦しめ続けた「砂漠の狐ロンメル将軍(1891-1944)である。連合国軍からも騎士道精神を称賛され、国防軍に所属しながら、ナチスの政策には批判的であり、ヒトラー暗殺計画に関与したとして自殺に追い込まれる。第二次世界大戦で責められてばかりのドイツ人が唯一誇れる軍人として、虚実が混じる英雄譚が多いこのロンメル将軍のエピソードに関しては、篠田航一『ナチスの財宝』(講談社現代新書)に詳しい。『熱砂の秘密』では映画監督にして怪優、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムロンメルを演じる。
 独軍の猛追により砂漠を敗走するイギリス軍の一人のブランブル伍長は、アラブ人とフランス人のいるホテルへと逃げる。そこにドイツ軍が泊まりにきて、空襲で死んだボーイのふりをして難を逃れようとする。しかし死んだボーイはナチスのスパイであり、ブランブル伍長は偶然にもナチスの秘密情報に近づくことができる。そこにロンメル将軍もホテルに滞在することとなり……。映画の公開と同時並行で、ロンメル北アフリカ戦線で苦しめられてきたから、大団円という訳にはいかない。

2019年に観た邦画ベストテン

2019年に観た邦画ベストテン。

 

1・野村芳太郎砂の器』(1974)

2・森田芳光家族ゲーム』(1983)

3・黒沢清『地獄の警備員』(1992)

4・黒沢清『予兆 散歩する侵略者 劇場版』(2017)

5・黒沢清『もだえ苦しむ活字中毒者 地獄の味噌蔵』(1990)

6・黒沢清『旅のおわり世界のはじまり』(2019、日・ウズベキスタンカタール)

7・野村芳太郎震える舌』(1980)

8・森田芳光『39  刑法第三十九条』(1999)

9・森田芳光『黒い家』(1999)

10・森田芳光模倣犯』(2002)

 

 

1・野村芳太郎(1919-2005)『砂の器』(1974)

 

 『砂の器』は幾度となく映像化されてきたが、1974年制作の本作を超えるものは永遠に現れることはないだろう。それは構成の素晴らしさのせいでもあるし、時代の移ろいのせいでもあるし、後続の映像作品が差別問題を避け続けているせいでもある。

 後半があまりにも有名であるが、二人の刑事(丹波哲郎森田健作)の捜査を描く前半も見事である。旅をするかのようにゆったりとした、しかしながら同時に執念深い二人が、全く手がかりのないなか徐々に確信に近づいていく全国捜査の過程が、対照的に後半の別の二人の道行を引き立てている。この二部構成は後続の作品でも踏襲されており、橋本忍山田洋次の脚本のうまさに唸る。

 冒頭で、秋田県羽越本線羽後亀田駅の駅舎が映ることからも、本作が旅と鉄道の映画であることが分かる。東京から出張してきた刑事二人が捜査しているのは、東京の国鉄蒲田駅線路内での殺人事件である。撲殺死体の身元は不明で、唯一の手がかりは、事件前に居酒屋で被害者が被疑者と思しき男に語った、東北訛りの「カメダ」という言葉だけであった。

 案の定、羽後亀田駅近辺で聞き込みを行うもめぼしい成果は出ない。それでも捜査は羽後亀田駅蒲田駅から、紀勢本線中央本線木次線へと広がっていく。徐々に被害者(緒形拳)の身元と、あまりにも善良な人柄が明らかになっていく。そして、その合間合間に、一斉を風靡する天才作曲家・和賀英良(加藤剛)の影がちらつく。

 映画の後半は、推理と言語、論理に溢れた前半から一変する。音楽監督芥川也寸志の協力によって菅野光亮が作曲した「宿命」の旋律とともに、父と子の悲劇が展開される。ほとんど台詞が語られることはないが、その間隙を埋めるための知識は、実は前半で周到に準備されている。あとはただ、偏見に晒されていた宿痾に犯された父親(加藤嘉)の窶れた顔の痛々しさと社会を憎み尽くすような子(春田和秀)の眼光の鋭さ、差別の醜さと対照的にあまりにも美しい日本列島の四季に圧倒されるだけである。

 

2・森田芳光(1950-2011)『家族ゲーム』(1983)

 

 『砂の器』が極限状態における家族関係の普遍性を示唆したのに対し、『家族ゲーム』は日常生活における家族関係の異常さを描いている。

 高校受験を控えた中三の沼田茂之(宮川一朗太)の家庭は、茂之の成績の悪さでイライラしている。何人もの家庭教師が辞めていったが、今で言う「Fラン大学」の7年生、吉本(松田優作)が家庭教師としてやってくる。

 この映画の代名詞ともなっている、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を思わせる食卓に代表されるように、家族の不穏さを抉り出すシュールな演出が上手い。

 目玉焼きの食べ方にこだわりがある父の伊丹十三、おかずを一度ご飯の上にのせてから食べる母の由紀さおりも変だが、やはり家庭教師役の松田優作のシュールさが際立つ。松田優作(1949-1989)といえば真っ先に、70年代のドラマ『探偵物語』や『太陽に吠えろ!』における長髪でワイルドなイメージが思い浮かぶが、演技志向を強めた80年代以降の優作は短髪となり、かなり印象が違う。『家族ゲーム』における優作も、暴力教師だがどこか飄々として捉え所がない。

 優作の遺作となったリドリー・スコット監督の『ブラック・レイン』(1989、米)は、アクション映画ながら陰鬱さが目立つ。雨が降り暗鬱な大阪のミナミは、同じスコット監督の『ブレードランナー』(1982、米・香港)を思わせ、製鉄所(新日本製鐵(現・日本製鉄)堺製鉄所)の内外でデコトラが爆走し大量の作業員達が自転車で並走する追跡シーンはジョージ・ミラー監督の『マッドマックス』シリーズを思わせる。この遺作の中で、優作は日米の間で暴走するヤクザを演じ、その兇暴さと空虚さとで共演の高倉健若山富三郎を完全に食っている。

 

3・黒沢清(1955-)『地獄の警備員』(1992)

 

 松重豊の映画デビュー作だが、およそ188cmの松重の巨軀をこれほど恐ろしく活かした作品はない。

 元学芸員の成島秋子(久野真紀子)は、曙商事の美術売買部門に採用される。しかしそこは不採算部門であり他の部署からは冷淡に扱われ、上司の大杉漣のセクハラにもあう。そこに、殺人事件を犯したものの精神障碍を理由に不起訴となった元力士の富士丸(松重豊)が警備員として採用される。

 富士丸はナチスを思わせる外套を着て、停電の中、絵画取引部門の部屋に飾られた、ゴヤの『我が子を喰らうサトゥルヌス』と向かい合う。会社という異様な閉鎖空間の中で追い詰められるホラーにして、無駄に高い芸術性が光る。

 

 

4・黒沢清『予兆 散歩する侵略者 劇場版』(2017、WOWOW)

 

 『地獄の警備員』の松重豊の系譜に連なるのが、『予兆 散歩する侵略者 劇場版』の東出昌大である。

 友人が自分の父親のことを幽霊だと言い出したことを心配した夏帆は、夫(染谷翔太)の務める病院の精神内科に連れていくが、そこで異様な雰囲気の新任の医師の真壁(東出昌大)に出会う。友人は家族という概念が喪失していることがわかったが原因がわからない。そんな中、真壁が地球を侵略しにきたと夫を脅迫していることに気づく。

 『散歩する侵略者』の原作は前川知大による戯曲であるが、黒沢はこの戯曲を二度映像化している。長澤まさみ松田龍平(優作の息子)版の『散歩する侵略者』(2017)の方は、シュールなホラー(『ドッペルゲンガー』『トウキョウソナタ』など)の系列にあるが、夏帆・染谷翔太・東出昌大版の『予兆 散歩する侵略者 劇場版』の方は、本格的な怖さ(『地獄の警備員』『CURE』『回路』『クリーピー 偽りの隣人』など)を追窮している。同じ戯曲をもとに黒沢の二つの演出を味わえる。

 

5・黒沢清『もだえ苦しむ活字中毒者 地獄の味噌蔵』(1990、関西テレビ)

 

 黒沢清フィルモグラフィーを辿っていくと、常連俳優が案外多いことに気付かされる。

 初期作品の洞口依子Vシネマ時代の哀川翔をはじめとして、役所広司諏訪太朗香川照之などを好んで登場させてきた。最近だともちろん前田敦子となる。

 主役級ではないものの、大杉漣はほとんどの黒沢作品に顔を出している。大杉漣は、北野武ソナチネ』(1993)で有名となったとされているが、それ以前から演劇や(ピンク)映画に多数出演しており、玄人筋からの評価は高かった。

 最後の黒沢作品は、急死の半年前に出演した『予兆 散歩する侵略者』であるが、初めての出演作品『もだえ苦しむ活字中毒者 地獄の味噌蔵』では主役として怪演している。

 作家志望の大杉漣は自著『評論・呪いの藁人形』を、活字中毒者である出版社の編輯者(諏訪太朗)に送りつけ続けるがにべもない。怒り狂った大杉は、地方の味噌蔵に明治時代の雑誌が残されているという手紙で編輯者を呼びよせて、そこに監禁する。

 しばしば大杉の独白が挿入されているが、これが全く抑揚のない、文節を無視した早口の棒読みである。『評論・呪いの藁人形』においても、一切句読点がないということと併せて考えるならば、言語を基盤にした、分節化可能な理性というものに対する脱構築と捉えられるだろうか。ところでかくのごとき一見無茶苦茶な棒読みであっても、どんな内容なのかはしっかりわかるようになっているから、大杉漣の演技の卓越さが窺える。

 「活字中毒」という言葉は原作者の椎名誠が広めたと言われている。読書が趣味というだけならまだ軽症である。外出時には本が読み終わるのが怖くて十何冊もカバンに詰めていき、食べ物の包装の成分表示の文字も読み始めてしまうようになったらもはや治癒の見込みはない。このような活字中毒者が、活字のない味噌蔵に監禁されるとは、想像するだに恐ろしい!

 

6・黒沢清『旅のおわり世界のはじまり』(2019、日・ウズベキスタンカタール)

 

 最近の黒沢清前田敦子は欠かせない。前田は『Seventh Code』(2014)において、東京で出会った男(鈴木亮平)を追って極東ロシアのウラジオストクにやってきた謎の女として主演した。『Seventh Code』は、アンドレイ・タルコフスキーの『ストーカー』(1979、ソ連)の「ゾーン」を思わせるウラジオストクを舞台としていたが、『旅のおわり世界のはじまり』では、旧ソ連構成国であった中央アジアウズベキスタンを舞台にしている。

 テレビレポーター役の前田敦子は、番組の企画でウズベキスタンの湖の幻の怪魚を追うが、一向に見つかる気配はない。計画通りに進まないウズベキスタンのロケにスタッフは苛立ち、前田は焦燥の中、ウズベキスタンの街を彷徨い歩く。

 全篇を通して、前田敦子が文字通り迷子になっているが、前田の変化において、ナヴォイ劇場が重要な役割を担っている。ナヴォイ劇場は、シベリア抑留中の日本人によって建設され、その仕事ぶりで現地の人々を驚嘆させたということで知られるようになったが、黒沢清しかやらないような予想外の演出をしている。

 ところで、この映画のタイトルといい、舞台といい、内容から、満洲の砂漠的環境で育ち、そこで敗戦を迎えた安部公房の第一作、『終りし道の標べに』(講談社文芸文庫)の初版の冒頭に掲げられた言葉を想起させないだろうか。「終った所から始めた旅に、終りはない。墓の中の誕生のことを語らねばならぬ。何故に人間はかく在らねばならぬのか?」黒沢清がこの文章を参照していたとは思えないが、このような根なし草的な思考は通底しているであろう。現に、映画のなかで、ウズベキスタンのテレビから不意に映し出された日本の映像は怖かった。ウズベキスタン前田敦子だけではなく、こちらこそ迷子になっているのではないかと、逆転させられた感じがあった。

 

7・野村芳太郎震える舌』(1980)

 

 人類は決して病気からは逃れられない。『震える舌』は病気の恐怖を容赦なくみせつける。

 渡瀬恒彦ら夫婦の娘が泥地で遊んだことにより、破傷風となり、全ての刺激を遮断した暗室に閉じ込められる。当時死亡率の高かった破傷風との過酷な闘いが始まる。

 こちらもノイローゼにさせるかのような恐ろしい演出が執拗であるが、それによって家族の愛も滲み出ている。

 

8・森田芳光『39  刑法第三十九条』(1999)

 

 刑法第39条は心身喪失者の犯罪を処罰の対象としないと規定している。

 夫婦殺人事件の容疑者として劇団員の柴田(堤真一)が逮捕される。しかし柴田は取り調べ・裁判中に多重人格を思わせる奇行を繰り返し、国選弁護士(樹木希林)が刑法第39条を理由に精神鑑定を依頼する。精神鑑定人となった教授は犯行当時柴田に責任能力がなかったと診断するも、助手の小川香深(カフカ鈴木京香)は疑問を抱き、独自に調査を開始する。

 被告人の柴田よりも、周りの人間の方が精神を病んでいるようにみせてくる演出となっている。特に始終思い悩む香深と、不敵な笑みでガムを噛みながら、彼女とともに調査する刑事の岸部一徳が妙である。

 

9・森田芳光『黒い家』(1999)

 

 不穏さは森田芳光の十八番である。生命保険の金沢支店で販売員を務める若槻(内野聖陽)は、加入者の家で、少年の首吊りの「第一発見者」となる。死亡保険の審査が長引き、若槻はその父親にしつこく付き纏われる。調査するうちに、そこの夫婦(西村雅彦、大竹しのぶ)は保険詐欺の常習犯らしいことがわかる。

 夫妻のプロファイリングにおいて、最近になって急速に日本語の中に普及した「サイコパス」という言葉がキーワードとして出てくることに、森田芳光の先見の明を感じる。だが妻の大竹しのぶが、サイコパスという言葉では収まりきらないほどの恐怖を与えてくる。

 原作は貴志祐介の小説(角川ホラー文庫)。刊行直後に発生した和歌山毒カレー事件の際にも話題になった。

 

10・森田芳光模倣犯』(2002)

 

 森田芳光は作品の出来不出来が激しいとはよく言われるし、実際にそうである。『模倣犯』も、興行収入的には成功したものの、原作者の宮部みゆきが激怒して試写会を中座したように、人物造詣が見事であった原作小説を愚弄したと批判される。特に結末のひどさは語り種となっている。とはいえ、今日から見れば『模倣犯』の映画は映画なりに興味深い。

 森田はインターネットに早くから関心を抱いていた。パソコン通信で繋がる男女の恋愛を描いたハートフルな『(ハル)』(1996)が高く評価されているが、逆に『模倣犯』はネット社会の俗悪さをうまく表現している。90年代以降の日本のネット社会の実情は、『(ハル)』よりも『模倣犯』の予見の方が近かったのではないだろうか。

 連続女性誘拐殺人事件が世間を賑わす中、ピースと名乗る犯人(中居正広)がテレビのワイドショーを舞台に愉快犯的行動を繰り返し、不明者の父親(山崎努)が翻弄されながらもそれに立ち向かう。しかし映画の主役は、これら俳優ではなく、氾濫するメディアと視聴者、顔なきネットユーザー達の言葉の海にある。渋谷のスクランブル交差点の大画面でワイドショーが映され、草創期のYahoo!  JAPANの掲示板では、独特なハンドルネームを持ったネットユーザーたちの無責任だが個性的な意見が飛び交う。

 映画の途中、犯人の要求で、ワイドショーで犯行の実行中継が流される。その映像がスクランブル交差点に写し出され、通行人らが釘付けとなる。そして山中で車を運転している爆笑問題の二人が同じ映像をガラケーワンセグで見ている。テレビタレントを無意味に起用したとしてしばしば批判されるシーンではあるが、覗き見的なネットユーザーの俗悪さというものがうまく滲み出ている場面であると思う。また、森田芳光特有の、意味不明な不穏なカットが何回かサブリミナル効果のように挿入され、異様に心に残る。

 映画版『模倣犯』は、確かに物語としては破綻しているが、その感覚はインターネットのアングラさを確実に捉えていたと評価すべきである。そう考えると、中居正広のあの無茶苦茶な最期も、現代に氾濫するクソコラを先取りしたものということになるのだろうか……。

 

 

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2015年に観た映画ベストテン

洋画篇

 

1・ビクトル・エリセミツバチのささやき

2・ビクトル・エリセ『エル・スール』

3・スタンリー・キューブリック博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』

4・テオ・アンゲロプロス旅芸人の記録

5・テオ・アンゲロプロスユリシーズの瞳

6・アンドレイ・タルコフスキーサクリファイス

7・ルイス・ブニュエル『ナサリン

8・ルキノ・ヴィスコンティ『家族の肖像』

9・イングマール・ベルイマン『処女の泉』

10・フセヴォロド・プドフキン『アジアの嵐』

 

邦画

1・黒澤明七人の侍

1・黒澤明『用心棒』

1・黒澤明椿三十郎

1・黒澤明隠し砦の三悪人

1・黒澤明『天国と地獄』

1・黒澤明『赤ひげ』

1・黒澤明蜘蛛巣城

1・黒澤明姿三四郎

1・黒澤明『野良犬』

1・黒澤明『乱』

 

 

 

岩波文庫にはいった三島由紀夫と深作欣二(2018/9-2019/6の日記)

2018/09-2019/06


 とうとう岩波文庫三島由紀夫が収録される時代となった。
 三島由紀夫は新潮社との関わりが深く、代表作の圧倒的多数は新潮文庫に収録されている。一方で他の文庫レーベルにおいても、文春文庫の『若きサムライのために』、角川文庫の『不道徳教育講座』、河出文庫の『英霊の聲 オリジナル版』、そしてちくま文庫の『命売ります』などがある(『命売ります』は2015年に突然ベストセラーとなった)。ややマイナーながら、それぞれの文庫のカラーを反映した独特なセレクションとなっている。すると、もし岩波文庫ならば、いかな三島作品を入れてくるのかと気になるところであったが、収録されるとしても当分先のことだろうと思われた(政治的なスタンスも考慮に入れるならなおさら)。しかし遂に岩波文庫三島由紀夫が読めるようになった。
 2018年から『三島由紀夫紀行文集 』を皮切りとして『若人よ蘇れ・黒蜥蜴 他一篇

三島由紀夫スポーツ論集

』の三冊が刊行された。いずれも近畿大学文芸学部の佐藤秀明の編纂・解説であり、三島由紀夫の逆説を駆使した批評的鋭利、異常な論理性で充溢する美文の魅力を存分に味わえる。

 

 先ず『三島由紀夫紀行文集』は従来あまり注目されてこなかった紀行文作家としての才能を発見させてくれる。三島は1951年から52年にかけて朝日新聞社の社費で世界旅行をした。「アポロの杯」はその際のアメリカ、南米、ヨーロッパの記録である。アテネにおける古代ギリシアとの出会いは、のちの三島文学の方向性を決定づけた出来事としてあまりにも有名であるが、ニューヨークとリオ・デ・ジャネイロでの印象記も面白い。ニューヨークでは都会的な洒脱さへのアフィニティーを表明し、リオ・デ・ジャネイロではカーニバルに熱狂する(他のエッセイではリオ・デ・ジャネイロに住むのだったら私もヒゲを生やしてみようか、とも書いている)。ちなみにパリに関しては、有り金を全部取られたのをよほど根に持っているのか、罵詈雑言を並べている。
 二冊目の『若人よ蘇れ・黒蜥蜴 他一篇』は三島の劇作家としての才能を再認識させてくれる。軍需工場で働く大学生たちの敗戦前後を描く「若人よ蘇れ」、江戸川乱歩原作で、緻密ながらも毒々しいレトリックが駆使される「黒蜥蜴」、そして左翼過激派と対峙する公安警察を題材にした異色作「喜びの琴」の三篇からなる。
 いわく付きの作品「喜びの琴」は、ひと昔前の岩波だったら絶対に入っていなかっただろう、と同時にどの文庫に収まっているのが似つかわしいかと言われれば、新潮というよりはやはり岩波やちくまだと思うが(ちくま文庫にはすでに収録されている)。「喜びの琴」は1964年に文学座で初演されるはずであったが、所属俳優たちの抗議により上演が中止された。三島は「文学座の諸君への『公開状』 『喜びの琴』の上演拒否について」を朝日新聞に寄稿し、芸術的な理由ではなく政治的な理由で上演中止することは芸術に携わる者として怯懦な姿勢であると罵倒に近い言葉を並べ、事態が紛糾した。
「喜びの琴」は、言論統制法の審議が進む近未来において、左翼政党から分離した過激派の鉄道テロ計画を察知した公安警察の顚末を描く。左翼政党は明らかに日本共産党がモデルであり、鉄道テロも松川事件をモデルにしていると思われる。上演直前に松川事件で起訴された国鉄東芝労働組合員全員の無罪が確定していたこともこの戯曲に対する劇団員の反撥をいやましたであろう。公安警察が左翼に対して露骨な偏見を抱きながら捜査を強行し、保守政界や右翼との結託もちらつくというなかなか際どい設定であるが、揺れ動く思想と状況の中で葛藤する巡査・片桐の心理描写が素晴らしい。
 そしてなにより三冊目の『三島由紀夫スポーツ論集』が三島由紀夫の意外な親しみやすさ・現代性と理解・解釈の難しさとを同時に、スポーツという一つの線で見事に伝えてくれるコレクションとなっている。
 三島由紀夫としばしば対比される文学者に太宰治がいる。三島は『斜陽』で流行作家となった太宰に対面した際に「あなたの文学が嫌いです」と言い放ち、場を凍りつかせた(後年言いすぎたと反省してもいるが)。「小説家の休暇」(新潮文庫収録)において三島は太宰文学の欠陥を指摘する。「太宰のもっていた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治されるはずだった。生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。」この言の通り、三島はスポーツによって自らの文学に強靭さを与えることを試みてきた。
 とはいうものの、太宰に出会った頃の三島もまた快活な生活を送っていたとは言いがたい。祖母の溺愛のもと育った三島は貧弱な体つきであり、軍医の誤診のために出兵することもなかった。まともな運動経験は軽い乗馬しかなく、それでも息切れるほどであった。しかし30代を控え、身体を鍛えることを決意し、ボディビルに打ち込むこととなる。そして、ボクシング、剣道、空手などに手を出していく。子供の頃のスポーツ嫌いを克服して、中年に至ってスポーツに熱中したという非常に珍しいタイプなのである。このことは石原慎太郎と対比するとわかりやすいだろう。若い頃からサッカー、ヨットに打ち込んできたスポーツマンである石原慎太郎は、三島の筋肉を使えない筋肉と馬鹿にしている(『三島由紀夫日蝕』)。
「ボディ・ビル哲学」は三島のスポーツ観を愉快に表現している。「もともと肉体的劣等感を払拭するためにはじめた運動であるが、薄紙を剥ぐようにこの劣等感は治って、今では全快に近い。(…)こういう劣等感を三十年も背負って来たことが何の利益があったかと考えると、まことにバカバカしい。(/)三十年の劣等感が一年で治るのであるから、私が信者になったとて無理はあるまい。(…)ボディ・ビルをバカにしながら自分の痩軀にヒケ目を感じている人はどれほど多いか、想像の外である。(…)だまされたと思ってボディ・ビルをやってごらんなさい。」
 ところで自己啓発や筋トレに興味のある人ならば、この「ボディ・ビル哲学」からある方を想起しないだろうか。『筋トレが最強のソリューションである マッチョ社長が教える究極の悩み解決法』(ユーキャン)のTestosteron社長とほぼ同じ主張なのである。三島は現代日本における肉体改造による自己啓発コンサルタントのはしりとも言えよう。それだけではない。「実感的スポーツ論」においては、学校体育とプロのアスリート以外にも一般人がスポーツに親しめる社会づくりを提言している。つまり現在の文部科学省が推進している生涯スポーツ政策の理論的先駆者でもあるのだ。
 このようにスポーツ理論がしっかりしているだけあって、実際の東京五輪やボクシングの観戦記は、ルールも選手の名前もわからないというのに、ぐいぐい読ませる。三島の美文とスポーツの魅力との幸福な邂逅である。
 しかしながら、『三島由紀夫スポーツ論集』の後半を占める「太陽と鉄」で様相は一変する。「太陽と鉄」は非常にロジックが難解で(いや破綻しているというべきか)一筋縄ではいかない評論なのだが、これまでのスポーツ批評にはほとんど存在しなかった死の影を感じさせる。三島はスポーツによって生の充溢を目指していたのだが、いつの間にかそれは死の希求へと転移しているのである。
 肉体と精神との合一の話は自衛隊体験入隊へと発展する。そして航空自衛隊の戦闘機F104に搭乗し、天空で音速を突破した際の愉楽を綴って締められる。この「太陽と鉄」の延長線上に、70年の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地における割腹自殺がある筈なのだが、その繋がりは容易には理解できない。三島文学は今尚厖大なテーマと謎にみちている。

 


 三島由紀夫岩波文庫に入るかもしれないというのはある程度予想できたことではあった。しかし、誰が決めたのかはわからないが、深作欣二の映画が岩波文庫の表紙に使われたのには驚いた。『若人よ蘇れ・黒蜥蜴 他一篇』の表紙は、深作欣二監督の映画『黒蜥蜴

』(1968)における、丸山明宏(現在の美輪明宏)と三島由紀夫のツーショットである。
 三島は、自身の原作・脚本・監督による『憂国』(1966)では、二・二六事件のさなか切腹する陸軍中尉を演じ、自らの原作ではないのに増村保造監督の『からっ風野郎』(1960)でもやくざ役で主演を務めている。もはや悪ノリであるが、映画にも積極的であったことが伺える。
 深作映画の『黒蜥蜴』において、三島は特別出演程度であるが、強烈な印象を残す。
 『黒蜥蜴』は、少年探偵団が結成される前の名探偵・明智小五郎木村功)と、美しいものを狙い続ける女賊・黒蜥蜴との対決を描く。二人は敵でありながら、お互いに惹かれあっていく。この黒蜥蜴を丸山明宏が演じることによって、ジェンダーの混淆が生じている(舞台でも美輪明宏の当たり役となる)。黒蜥蜴に限らず、戯曲全体において江戸川乱歩の原作以上に既成概念の転倒が強調されている。
 映画の終盤になって一瞬だけ三島が姿を見せる。黒蜥蜴に捕らえられた少女・早苗たちは、黒蜥蜴の展示室に誘われる。そこで黒蜥蜴は、一体の人形を見せる。それはボディ・ビルで鍛え上げられた肉体を見せつけながらも、苦悶の表情を浮かべている三島由紀夫であった。
「鋼鉄のような腕の筋肉、素敵な胸毛……どう? よく出来たお人形でしょ? でも少し、出来すぎていやしないかね? この人の身体には、産毛まで生えているわ……産毛の生えた人形なんて聞いたこともないわね? このお人形はね……」回想シーンで、三島が乱闘で刺し殺され、剥製として飾られるに至ったことが明かされ、そして丸山明宏が三島の剥製に接吻をする!
 『黒蜥蜴』は日本国内でDVD化されていないので、視聴は難しくなってしまっている。『黒蜥蜴』に限らず、1960年代の深作映画は現在あまり顧みられることがない。深作欣二は70年代以降の『仁義なき戦い』シリーズ等の実録やくざ映画で記憶されており、(さらに不幸なことに)実質的な遺作の『バトル・ロワイヤル』(2000)が少年犯罪を助長するとして一部から批判され、教育上よろしくない暴力映画監督の枠に押しとどめられてしまった嫌いがある。
 しかしながら、深作が駆け出しの監督であった1960年代には、バラエティに富んだ作品を数多く発表している。社会派、探偵物、スペース・オペラ、ギャング映画、『仁義なき戦い』シリーズで自ら葬りさることとなる任侠やくざもの等である。千葉真一菅原文太田中邦衛などののちの常連俳優だけでなく、鶴田浩二丹波哲郎高倉健など深作映画では珍しい俳優も数多く出演している。
 深作は東映入社後、下積みを重ね、1961年から初監督作『風来坊探偵 赤い谷の惨劇

』で映画初主演を務めた千葉真一と共に、風来坊シリーズを手掛けていく。この時点ですでに、深作に特徴的なスピーディなカメラワークがほぼ完成されており、当時流行りのスウィング・ジャズで軽快に物語が進んでいく。
 続く『白昼の無頼漢

』(1961)、『誇り高き挑戦

』(1962)は社会派である。『白昼の無頼漢』の主人公、鶴田浩二は占領軍統治下で、GHQ汚職を追窮したために大手紙を追放され、今は業界紙「鉄鋼新報」の記者を務めている。そんな中、とある企業が東南アジアに武器を密輸していることを嗅ぎつけるが、容赦ない妨害が入る。あまりにも理不尽な戦後社会の闇に対峙する鶴田浩二の黒々としたサングラスと敵役の丹波哲郎のニヒルさが印象的である。
 60年代後半からは、深作は東映の十八番である任侠やくざ映画を手がけるようになる。70年代以降の『仁義なき戦い』のアナーキズムとは違い、義理と人情を大事にする主人公が、上や敵からの理不尽な要求に耐え続け、最後になってその怒りを爆発させるという基本的文法を踏襲している。しかしながら、社会の安定に伴い、警察による暴力団取り締まりが強化され、かつてのヤクザ稼業が衰退していることも示唆されている。
日本暴力団 組長』(1969)の最後においても、ライバル役の暴力団右翼団体に鞍替えする。その結成記念として、神社の境内で組員たちが君が代を斉唱する。そこに、抗争の中で裏切られ全てを失った鶴田浩二が斬り込みにくる。
 ところで、この右翼団体世話人をしている黒幕の右翼政治家を佐々木孝丸が演じており、(記憶が曖昧だが確か)この会場にも参列して君が代を歌っていたはずである。このことは妙な感慨を覚えさせる。佐々木孝丸といえば、黒澤明の『蜘蛛巣城』(1957)で三船敏郎に弑逆される城主を演じていたことで最も知られている。その一方で、戦前は左翼演劇で活動しており、世界的な社会主義労働歌「インターナショナル」の日本語訳詞者でもあるのだ(佐野硯との共訳)。しかし戦後はうってかわって、やくざ映画における大物右翼役を数多く演じて大当たりする。日本映画史の深淵には、『蜘蛛巣城』で弑逆される佐々木孝丸の裡に、インターナショナルの訳詞者であるところの佐々木孝丸がおり、そしてさらにその深奥に君が代を歌う佐々木孝丸がいるのである。

 

 

三島由紀夫紀行文集 (岩波文庫)

三島由紀夫紀行文集 (岩波文庫)

 

 

 

若人よ蘇れ・黒蜥蜴 他一篇 (岩波文庫)

若人よ蘇れ・黒蜥蜴 他一篇 (岩波文庫)

 

 

 

三島由紀夫スポーツ論集 (岩波文庫)

三島由紀夫スポーツ論集 (岩波文庫)

 

 

 

誇り高き挑戦 [DVD]

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日本暴力団 組長

日本暴力団 組長

 

 

 

2018年に観た洋画ベストテン

2018年に観た洋画ベストテン。

1・クリント・イーストウッド15時17分、パリ行き』(2018、米)
2・クリント・イーストウッドトゥルー・クライム』(1999、米)
3・ビリー・ワイルダー『情婦』(1957、米)
4・ビリー・ワイルダー『ねえ! キスしてよ』(1964、米)
5・ビリー・ワイルダー『地獄の英雄』(1951、米)
6・ビリー・ワイルダー『あなただけ今晩は』(1963、米)
7・アキ・カウリスマキ希望のかなた』(2017、フィンランド・独)
8・ジム・ジャームッシュ『ミステリー・トレイン』(1989、米・日)
9・セルジオ・レオーネ『続・夕陽のガンマン 地獄の決斗』(1966、伊)
10・フリッツ・ラング『激怒』(1936、米)

1・クリント・イーストウッド(Clint Eastwood, 1930¬–)『15時17分、パリ行き』(The 15:17 to Paris、2018、米)
 2015年に発生したアムステルダム発パリ行きの高速鉄道におけるイスラーム過激派による銃乱射事件で、死者を出す前に犯人を取り押さえた三人のアメリカ人、スペンサー・ストーン、アレク・スカラトス、アンソニー・サドラーの生い立ちから、ヨーロッパ旅行、そして事件に至るまでを描く。一般的な伝記映画のように思えるが、この映画は非常に奇妙である。というのも、この三人を演じているのが本人達だからだ。さらにこの三人だけでなく、居合わせた乗客、乗務員、警察を演じるのもほとんどが実際に事件に居合わせた人々であり、撮影した車輌も実際に事件が起きた車輌を調達している。事件から数年の期間を経た当事者たちが本人役として当時のことを演じることによる虚構と現実の混淆、反覆の中に含まれる微妙な差異が効果を生み出している。
 スペンサーとアレクはシングルマザーの家庭に生まれ育ち、教師や生徒達から母子家庭の子として偏見を持たれていることに反撥して生活指導を繰り返されていた。そのうちに学校随一の問題児として度々校長室に呼び出されていたアンソニーと仲良くなる。
 学校を卒業後も3人の交流は続くが物理的には離れ離れとなる。特にスペンサーの人生は失敗続きであった。空軍に入隊した彼はエリート集団であるパラレスキュー部隊を志願するも、認定試験の最後にある立体視力の検査で異常が見つかり、第二志望に回される。そこの集団生活でトラブルを多発させ、救護班に回される。
 大人になった3人は長期休暇を取り、ヨーロッパ旅行へと向かう。そしてアムステルダムからパリに向かう途中で事件に遭遇する。この事件の顚末は映画の中ではほんのわずかを占めるに過ぎないが、これまでの3人の人生、経験の全てが一瞬にして試される場面となっている。スペンサーの度重なる挫折経験、不本意な人生選択も、無駄ではなかったことがここで明らかとなる(ジェフリー・E・スターンによってまとめられた原作のノンフィクション(田口俊樹・不二淑子訳、ハヤカワ文庫NF)では、この三人の少年時代だけでなく、「第四の少年」として実行犯であるアイユーブの少年時代も紹介されている。アイユーブはモロッコの貧困家庭の生活から抜け出すためヨーロッパに向かうも、差別に直面して過激派の思想に染まっていく。シャルリー・エブド襲撃事件を受けたフランスの世論が言論の自由ばかりを主張し、イスラームに対する侮辱の問題については一顧だにされなかったことに激怒してアイユーブは犯行に至ったという。しかしイーストウッドの映画ではアイユーブの生い立ちに関しては全く触れられていない。反テロリズム、反イスラームを標榜するのではなく3人の個人的な運命に焦点を当てることが目的とはいえ、欧米中心主義的な見方を内包していることは十分に注意されなければいけない)。
 宗教的とも言うべき人生観、運命観を標榜している映画であるが、3人の行動の最後の一押しをしているのは、高尚な概念・経験などではなく、実はインスタグラムである。アンソニーはインスタグラムにはまっており、ヨーロッパ旅行中もセルフィーを駆使してスマホに写真を取り溜めて、それをしょっちゅうインスタにアップしていた。列車に乗っていたときも、アンソニーは早く旅行先の写真をアップしたかったのだが、Wi-Fiの調子が悪かった。それで3人は事件の発生した先頭の一等車に移っていたのである。もしアンソニーがこれほどインスタにはまっていなかったら、いくら3人の人生経験が素晴らしいものであったとしても、この事件を防ぐことはできなかった訳である。最後になって不意に重要な役割を担うインスタグラムというアンバランスな装置が映画に珍妙な味わいをもたらしている。

2・クリント・イーストウッドトゥルー・クライム』(True Crime、1999、米)
 24時間後に無実かもしれない人間の死刑が執行されるというのに、映画は異様な緩慢さで進んでいく。
 かつてニューヨークの大手紙で敏腕として鳴らしていたものの、今は仕事も家庭も堕落した地方紙記者エベレット(イーストウッド)は、交通事故死した同僚のミシェルが担当していた仕事を引き継ぐ。それは黒人の死刑囚フランク・ビーチャム(イザイア・ワシントン)への最後のインタビューであった。ビーチャムは交際していたコンビニ店員を金銭トラブルで射殺したとして死刑を求刑されていたが、エベレットはビーチャムの家族や目撃者の取材の過程で、ビーチャムの善良な人柄を知り、目撃者が人種的偏見に囚われていることに気付く。彼は冤罪の可能性を嗅ぎつけ、不仲の編集長からの制止を振り切って調査を開始する。
 このようなあらすじだと、事件の真相については大方の予想がつくだろう。しかしながら『トゥルー・クライム』はありきたりのシナリオに何重にもひねりを加えた一筋縄ではいかない構成をとっており、アメリカの社会問題の複雑さを暗示している。

3・ビリー・ワイルダー(Billy Wilder, 1906–2002)『情婦』(Witness for the Prosecution、1957、米)
 ビリー・ワイルダーの脚本はなぜかくも面白いのか。本人が1987年度アカデミー賞のタルバーグ賞授与スピーチ(1988)で説明している。1933年、ユダヤ人だったワイルダーはドイツから亡命し、幸いにもハリウッドで仕事を得られたため短期ビザを取得して仕事をしていたが、期限はすぐにきれてしまった。永続的な移民ビザを手に入れるには、米墨国境を超えて、メヒカリの米国領事館に申請に行かなければならなかった。数多くの公式書類が必要なのだが、ナチス統治下のドイツからは取り寄せられない。書類をほとんど揃えていないワイルダーに対して、領事はどうにもしようがないと難色を示し、張り詰めた空気となる。しばらくして領事は、「職業は何だい」と尋ね、ワイルダーは「脚本を書いています」と答えた。審査官はワイルダーをじっくり眺め、値踏みするように彼の背後へ回る。そしてパスポートに大仰に移民許可のスタンプを押して言うには、「いいものを書けよ」。彼の期待に応えるために、ハリウッドのワイルダーは面白い脚本を書いてきたのだ。
 ワイルダーの脚本は、複雑な伏線を巧妙に張り巡らしながらも、娯楽に徹し観客の頭を疲れさせることは決してしない。社会に対する疑問を投げかけながらも、笑いを醸し出すことは忘れない。ヘイズ・コードがあった時代らしく上品にまとまっていながら、物語の内実は不道徳極まりない。今日のカルチュラル・スタディーズからみればクィアとも言える。
 原作と映画との優劣をつけることはあまり好ましい態度ではないが、『情婦』に関してだけは、アガサ・クリスティの原作短篇「検察側の証人」を完全に超えてしまっていると言い切ってしまっていいだろう。
 1950年代のロンドン、大御所弁護士のウィルフリッド卿(チャールズ・ロートン)は、病院を退院して事務所に戻ったが、付き添いの看護師から口うるさく生活指導をされるのに辟易している。復帰早々、未亡人殺しの嫌疑をかけられているレナードが弁護の依頼に来る。事件当日の彼のアリバイを実証できるのは、連合軍占領下のドイツから連れてきた妻のクリスティーネ(マレーネ・ディートリッヒ)だけであった。しかしクリスティーネは予想に反して、「検察側の証人」として法廷に立つ。
 映画の原題は小説と同じく『検察側の証人』であるため、『情婦』という邦題はかなりの意訳であるが、本当に情婦的だったのは果たして誰のことなのだろうか。

4・ビリー・ワイルダー『ねえ! キスしてよ』(Kiss Me, Stupid、1964、米)
 アメリカのとある田舎町に住む音楽家のスプーナーは、美人の妻と結婚しているが、誰かに奪われるのではないかといつも不安である。彼は音楽教室のかたわら、作曲家デビューを夢見ているが、作詞を手がけているガソリンスタンドの主人から、人気歌手のディノが町に通りがかりで給油にやってきたことを知らされる。二人はわざとディノの車を故障させ、スプーナーの家に泊まらせて歌を売り込もうとする。
 有頂天になったスプーナーであったが、ディノが女好きであるという噂を知り、妻を寝取られるのではないかと不安にかられる。彼は妻を実家に追い出し、妻と偽って娼婦のポリー(キム・ノヴァク)を連れてきてディノを相手にさせようとする。スプーナーの妻とポリーを除いてはどうしようもない人間ばかりなのだが、物語は巧みに展開され、ハッピーエンドを迎える。

5・ビリー・ワイルダー『地獄の英雄』(Ace in the Hole、1951、米)
 マスコミの過剰報道の問題を描いた先駆的作品。酒癖の悪さで都市部の大新聞社を追放されたチャールズ・テータム(カーク・ダグラス)は、地方紙で鬱々とした記者生活を送っており、特ダネを書いて大手紙に復帰することを狙っていた。そんな中、偶然チャールズは岩盤崩落事故の現場に遭遇する。実際のところ、簡単に救い出すことができたのだが、報道をセンセーショナルなものにするために、わざと困難な方法をとらせて救出を遅らせる。チャールズの目論見は成功するが、報道を聞いて現場に集まってきた群衆の慾望を制御できなくなってしまう……。

6・ビリー・ワイルダー『あなただけ今晩は』(Irma la Douce、1963、米)
 新米警官のネスター(ジャック・レモン)は、パリの風俗街の取り締まりを真面目にやってしまい、警察の上司が娼婦を買っていた最中に検挙してしまったことによって警察をクビになる。やけくそになったネスターは、風俗街のバーで元締めの大将と喧嘩するが、相手を打ち負かして、イルマ(シャーリー・マクレーン)のヒモとなる。しかしネスターはイルマに娼婦の仕事をして欲しくなく、自分が金持ちのイギリス紳士に扮して、イルマに大金を渡すようになる。しかしながら、そもそも彼の資金源はイルマの稼ぎであることに気づき、ネスターは資金繰りに困る。ネスターは新しいやり方を考案するが、自分が生み出したイギリス紳士のせいで面倒なこととなる。
 和田誠三谷幸喜の映画対談本『それはまた別の話』(文春文庫)はこの映画のバーテンダーの口癖にちなむ。

7・アキ・カウリスマキ(Aki Kaurismäki, 1957–)『希望のかなた』(Toivon tuolla puolen、2017、フィンランド・独)
 ヴィクストロムは妻と別れ、ヘルシンキでレストラン経営を始める。そこにシリア難民のカーリドが現れ、ヴィクストロムは彼を匿うこととなる。
 従来のカウリスマキ映画にはほとんど登場してこなかった排外主義団体がおおっぴらに暴力を振るってくるのは、今のヨーロッパ情勢を反映しているだろう。それでもこのような状況の中でもカウリスマキが映画を作ってくれることが今の希望である。
 
8・ジム・ジャームッシュ(Jim Jarmusch, 1953¬–)『ミステリー・トレイン』(Mystery Train、1989、米・日)
 エルヴィス・プレスリーが育ったメンフィスで、あのスクリーミン・ジェイ・ホーキンスが受付をしているホテルに泊まった3組の人物たちの一日を描くオムニバス映画。第一話「ファー・フロム・ヨコハマ」ではエルヴィス好きの永瀬正敏工藤夕貴カップルが主役である。
 3話とも同じ時間帯のことを描いている。見事な伏線回収というわけではなく、どうでもいいことが微妙につながっていくのが、なんともくだらない味を出している。

9・セルジオ・レオーネ(Sergio Leone, 1929–1989)『続・夕陽のガンマン 地獄の決斗』(Il buono, il brutto, il cattivo/The Good, the Bad and the Ugly、1966、伊)
 クリント・イーストウッドが世界的映画スターとなるきっかけとなったマカロニ・ウェスタンの三部作の最終作にしておそらく最高傑作だが、随分人を食った構成、演出である。
 南北戦争の最中、善玉(クリント・イーストウッド)と卑劣漢(イーライ・ウォラック)はコンビを組み、保安官を騙し賞金を稼いでいたが、善玉は卑劣漢が嫌いになりコンビ解消を申し出る。怒った卑劣漢は善玉を欺いて砂漠に置き去りにしようとするが、善玉が南軍の大量の金貨が隠された墓碑の名前を聞き出していたことを知る。卑劣漢は金貨を隠している墓地は知っているが、墓碑の名前は分からない。二人はまたコンビを組んで、駆け引きをしながら金貨を探す旅に出る。その二人の前に冷酷な殺し屋の悪玉(リー・ヴァン・クリーフ)が立ちはだかる。
 南北戦争の喧騒とは無関係に動くこの三人の合従連衡は、次第に戦争に飲み込まれていく。エンニオ・モリコーネの音楽で、作品の荒々しさ、ユーモアが増している。
 
10・フリッツ・ラング(Fritz Lang, 1890¬–1976)『激怒』(Fury、1936、米)
 フリッツ・ラングはドイツ時代の芸術的価値を見直された一方で、アメリカ時代の厖大なB級映画群はやや等閑視されているきらいがある。アメリカ時代の作品を見直すことによって、フリッツ・ラングの再々評価を行う必要があるのではないだろうか。
 結婚する余裕ができたジョー(スペンサー・トレイシー)は、西部で暮らしている許嫁キャサリンシルヴィア・シドニー)の元へと向かう。しかし途中で誘拐犯の濡れ衣を着せられ、警察署に拘留される。さらに暴徒化した町の住民たちがリンチを加えるために警察署を襲い、放火する。放火から辛くも逃げ出したジョーは、復讐を遂げるために身を隠す。彼は22人の町の住民たちが殺人容疑の裁判にかけられるラジオ放送を聞きながら嘲笑い、死刑判決が下されるのを待ち望む。
 ドイツ時代の『M』(1931)と同じテーマを、『激怒』はさらに苛烈に展開する。それでいて、二律背反的な構造を巧みに使い、深刻な場面でもギャグをしっかり入れてくるところはやはり上手い。

2018年に観た邦画ベストテン

2018年に観た邦画ベストテン。

1・是枝裕和『誰も知らない』(2004)
2・是枝裕和そして父になる』(2013)
3・是枝裕和『歩いても 歩いても』(2008)
4・黒沢清『CURE』(1997)
5・黒沢清トウキョウソナタ』(2008)
6・黒沢清クリーピー 偽りの隣人』(2016)
7・黒沢清散歩する侵略者』(2017)
8・鈴木清順ツィゴイネルワイゼン』(1980)
9・深作欣二『やくざの墓場 くちなしの花』(1976)
10・周防正行『ファンシイダンス』(1989)

1・是枝裕和(1962-)『誰も知らない』(2004)
 2004年度のカンヌ国際映画祭において、主演の柳楽優弥が審査委員長のクエンティン・タランティーノから絶讃され、日本人初にして世界最年少の主演男優賞を受賞した。その光の部分が世間の話題となっただけに、一層『誰の知らない』の持つ陰鬱さを忘れてはならない。
『誰も知らない』は1988年に東京都内で発覚した、児童扶養放棄事件を題材にしている。都内のアパートに引っ越しきた母親(YOU)と息子の明(柳楽優弥)は、他に次男と二人の娘を他の住民に隠して入居してきていた。明以外は部屋から出ることは禁じられている。つまり学校には通っていない。
やがて母親は遠くに仕事に行くと言ったきり姿を消す。明は金の工面のために複数の父親に会いに行くが、冷淡に扱われる。水道や電気も止まり、四人の生活は困窮していく。
 児童相談所や警察に行けば済むことではないかという批判が当然起こりうるだろう。確かに明は四人で一緒に暮らしたいという思いから児相と警察に行くことを拒絶しているものの、四人同士の連絡については何らかの配慮はあるであろうし、社会の福祉システムに頼った方が、四人の現状の暮らしよりも幸せであることは確実である。『万引き家族』(2018)でもそうだが、世間の良識派はこのような観点から是枝作品を嫌っていると言える。だがここで注意しなければならないのは、児相や警察に行けば解決するという常識は、我々が社会で教育を受けられてきたからこそ身についているということである。生まれたときから部屋に閉じ込められ、母親から学校に行く必要がないと言われ続けていれば、このような一見当たり前の発想がうまれることはない。
 子供たちがそもそも知らないことに関して知らないのが本当の問題なのではない。コンビニの店員やアパートの大家などは、明らかに異変に勘付いているが、大した行動を起こすことはない。知っているはずの周りの誰もが、自分は知らない、見ていないと思い込もうとしていることこそが問題なのである。
 
2・是枝裕和そして父になる』(2013)
 『誰も知らない』と同じく、実際にあった幼児取り違え事件を題材にしている。
 都内の大手建築会社に勤める野々宮夫婦(福山雅治尾野真千子)の一人息子が私立の小学校に入学した直後に、前橋の病院からの連絡で取り違えが発覚する。相手の家族は前橋で電気屋を営む斎木夫婦(リリー・フランキー真木よう子)とその三人の子供らであった。
 病院に対する訴訟と並行して、二家族は今まで育ててきた子を育てていくか、血の繋がった家族に戻すかどうかの選択を迫られる。判断の材料とするために親子交流が開始される。過去の事例では、血の繋がっている子供を選ぶことがほとんどであるという説明を受けても、野々宮家の父は今まで育ててきた子を渡そうとはせず、斎木家の父に対する階級的・人格的な嫌悪感をあらわにする。
 はじめは立派な父親のようにみえた福山雅治が、次第にエリート的ないやらしさを露呈していくが、母親や子供達、そして見下していたはずのリリー・フランキーとの交流によって、父親とは何かについて自省を深めていく。

3・是枝裕和『歩いても 歩いても』(2008)
 ある夏の日、恭平(原田芳雄)ととし子(樹木希林)の老夫婦の家に、海難救助のために亡くなった長男の命日に合わせ、娘(YOU)と次男(阿部寛)がそれぞれの家族を連れて帰省する。父の恭平は医院を辞めたが、なお診察室で日中を過ごしている。父と反りが合わない次男は、再婚したばかりの子連れの妻(夏川結衣)の紹介のために渋々帰ってきていた。
 『誰も知らない』や『そして父になる』とは異なり、普通の家族を描いている。それだけに何気ない言動から時折露出する個人の本音が棘のように刺さる。
 
4・黒沢清(1955-)『CURE』(1997)
 
 普通のホラー映画は心臓に負担を強いるだけだが、黒沢清のホラー映画、特に『CURE』は脳髄を蝕んでいく。
『CURE』の冒頭の数分は全てが異常である。とある精神科の診察室のシーンから始まるが、椅子といい、人物配置といい、あらゆる構図が異様な雰囲気を醸し出している。本を読んでいた患者と医師とが青髭伝説に関して謎めいた話を交わした後に、メルヘン調の音楽が流れ始め、中年の男が歩く姿が映される。男は隧道に入ってパイプをもぎ取り、明滅する隧道の灯りがクローズアップされる。場面は暗いホテルの一室に移り、部屋を歩き廻っていた男が不意にパイプを握ってベッド上の女を殴打する。風呂場に移り、激しいシャワーの音とともに男の激しい動きのシルエットが見える浴槽から鮮血が滴り落ち、最後に煌々と赤いサイレンを鳴らしながら気怠げにパトカーを運転する役所広司の顔が映る。目まぐるしく変わるシーンと明暗とが強烈な印象を残す。
 頸元にXの切り傷をつける猟奇殺人事件が連続して発生する。それぞれの犯人は容易に特定できたものの、誰も自分の犯行動機を説明できなかった。不審に感じた高部(役所広司)が捜査を開始し、実行犯達が犯行の直前にとある男と会っていたこと気づく。催眠や動物磁気といったオカルティズム的概念を映像に結実させ、観ている者の頭をも狂わせていく。

5・黒沢清トウキョウソナタ』(2008、オランダ・香港と合作)

 タイトルやオープニングシーン、物語展開からして、エドワード・ヤンの『台北ストーリー』(1985、台湾)との関連が明らかである(と思うのだが、『台北ストーリー』が日本で一般上映されたのは2017年なので、黒沢清が実際にどこかで観ていたのかどうかはよくわからない)。
 一流メーカーの人事に勤めていた竜平(香川照之)は、人員削減の煽りを受けて会社を解雇される。家族には会社に行くふりをしてハローワークに通うが、プライドが邪魔をして苦戦する。一方で、大学生の長男は日本での生活に疑問を感じ、頼りない父のようになりたくないと、竜平の反対を押し切り米軍の外国人部隊に志願し中東戦線へ赴く。そして小学生の次男は母(小泉今日子)からもらっている給食費を、隠れて通っているピアノ教室の月謝にあてている。ピアノ教室の先生から音大附属校受験を薦められるが父から反対される。
 平成の不況下における父性の崩壊と家族の解体を描く。ありきたりの家族をリアリズム的に描いていても、やはり黒沢映画は怖い。
 
6・黒沢清クリーピー 偽りの隣人』(2016)
 原作は日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した前川裕の『クリーピー』(光文社文庫)。北九州連続殺人事件を題材にしたとされる。
 刑事を辞職した高倉(西島英俊)は大学の犯罪心理学の教授となり、妻(竹内結子)とともに郊外の一軒家に引っ越してくるが、その隣人である西野(香川照之)の言動の端々を不審に感じる。
 警察からは身を引いていた高倉であったが、部下であった野上(東出昌大)から未解決の一家失踪事件の調査を頼まれ、修学旅行に行っていたため一人残された長女(川口春奈)の曖昧な記憶を引き出すカウンセリングを引き受ける。その捜査の最中、事件があった家と、自分の家との構図が奇妙に一致していることに気付く。
 日常的な風景が、ヒッチコック的な隣人恐怖を媒介にして、次第に黒沢清特有の異常な構図に侵食されていくのがたまらない。
 

7・黒沢清散歩する侵略者』(2017)
 劇団イキウメの前川知大脚本の舞台の映画化。
鳴海(長澤まさみ)は喧嘩中に突然失踪した夫(松田龍平)を病院に迎えにいったが、様子がおかしい。自分は夫の身体を乗っ取った宇宙からの侵略者であり、地球人の頭にある概念を盗んで学習しているのだという。鳴海は夫の言動に戸惑いながらも、失踪前よりも優しくなった夫に心を惹かれていかざるを得ない。街には他の侵略者が密かに乗り込んでおり、ガラの悪いゴシップ記者(長谷川博巳)がこの異変を追っている。
 生物学的恐怖を醸し出しながら、社会批判とロマンスをユーモラスに展開している。

8・鈴木清順(1923-2017)『ツィゴイネルワイゼン』(1980)
 内田百閒の短篇小説『サラサーテの盤』などが原作。百閒の文章とはまた違う清順美学で貫かれている。
 士官学校の獨逸語教授の青地(藤田敏八)は、元同僚で流浪の生活を送っている中砂(原田芳雄)から、1904年録音のサラサーテ演奏の「ツィゴイネルワイゼン」のレコードを聴かされる。途中でサラサーテの声が混じっており、何を喋っているのかを教えて欲しいというのだが、青地にも聞き取れない。この聞き取れないサラサーテの声のように、青地夫妻と中砂の遺族をめぐる物語は意味が不明瞭なままに進んでいく。意味は曖昧ながらも絢爛たる映像が、微妙な差異を伴いながら地獄のように反覆される。

9・深作欣二(1930-2003)『やくざの墓場 くちなしの花』(1976)
県警対組織暴力』(1975)における暴力団と警察の癒着というテーマを哀切に反復している。脚本は『仁義なき戦い』の笠原和夫
 激化する暴力団抗争を食い止めるため、喧嘩っ早いマル暴刑事の黒岩(渡哲也)が暴力的な阻止を試みるが、次第に片方の組に肩入れするようになる。スタンドプレイで抗争に介入する黒岩は、警察上部から疎まれ、薬物に溺れていく。
 大島渚が警察の本部長役で特別出演しており、当たり障りのないことを棒読みしているのも見どころ。

10・周防正行(1956-)『ファンシイダンス』(1989)
 周防正行が熱狂的な小津安二郎マニアであることはよく知られているが、商業映画デビュー作である『ファンシイダンス』は(大杉漣笠智衆の物真似に徹したあの怪作は除くとすると)最も小津の影響が色濃い。
 実家の寺を継がなければならない陽平(元木雅弘)は、バブル絶頂期の大学生活から離れ、お寺に修行に赴くこととなった。陽平が諸々の慾望を断ち切れず戒律を破っていくというコメディであるとともに、綿密な寺院修行のドキュメンタリーである。原作は岡野玲子の漫画『ファンシィダンス』(小学館文庫)。

2017年に観た映画のベストテン

2017年に観た映画のベストテン。

(洋画)
1・クリント・イーストウッドハドソン川の奇跡』(2016、米)
2・クリント・イーストウッド硫黄島からの手紙』(2006、米)
3・クリント・イーストウッドグラン・トリノ』(2008、米)
4・フリッツ・ラング『怪人マブゼ博士(マブゼ博士の遺言)』(1933、独)
5・フリッツ・ラングブルー・ガーディニア』(1953、米)
6・ビリー・ワイルダーお熱いのがお好き』(1959、米)
7・ビリー・ワイルダー第十七捕虜収容所』(1953、米)
8・ウディ・アレンミッドナイト・イン・パリ』(2011、米)
9・ウディ・アレンおいしい生活』(2000、米)
10・ジム・ジャームッシュ『コーヒー&シガレッツ』(2003、米)

(邦画)
1・北野武キッズ・リターン』(1996)
2・北野武その男、凶暴につき』(1989)
3・北野武3-4X10月』(1990)
4・北野武あの夏、いちばん静かな海。』(1991)
5・北野武ソナチネ』(1993)
6・北野武HANA-BI』(1998)
7・周防正行それでもボクはやってない』(2007)
8・佐藤純彌新幹線大爆破』(1975)
9・若松孝二実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2003)
10・深作欣二復活の日』(1980)

1・クリント・イーストウッド(1930生)『ハドソン川の奇跡』(2016、米)
 近年のイーストウッド映画作家や芸術家というよりも職人を思わせる。『ハドソン川の奇跡』は特に簡勁を極めている。日本でも話題になった2009年のUSエアウェイズ1549便のバードストライクによる不時着水を題材にしている。一人の死傷者も出さなかったサレンバーガー機長(トム・ハンクス)は事故調査において、着水は危険であった、空港に引き返すべきであったと厳しく追窮される。
 若干90分余で素晴らしい人間が完璧に彫琢されている。

2・クリント・イーストウッド硫黄島からの手紙』(2006、米)
 イーストウッドが『父親たちの星条旗』(2006、米)製作中に、日本側の視点にたった映画を製作したくなったために撮影された。音楽は監督の長男でジャズベーシストのカイル・イーストウッド
断絶を強く意識させる。硫黄島と本土の連絡は遮断され、兵士と家族を結ぶ手紙は届くことはない。そして作戦を指揮した栗林忠道中将(渡辺謙)は米国滞在経験もある親米派であった。アメリカを知っていたからこそ、塹壕作戦で米軍を地獄に陥れることとなった。中将がアメリカとの繋がりを取り戻す機会は訪れることはなかった。
 出色は一等兵・西郷役の二宮和也だ。パン屋の仕事は憲兵に潰され、応召後は上官の理不尽にうんざりしている西郷は無気力に陥り、日本の負けを望むようなことも呟く。しかし人格者である栗林中将とのわずかなふれあいの中で、徐々に希望を見出して行く。無気力さの難しい演技もさることながら、そこからの立ち直りが全く胡散臭くない。

3・クリント・イーストウッドグラン・トリノ』(2008、米)
 偏屈な老人(イーストウッド)とモン族との交流を描く。アメリカの光が強く照らされているからこそ底知れぬ闇も見えてくる。

4・フリッツ・ラング(1890-1976)『怪人マブゼ博士(マブゼ博士の遺言)』(1933、独)
 公開の1933年にヒトラーが政権を掌握した。『怪人マブゼ博士』はドイツ国内で上映禁止となる。ラングは宣伝相ゲッベルスからナチスプロパガンダ映画製作を期待されたが亡命を選ぶ。『怪人マブゼ博士』には直接的な関係はないが、ナチス時代を予感させる。
 前篇はサイレント映画ドクトル・マブゼ』(1922、独)である。前作で催眠術を駆使し金融犯罪を企てていたマブゼ博士は発狂し、精神病院に入れられ、世間の人々は博士を忘れ去っていた。彼は独房で意味不明の走り書きを記し続けていた。そんな中、目的が不明の不穏な完全犯罪が企てられていることを警察が察知する。これほどの完璧な犯罪計画を仕立て上げられる頭脳を持つのは、マブゼ博士しか存在しないはずであった。
 謎の多いシナリオ、人間の異常心理、グロテスクな視聴覚表現は、ドイツ表現主義の極北である。

5・フリッツ・ラングブルー・ガーディニア』(1953、米)
 ドイツから亡命したラングはアメリカへ渡り、反ナチスプロパガンダ映画やフィルム・ノワール、B級低予算映画を監督し、視力悪化のため1960年に引退した。ゴダールの『軽蔑』(1965)では本人役で出演している。
ブルー・ガーディニア』はフィルム・ノワールの雰囲気を漂わせながらも、心温まる。電話交換手ノーラ(アン・バクスター)は朝鮮戦争出兵中の恋人から手紙で他の女との結婚を告げられる。傷心したノーラはバーで酒を煽るが、そこに画家のハリー(レイモンド・バー)が言い寄ってくる。ハリーの勧めるカクテル「ポリネシアン・パール・ダイヴァー」を飲んでいるうちにノーラは意識が遠のいていく(このカクテルはタランティーノ『ジャンゴ 繋がれざる者』(2012、米)にも出てくる)。
 ハリーはノーラを自宅に連れ帰り、乱暴しようとする。我に返ったノーラは火かき棒を無我夢中で振り上げるも意識を失う。目醒めたときには男は死んでいた。自分が殺したという疑惑にとらわれながら、彼女は新聞記者(リチャード・コンテ)に無実を訴え助けを求めようとする。当時の女性を取り巻く偏見、報道批判を交えた、サスペンスフルな上質の人間ドラマとなっている。バーで『ブルー・ガーディニア』を歌うジャズ・ピアニストのナット・キング・コールが憎い演出だ。

6・ビリー・ワイルダー(1906-2002)『お熱いのがお好き』(1959、米)

(ネタバレあり)

 マリリン・モンローの紹介の時には必ず流れる"I wanna be loved by you"が有名なコメディ映画。
禁酒法時代のシカゴはマフィアが跋扈していた。サックス奏者のジョー(トニー・カーティス)とベース奏者のジェリー(ジャック・レモン)は暗殺現場に居合わせてしまったために追われる身となる。シカゴを離れるにはフロリダに向かうジャズバンドの欠員に応募するしか方法がなかったが、それは女性限定であった。仕方なく二人は女装して入団する。
 楽団内でジョーは歌手のシュガー(モンロー)に惹かれる。一方のジェリーは大富豪の男オズグッド3世(ジョー・E・ブラウン)に一目惚れされてしまう。ジョーはロイヤルダッチシェル石油の御曹司に変装して、シュガーにアプローチする作戦をとる。結局ジョーは女装をやめて、二人は男女として「正常に」結ばれる。
 かたやジェリーはオズグッドに求婚される。財産目当てのジェリーも満更ではなかったが、本当の結婚は気がひける。オズグッドに結婚できない理由を並べたてる。「本当は金髪じゃないの」「構わん」「タバコを吸うわ」「気にしないよ」「実は男とずっと同居してたのよ!」「許すよ」「私、子供が産めないの!」「養子をもらおう」「ああ、分かって……(カツラをとって)俺は男だ」それに対してオズグッドは平然と「まあ、完璧な人間なんていないよ」と言ってのける。いつの間にか同性であることも、諸々のちょっとした欠点の一つとして片付けられている。コメディとはいえ、当時としてはここまで大胆にホモセクシュアルな関係を描いたことにワイルダーの凄さを感じる。ハリウッド映画屈指の名台詞・脚本であるとともに、現代のクィア批評からしても興味深い作品である。

7・ビリー・ワイルダー第十七捕虜収容所』(1953、米)
 第二次大戦末期のドイツにあったアメリカ人捕虜収容所が舞台だ。アメリカ人たちは収容所内で脱走の手助けなどを計画していたが、ドイツ側に情報が流れていた。皆がこの中にナチスのスパイがいると信じ、ドイツ人相手に商売をして飄々と儲けているセフトン(ウィリアム・ホールデン)に疑いの目を向ける。
 ワイルダーは親族をアウシュヴィッツで殺されている。それにも関わらず収容所のナチスはコミカルであり、アメリカ人とも掛け合っている。その様子が無駄のない脚本で描かれる。

8・ウディ・アレン(1935生)『ミッドナイト・イン・パリ』(2011、米)
 脚本家で小説家志望のジル(オーウェン・ウィルソン)は、婚約者と義理の両親とともにパリへ旅行する。義父といまいち相性が合わないジルは真夜中、酔っ払っていたところ、アンティークカーに乗せられる。着いたのは1920年代のパリであった。
 アーネスト・ヘミングウェイスコット・フィッツジェラルドガートルード・スタインコール・ポータールイス・ブニュエルパブロ・ピカソたちにまみえるのは文化好きの夢である。さらにジルはヘミングウェイに小説のアドバイスもしてもらう。ヘミングウェイの指摘の鋭さに思わず唸る。

9・ウディ・アレンおいしい生活』(2000、米)
 ウディ・アレンは基本的に一年に一作のペースで監督しているが、だいたい不入りである。『ミッドナイト・イン・パリ』は例外中の例外だ。『おいしい生活』も数多い失敗作の一つとされる。邦題は、ウディを起用した西武百貨店のキャッチコピーにちなむものだろう。
 ムショ帰りのレイ(ウディ・アレン)はまた仲間達と銀行強盗を企てる。トンネルを掘るかたわら、偽装工作のために妻(トレイシー・ウルマン)にクッキー屋をオープンさせるが、それが大繁盛してしまう。夫妻は製菓会社を興して大富豪となるが、妻は上流階級との文化的格差に愕然とし、必死で財産に見合った教養を身につけようとする。夫はそれについていくことができず、距離が生まれる。
 夫妻の豪邸の内装は最初、夫の意向で金ピカになっているが、妻は成金趣味だとして青を基調としたデザインに変えようとする。この二人の感覚で思い出すのが、ホワイトハウスのカーテンを真紅にしていたオバマと、入居時にそれを金ピカに変えたトランプである。
 過去の庶民的生活を懐かしむウディはこう嘯く。「教養や名声がなんだ、俺はコーラが飲めればそれでいいんだ」大多数のアメリカ人の偽らざる心情という気がする。

10・ジム・ジャームッシュ(1953生)『コーヒー&シガレッツ』(2003、米)
 新作の『パターソン』(2016、米独仏)も良かったが、やはりジャームッシュはモノクロ映画が至高である。コーヒーと煙草で雑談する11エピソードをまとめただけなのだが、ミニマリズムがクセになる。ロベルト・ベニーニビル・マーレイといった名優、イギー・ポップトム・ウェイツといったミュージシャン、それにコーヒーの黒、煙草の白が絶妙なコントラストをなしている。

1・北野武(1947生)『キッズ・リターン』(1996)
 北野映画には「きれいはきたない、きたないはきれい」という撞着語法がよく似合う。社会的によしとされる人間達から滲み出る凡庸さ、処世術にうんざりしてしまう。一方で、どうしようもなく愚劣な人間が一瞬放つ美しさが永遠に忘れられない。
 落ちこぼれ高校生のマサル金子賢)とシンジ(安藤政信)はカツアゲと酒、煙草に明け暮れ、退学寸前になっていた。そんな中、マサルはボクサーにカツアゲの仕返しをされる。落ち込んだマサルは弟分のシンジも誘い、ボクシングジムに通い始める。
素質があったのは誘われたシンジの方であった。シンジは快進撃を続け、プロを目指す。一方のマサルはジムを辞め、ラーメン店で知り合ったやくざの組に入っていた。
 才能のない若者を描く残酷さは容赦ない。それでいてなぜか清涼感がある。

2・北野武その男、凶暴につき』(1989)
 監督デビュー作。スケジュール上の都合で降板した深作欣二に代わり、主演とともに急遽監督を引き受けた。この偶然がなければ、監督としての才能は埋もれたままであっただろう(俳優としては『戦場のメリークリスマス』などですでに評価されていた)。
 冒頭の数分で、武がほぼ完全に作家性を確立していることがわかる。少年達の陰湿なホームレス狩り、少年の家に乗り込み暴力で自白を強要する吾妻(ビートたけし)。そして全篇にわたり延々と続く吾妻の歩行シーンが映画の性格を規定している。ただし本人は、尺が足りなかったから歩いただけだよ、と言い訳している。
 警察署の上層部から疎まれている暴力刑事の吾妻(ビートたけし)は、麻薬の密売を追窮するうちに、警察から横流しされていることに気付く。絵画を思わせるフィックスと長回し、叙情的シーンから唐突に湧き出る暴力が吾妻の孤独な闘いと生き方を表現している。のちの北野映画では久石譲の音楽が用いられるが、本作ではエリック・サティの音楽が用いられ、不穏な雰囲気を醸し出している。

3・北野武3-4X10月(さんたいよんえっくすじゅうがつ)』(1990)
 草野球チームに所属している万年ベンチの雅樹(小野昌彦、柳ユーレイ)は、勤務先のガソリンスタンドでやくざに因縁をつけられる。復讐のために野球チームの和男(飯塚実、ダンカン)とともに拳銃を求めに沖縄へと向かう。
 野球メンバーがたけし軍団というのもあってか、どことなくユーモラスな雰囲気が出ている。だが絶望がユーモアを押し殺してしまう。

4・北野武あの夏、いちばん静かな海。』(1991)
 北野映画は台詞が少ない。この作品に至っては主人公の二人は一言も発することはない。勘のいい人ならばどういうことかすぐ気付くのだろうが、うっかりしていると理由が明言される中盤まで奇異な感覚に囚われる。ある種のサイレント映画となっている。
 ゴミ収集業者で働く茂(真木蔵人)は、ゴミ捨て場で見つけたサーフボードに惹かれ、独学でサーフィンを始める。恋人の貴子(大島弘子)が砂浜からそれを見守る。世界は二人に対してそれほど優しくはないのだが、美しい。

5・北野武ソナチネ』(1993)
 ゴダールの『気狂いピエロ』(1965)の影響を受けた作品。パリから南仏へ逃避行に赴いたアンナ・カリーナジャン=ポール・ベルモンドのように、東京のやくざ達が沖縄へと南下する。
 東京の暴力団北島組傘下の村川組組長(ビートたけし)は、沖縄の暴力団との抗争を手打ちにすることを頼まれ、組員とともに沖縄へと向かう。抗争は想像を絶する激しさであり、市街から離れた海辺の隠れ家に潜伏することとなる。やくざ達は暇を持て余し、これまでの血で血を洗う抗争から一転、童心に戻って遊びを満喫する。
 暴力と遊びの落差が異様な印象を与える。海辺ではしゃぐたけしが時折見せる真顔のアップは死相にも感じられる。翌年、武はオートバイ事故で生死をさまよう。顔面麻痺が残るなか行われた退院会見では手首に数珠を巻いていた。原節子から贈られたものである。

6・北野武HANA-BI』(1998)
 同僚刑事を殺した犯人に対して怒りに任せて銃を乱射したことにより(おそらく)懲戒免職となった西(ビートたけし)は破滅へと突き進む。それは娘を亡くし、自らも余命幾ばくもない妻(岸本加世子)を喜ばすためであった。
 破滅へ向かうかたわら西は、下半身不随となり妻子に去られた元同僚の堀部(大杉漣)が絵を描くことを手助けしていた。堀部は次第に芸術に目覚めていく。西と堀部はオートバイ事故後の武の相反する自画像となっている。

7・周防正行(1956生)『それでもボクはやってない』(2007)
 痴漢の疑いを掛けられたフリーターの青年(加瀬亮)が容疑の否認を貫いてから、裁判の判決に至るまでを描き、日本の刑事司法の問題を抉っている。痴漢冤罪というと粗暴な言説が飛び交いがちだが、本作は丁寧に作られている。

8・佐藤純彌(1932生)『新幹線大爆破』(1975)
 新幹線が時速80キロに落ちると稼動する爆弾を仕掛けたというアイデアですでにこの映画は決まっている。
 国鉄の運転指令室長は宇津井健国鉄総裁は志村喬、警察には丹波哲郎、爆弾を仕掛けられたひかり109号の運転手は千葉真一(救援に向かう新幹線の運転手は弟の矢吹二朗)、そして主犯は高倉健という恐ろしいキャストだ。
 新幹線に爆弾を仕掛けたことを証明するために高倉健は、新幹線とは対照的な夕張の炭鉱汽車を爆破する。また、三人の犯人が零細町工場の元経営者、左翼学生崩れ、沖縄からの集団就職者であること、乗客救出と犯人逮捕の優劣をめぐる国鉄と警察の対立といった社会批判的要素もあるものの、乗客のパニック、国鉄技術者の苦闘、警察の知力を尽くした全国捜査、犯人との駆け引きといったサスペンスで十分に娯楽映画として楽しめる。
 監督の佐藤純彌(『新幹線大爆破』のタイトルクレジットでは佐藤純弥)は東大仏文科卒。兄はロシア語学者の佐藤純一・東大名誉教授。現在『キネマ旬報』にて回顧談『映画(シネマ)よ憤怒の河を渉れ』を連載中。

9・若松孝二(1936-2012)『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』(2003)
 あさま山荘事件に至るまでの連合赤軍兵士達の同志連続リンチ事件を描く。左翼シンパであったからこその痛烈な批判である。

10・深作欣二(1930-2003)『復活の日』(1980)
 興行的には大ヒットしながらも批評家からは酷評された。それに落ち込んだのか、プロデューサーの角川春樹は大作路線からアイドル路線へと転換した。突っ込みどころは多々あるが、これほどの破格のスケールで展開される日本映画は存在しないだろう。
 東ドイツの手に渡った生物兵器MM-88が手違いにより空気中へ放出され、世界中の生命は壊滅した。残されたのはウイルスの活動できない極寒の南極基地の人間達だけであった。黙示録的な世界観を貫くのは人類文明への問いである。原作は小松左京